序章「森の魔法使い」
序章「森の魔法使い」
何百何千の木々が息づく、暗い、暗い森の中。
ルーギス・メレーナは五年ぶりにここを訪れた。その容姿は一見若々しいが、四百年は生きていて、森の造りにも詳しい。後ろに一人連れて、軽快な足取りであった。
静寂に呑まれた森の奥にあるのは、小さな屋敷だ。塗装は剥がれ、みすぼらしい。
苔や蔓の這う門を抜ければ、放置された庭が出迎えてくれる。
玄関までの道を邪魔する雑草を断ちながら進めば、また一層ぼろさ際立つ扉が現れた。何度か叩くと見た目よりも頑丈だと分かり、屋敷内に音が響く。
エルフの声帯から発せられた声はよく通る。ぼろ屋敷なら尚更であった。
「シン。シン・ライトニング氏はいるか」
ドア越しに人の名を呼んだ。
この屋敷の主の名である。同時に、傍若無人の魔女として名を轟かせたイスタル・ライトニングの、一番弟子でもある。イスタルと共に街では魔法の流布、都では学会にて技術発展に努めていた。
数年前にイスタルが亡くなって以来、残ったシンが実質、屋敷の主となった。
直に、扉を軋ませて顔を出したのは、髭を蓄えた男だ。
髪も伸び、屋敷に相応しい見た目をしている。
「……誰かと思えば」
ぬっと体を曝せば、背丈はある。
ルーギスは少し顎を上げた。
「やぁ」
「やぁ、ではないが。久しいな。少し老けて……はいないな」
「惚れてくれるなよぉ」
「まぁ立ち話もなんだから、上がっていくといい」
「や、それは結構。用事があってね。都へ向かわなければならない」
屋敷の主の顔が険しくなる。
「ならなぜ」
「一つ、頼まれごとをされてみないかい?」
言うや否や、さっと身を退かして、背後の人物と対面させた。
ルーギスの後ろにいたのは、長い金髪の小柄な女子であった。
うら若いという言葉が似合う。小奇麗なウグイス色の服装から落ち着いた雰囲気を醸し出し、じっと見つめれば恥ずかしそうに顔を伏せる。
屋敷の主はその女子から目を離し、ルーギスの方を向いた。
「覚えてない? キミらが街で魔法を教えていた生徒の一人だよ」
「そう、なのか」
「もうしばらく前の事だね。記憶になくとも、仕方はないだろうけど」
「それで、頼まれごととはなんだ。薬草か、書物か」
「それは」
ルーギスの言葉を遮り、人形のように静かにしていた女子が、ばっと顔を上げた。長いまつげを揺らし、小さな口を精一杯広げた。
「あ、あのっ、先生」
屋敷の主は面食らい、ただただ聞くだけであった。
「私、近くの街に住むアンナ・ロマンって言います。覚えていらっしゃらないとは思いますが、昔イスタル先生とシン先生から魔法を教わっていました。あれからも勉強を続けて、魔法の基礎を習得しましたので、こうして訪ねさせていただきました」
よく喋る子であった。
「ロマン……服屋の、子だったか」
「! はいっ!」
「大きくなったな」
髭を弄る屋敷の主の前で、アンナは頬を染める。
えへへと笑むアンナからまたルーギスに視線を向けた。
「で、頼まれごととは」
「聞いていなかったのか。察しなよ、弟子にしてほしいのだと」
「弟子だと?」
屋敷の主は眉をひそめた。
「ははは、そりゃ面白い。そうか、弟子ときたか」
乾いた笑いの後、アンナを見れば、濁りの無い煌びやかな眼差しに当てられる。
「ロマンさん、と言ったか。すまないが君のことはあまり覚えていない。なにせここ数年、人とまともに話していないものだからすっかり呆けてしまってね。いや申し訳ない」
「そんな、謝られるようなことでは」
「弟子か。ありがたい話だ。我が師であるイスタルの偉大なる魔法のその術を、後世に伝える役目を担う日が来ようとは。ははは。ではさらばだ。余所に頼むといい」
そう言って、流れるように屋敷の中へと戻っていく。
バタンと閉まった扉を前に、アンナは口をトカゲのようにして、突っ立つほかない。
横ではルーギスが長い鼻息を吐く。
こうなることはルーギスには予想がついていた。
屋敷の主――シン・ライトニングは、その師であるイスタル・ライトニングがりんごを喉に詰まらせて亡くなって以来、とんだひねくれ者になってしまったのだから。