冷戦時の「五一大綱」から冷戦後の「〇七大綱」、そして9.11テロ後の「新防衛大綱」へと移り変わる日本の防衛大綱の変遷
江畑謙介『日本の防衛戦略』(2007年、ダイヤモンド社)第一章部分より、戦後の自衛隊の防衛計画の変遷とその内容についてのまとめ。
冷戦時の「五一大綱」から冷戦後の「〇七大綱」、そして9.11テロ後の「新防衛大綱」へと移り変わる日本の防衛大綱の変遷について。
● 「防衛計画の大綱」
自衛隊装備の方向性(内容)と調達数、すなわちどのような種類の装備(戦車や戦闘機、潜水艦など)を何個の部隊として保有し、その装備はどのくらいの量が調達されるのかという指針は「防衛計画の大綱」によって規定される。
基本的にはこの「大綱」(根本的な事柄、おおもと。大要)の指針に従って開発、調達が行われる。
● 「一次防」から「四次防」を経て「五一大綱」の制定
この「防衛計画の大綱」とは、1967年(昭和51)からさ移用された防衛計画の基本方針のこと。
それまでは「第○○次防衛力整備計画の大綱」によって整備方針が規定されてきた。
「第一次防衛整備計画」(正式には「防衛力の整備目標について」と称された)は、
1957年(昭和32)から1961年(昭和36)までで、
1957年に閣議決定された「国防の基本方針」に基づいて必要とされる防衛力の整備目標が定められた。(通称「一次防」)
以後、
1961年(昭和36)に、「第二次防衛力整備計画について」(この第二次から「整備計画」の言葉が使われるようになった)、
1966年(昭和41)に、「第三次防衛力整備計画の大綱」(この三次防から「大綱」の文字が登場する)、
1972年(昭和47)に、「第四次防衛力整備計画の大綱」(四次防)が定められた。
ところが四次防は、制定翌年の秋、1973年(昭和48)10月に、「第四次中東戦争」を契機としてアラブ産油国により、原油輸出を制限する石油戦略発動が発動されて、いわゆる「第一次石油ショック」が起こり、開発費、調達価格、運用経費などが高騰したため、大綱に定められた整備目標の達成が不可能になってしまう。
● 「五一大綱」における「中期防」(中業方式)の採用
ここから四次防は期間中途にして1976年(昭和51)に「昭和52年度以降に係る防衛計画の大綱について」(五一大綱)という新たな防衛整備計画の指針としてまとめ直されることとなったが、
「五一大綱」は、経済状態の見通しが立てにくいことから、当面は毎年度防衛力の整備目標を打ち出していく方式が採用されることとなった。
しかしこの方式では、複数年を要する防衛力の整備計画が毎年左右されるという不便さがあるため、ある期間にわたって確実性が大きい装備調達計画が立てられるように5年先を見据えた防衛力整備計画として、三年度に内容を見直すという方法が導入されるようになった。
その三年目の見直し時に、そこから新たに5年先の防衛力整備計画を作成するという、オーバーラップしながら防衛力の整備が進められていくものとなり、これは「中期(5年計画を指す)業務見積もり」と呼ばれた。
つまり、「五一大綱」に基づいて三年ごとに5年先を見据えた「中期防」が策定されるということ。
この新方式に従って、1979年(昭和54)に、1980年~84年度を対象とした「中期業務見積もりについて」(昭和53年度に作成作業が行われたことから、五三中業と略称される)が発表され、3年後の1982年(昭和57)には「五六(1981年作成)中期業務見積もり」(五六中業)として、1983年度~1987年度を対象とする防衛力整備目標が制定された。
以後、この「中業方式」は、1992年(平成4)まで「五三中業」以来、5回にわたって実施されるが、
1985年(昭和60)から、「中期業務見積もり」は「中期防衛力整備計画」(通商は中期防)に呼び方が改められる。
● 「五一大綱」(1976年)から「〇七大綱」(1995年)へ
1980年(昭和55)代後半になると世界は激動期に突入する。
1989年(昭和64/平成元)ベルリンの壁が崩壊して東西冷戦が終わり、1991年(平成3)には、冷戦後の多発が予想された地域紛争の嚆矢として「湾岸戦争」が発生、その年の12月31日をもってソ連邦が崩壊するなど、世界情勢は大きく変化した。
そのため1990年(平成2)に制定された中期防衛力整備計画(1991~95)は、1992年(平成4)に、「中期防衛力整備計画(平成3年度~7年度)の修正について」として変更を余儀なくされ、同時に1976年(昭和51)に決定された防衛計画の大綱(五一大綱)では時代の動きにそぐわないと考えられるようになった。
こうして、冷戦後の世界情勢と日本を取り巻く安全保障環境の変化を考慮した、「平成8年度以降に係る防衛計画の大綱について」(〇七大綱)が、1995年(平成7)になって制定されることとなった。
● 「五一大綱」(1976年)を基本踏襲した「〇七大綱」(1995年)に見られる官僚組織の体質の問題点
1995年(平成7)になって、冷戦後の世界情勢と日本を取り巻く安全保障環境の変化を考慮した、
「平成8年度以降に係る防衛計画の大綱について」(〇七大綱)が、制定される。
「〇七大綱」の制定まで20年間にわたって防衛計画の大綱に大きな変化を加えなかった(そうせずに済んできた)ことは後世から見ると驚きだが、
「〇七大綱」は「過渡期の大綱」として、要するに、冷戦時代の考えから脱却せずに、変化が生じた部分に対応するという意図のもとに制定された。
冷戦後の世界に対応する防衛計画の大綱が制定されたこの1995年(平成7)は、
「阪神・淡路大震災」が起こって、災害救助における自衛隊の役割と装備に関する再検討の必要が認識され
オウム真理教による地下鉄サリン事件から「NBC(核・生物・化学)兵器」を使用するテロリズムや、 米オクラホマ・シティにおいて無政府主義者が連邦庁舎ビルを破壊するという、強大な破壊力を持った少数の人間によるテロリズムの可能性が現実のものとなり、
ボスニア・ヘルツェゴビナでは民族・宗教紛争に対し、人道上の問題を理由にNATOが介入するなど、新たな脅威の存在や、軍隊の新しい役割がクロズアップされる象徴的なできごとが発生した年だった。
こうしたテロリズムには、従来の(冷戦時代に安全保障における軍事力の基本であった)「抑止力」という概念が通用しなかった。
アル・カイダは膨大な兵器を持つ米国に挑戦した。
アル・カイダは米国の政治、経済、社会に打撃を与え続けることで米国支配の世界を変えようとしているが、
国家や明確な根拠地を持たないアル・カイダのようなテロ組織に対しては、核兵器の破壊力による脅し、すなわち抑止力は全くといってよいほど機能しない。
かえって米国を始めとする既存の国家体制のほうが、テロリストが入手するかもしれない核兵器による脅威に怯えているほどだった。
しかし、当時の日本はこのような世界の変化を、それに対する新たな安全保障戦略を打ち出せるほど十分には認識せず、
世界と安全保障環境に関する情勢認識は、
「五一大綱と基本的に同様の情勢認識をしている」(防衛白書2005年度版)
ことから、
「これまで防衛整備の指針として有効に機能していた『基礎的防衛力構想』を成り立たせる前提に変わりはないと判断し、これを基本的に踏襲することとした」(防衛白書2005年度版)
という。
ソ連軍が冷戦時代の末期、1980年代には既にかなりの戦力低下をきたしている事実は世界で広く認識されていた。
冷戦後の世界に対応した防衛計画の大綱が制定されたのが1995年(平成7)というのは、いかにも遅い感じだが、日本の防衛省は世界情勢や日本周辺の安全保障環境に対する認識において、
「ロシアの厳しい経済状況などから極東におけるロシア軍の活動も低調になっている」(防衛白書1993年度版)
としながら、だが、
「依然として膨大な戦力が蓄積された状態にある」(防衛白書1993年度版)
といって、冷静時代の防衛計画である「五一大綱」から大きく方針を転換しようとはなかなかしなかった。
ソ連・ロシアは、財政難から一方的にソ連・ロシア軍の軍事力が低下していたのだから、その状況を正確に把握して、こちらもそれに合わせた方策を講じるなら、相手(ソ連・ロシア)に無用の不安感、懸念を抱かせずに済み、
また、国民・納税者に対していらぬ負担をかけ続けずにも済む。
であるのに、防衛庁がなかなか冷戦時代のソ連軍の脅威の消滅・減少を認めようとしなかったのは、この防衛計画の見直しによって、部隊数や装備の調達数が削減することを嫌う当事者の意識的、無意識的な抵抗が働いたから。
● 冷戦後の世界情勢に合わせて、「〇七大綱」(1995年)で自衛隊の合理化が進められる
冷戦後の1995年に策定された「〇七大綱」では、過渡期の大綱として、依然としてロシア軍の戦力を「膨大な」ものとして認識して「五一大綱」の方針を踏襲しつつも、
「ロシアの厳しい経済状況などから極東におけるロシア軍の活動も低調になっている」と、変化が生じた部分に関してはそれに対応して、結局は、軍備が縮小されていくこととなった。
ワルシャワ条約機構が消滅して顕在的脅威が消滅した欧州方面と違って、極東アジア方面においては安全保障環境が大いに異なり、
なお共産党一党独裁体制を堅持する中華人民共和国と、
社会主義体制とは言いながら「金王国」と呼べるような独特の一党独裁体制を敷いている北朝鮮が厳然として存在し、
朝鮮半島や台湾海峡を巡って国家間の軍事的衝突が発生する可能性も決して考えられないことではなかった。
そのため、そこから日本が安全保障戦略で欧州諸国と同様な対応、例えば、軍事力を大幅に削減し、国家防衛よりも国際平和維持活動を重視した軍事力の整備に転換するなど、を取る必要性はなく、そのような劇的な変換を行うには、あまりに不確定要素が多すぎるということは事実だった。
しかしながら、「〇七大綱」(1995年)制定後、2007年中期時点までの間に、北朝鮮の日本侵攻(攻撃)能力が、弾道ミサイルとそれに搭載する核兵器、そして特殊部隊を除いて、通常戦力の形として、増強されている様子はなかった。
一方、中国の、海を渡ってその軍事力を展開できる能力、つまり日本領土を占領したり洋上交通を切断したりできる能力は、「急速に」と表現できるペースで増強されていたが、
ただし、冷戦時代に予想されていた極東ソ連軍の軍事的脅威に比べれば、北朝鮮や中国の軍事的能力はそれほど大きくなく、
結局、「五一大綱」で規定された防衛力(部隊や装備の数)は圧縮される方針が打ち出されることなった。
「合理化・コンパクト化」という用語で評され、削れる部隊や装備は減らしていくことが決定される。
● 「テポドン・ショック」の発生で、弾道ミサイル防衛態勢の構築が新たな防衛計画の重要テーマとして加えられる
ところが、「〇七大綱」(1995年)が実施されて間もない1998年(平成10)8月31日、
北朝鮮が独自の人工衛星(光明星一号)の打ち上げを意図した宇宙ロケット「白頭山」(テポドン1はその発射実験場がある場所の名前からとった、米国が与えたコードネーム)を発射し、
それが日本列島の上空を通過していったために、日本人は文字通り仰天して、国民の間に弾道ミサイル防衛の必要性に対する認識が急速に高まることとなった。
実際、この時点で日本には、弾道ミサイルを防衛する能力がなかったのはもとより、その飛来を探知する能力も、洋上でソ連の多方面、遠距離からの航空攻撃に対応するために冷戦時代の末期に導入されたイージス護衛艦のレーダーが、かろうじてその飛跡を認識できるという程度でしかなかった。
イージス艦のレーダーは元来、航空機や対艦ミサイルを探知するために開発されたもので、弾道ミサイルを探知、追尾する役割は想定されていなかった。
米海軍では2000年代に入って、レーダーを動かすコンピューターに改良を加えて、弾道ミサイルの探知と追尾ができるように改良されていったが、
まだ1998年当時、世界には朝鮮半島から発射されて日本に到達できる中距離弾道ミサイルを迎撃できる能力を持つ弾道ミサイル防衛システムはなかった。
米国の「パトリオットPAC-3」が米陸軍部隊に実践配備されるようになるのは2002年秋からで、
イージス艦から発射される「スタンダードSM-3」の実戦配備開始は、米海軍でも2005年だった。
1998年(平成10)の「テポドン」の発射よりも以前、1993年(平成5)5月末に、北朝鮮は日本海に向けて新型弾道ミサイル、米国がコードネームで「ノドン」(やはり発射実験場がある地名からの名称)と呼ぶ中射程弾道ミサイルの発射実験を行ったが、
しかしこのとき日本はそれを独自に探知したわけでも、米国からもたらされた日本海への着弾情報を日本が自前の情報網から確認したわけでもなかった。
軍事的に見た場合、北朝鮮はまず韓国内の軍事基地を攻撃できる射程の弾道ミサイルを持たねばならず、それが満たされたなら、次には日本の米軍基地と自衛隊の基地を攻撃できるミサイルが必要であり、その次にはグアム島やハワイ、アラスカに届くミサイルが必要となるため、こうした北朝鮮の弾道ミサイル開発状況と、軍事戦略的な必要条件から考えれば、次に日本本土を射程に収める北朝鮮の弾道ミサイルが登場する可能性は十分に予測ができ、
従って安全保障の見地からは、当然、北朝鮮の弾道ミサイル開発状況を探り、発射をできるだけ早期に探知し、それを迎撃できるシステムの保有計画に着手せねばならないはずであった。
ただし、迎撃システムが実用段階に達するのは、米国ですら2000年代に入ってからだったが。
ところが日本で、具体的方策が採られるようになったのは1998年(平成10)8月31日にテポドン1に日本の上空を飛ばれてからの話であって、それまで、1993年(平成5)からの5年間は、実際には何も対応策がとられずに空費されてしまった。
だが、日本海中部に落下したのと頭上を飛び越えられたのとでは、日本国民の受けた衝撃は大きく異なっていた。
米国もまた、テポドン1が、ごく小さな弾頭を装備するのであるなら、アラスカにも到達できる射程が得られるだろうという可能性に衝撃を受けた。
こうして、テポドン1に驚愕した日本は、以後、北朝鮮の弾道ミサイル開発状況を調べる偵察衛星(情報収集衛星)の打ち上げ、
弾道ミサイル探知ができる地上設置型レーダーの開発、
米国の弾道ミサイル迎撃システム開発への参加、
それに伴う、米国の弾道ミサイル早期警戒システムと日本の早期警戒システムとの情報共有協定締結などの施策をとるようになった。
テポドン・ショックにより、これ以後、弾道ミサイル防衛は日本の防衛計画の最重要項目と位置づけられるようになった。
● テロリズムという脅威の増大への対応
日本は、テポドン・ショックよりも早く、冷戦後の世界、21世紀の世界において大きな脅威になると予想されたテロリズムの洗礼を受けた。
それが、1995年(平成7)3月20日、オウム真理教による「地下鉄サリン事件」で、地下鉄サリン事件は、無差別大量殺人を意図した神経ガス(サリン)によるテロ攻撃という点で、世界史の中でも特記されるような異常な事例だった。
また、1999年(平成11)3月には、北朝鮮の工作船が日本の領海を侵犯したため、これに対して自衛隊として初めて海上警備行動が発令され、海上自衛隊の護衛艦が工作船を日本海中部まで追跡し、拿捕を試みるといった事件が発生。
そして、2001年(平成13)9月11日、アメリカで「9.11同時多発テロ」が発生する。
しかし実はそれ以前から、大規模大量破壊テロ事件が多発するようになってきていた。
地下鉄サリン事件から一ヵ月後の1995年(平成7)4月19日には、米オクラホマ・シティの連邦庁舎ビルが、わずか二人の無政府主義者によるテロ攻撃で破壊され、168人が死亡、500人以上が負傷するという事件が起こった。
1996年(平成8)6月29日には、サウジアラビアのダーランにあったアルコーバル米空軍宿舎のビルがタンクローリーを使った非常に大きな破壊力を持つ爆発装置により破壊され、19人が死亡し、386人が負傷した。
1998年(平成10)8月7日には、ケニアのナイロビとタンザニアのダルエスサラームにある米大使館が、やはり強力な爆発力を持つ自動車爆弾によって破壊されて、合わせて224人が死亡し、5000人以上が負傷する事件が発生した。
1999年(平成11)9月9日と13日には、モスクワでアパートに爆弾が仕掛けられ、合計210人が死亡し、650人以上が負傷した。
そして2001年(平成13)9月11日に、アメリカで「9.11同時多発テロ」が発生し、
この日を契機に世界は一変し、テロリズムがこれからの世界における安全保障上の重大な脅威と認識されるようになった。
特にその歴史上初めて、自国領内で大規模な被害を受けた米国民の意識の変化は大きく、
対テロ作戦を本土防衛と並んで安全保障における最重要項目と位置づけ、
ソフト(例えばテロ組織の資金を枯渇させる)、ハード(例えば軍事作戦でテロ組織の基地を壊滅させる)の両面で、最優先度を持って実施するようになった。
● 「9.11同時多発テロ」発生を機に「テロ対策特措法」が制定され、世界のテロへの対処活動が自衛隊の新たな役割に追加される
2001年(平成13)の「9.11同時多発テロ」事件を契機に、米国を中心とする世界の「有志連合」は、このテロ攻撃を行ったアル・カイダに「基地」を提供していたアフガニスタンのタリバン政権(支配地域)に対する軍事作戦を開始した。
これに伴って、アフガニスタンやパキスタン地域から中東、アフリカに逃亡しようとするアル・カイダを始めとするテロリストを拿捕し、テロ活動を支える武器や資金の移動を阻止する目的で、インド洋において有志連合海軍艦艇(主に欧米、2006年からはロシアやウクライナも参加)による哨戒活動が開始された。
日本は、テロ活動の防止と根絶を目指したこの世界的な動きに「積極的・主体的に寄与する」姿勢から、2001年(平成13)10月の臨時国会で「テロ対策特措法」を成立させて、それに基づく自衛隊による協力支援活動を開始した。
その一環であるアフガニスタンからの被災民救援活動は、救援物資を航空自衛隊のC-130H輸送機と海上自衛隊の掃海母艦「うらが」(護衛艦「さわぎり」が同行)でパキスタンまで、輸送艦「しもきた」(護衛艦「いかづち」が同行)が、タイ陸軍の施設機材(工兵隊用機材)をインド洋沿岸国に輸送した。
これらの輸送活動は各々一回で終了したが、
さらにこうした輸送活動に加え、北西インド洋における各国海軍艦艇の哨戒活動を支援するために、燃料補給分野での支援を行うこととなり、海上自衛隊の補給艦と護衛艦が派遣された。
「テロ対策特措法」は、2年間の期限付きだったが、必要があると認められた場合、最大2年以内という期間限定で延長が可能で、洋上補給活動は米軍物資に関する空輸支援と共に、期限が来た2003年(平成15)11月1日以後も半年期限で延長を繰り返し、2007年(平成19)まで続けられた。(2007年11月1日失効)
その後さらに、「新テロ特措法」(補給支援特措法)が2008年(平成20)1月16日に施行され、2010年(平成22)1月15日まで続けられることとなる。
● 国際貢献を目的とした自衛隊の海外派遣任務の発生
この「テロ対策特措法」(2001年)に基づく自衛隊の活動は、憲法解釈上の制限から、
「現に戦闘が行われておらず、かつ、そこで実施される活動の期間を通じて戦闘行動が行われることがないと認められる地域に限る」
との条件付で実施されたが、自衛隊の海外活動自体は既にそれまでに何度も実施されていた。
1992年(平成4)~93年(平成5)のカンボジア「国連平和維持活動(PKO)」への参加、
1993年(平成5)~95年(平成7)のモザンピークにおけるPKO、
1994年(平成6)のザイールにおけるルワンダ難民救援活動、
1996年(平成8)から2013年(平成25)まで続けられたゴラン高原におけるPKO参加、
1998年(平成10)、国際緊急救助活動としてホンジュラスのハリケーンに対する災害救済物資輸送(空輸)、
1999年(平成11)の、トルコの地震災害に対する物資輸送(海上輸送)、
1999年(平成11)~2000年(平成12)東チモール避難民救援活動(西チモールに自衛隊を派遣)。
2001年(平成13)のインドの地震災害に対する支援物資輸送(空輸)。
そして2001年(平成13)の「テロ特措法」制定以後も、
2002年(平成14)~2004年(平成16)に、東チモールのPKOに参加。
さらに、2003年(平成15)3月20日に開始されたイラクのサダム・フセイン政権打倒を目的とした米英豪連合軍による軍事行動の帰結として、イラクの復興支援を目的とする「イラク人道復興支援特措法」に基づく自衛隊の活動が開始される。
こうした自衛隊の海外活動や国際協力は、冷戦の終結に伴って多発するようになった地域紛争、それによる大量難民の発生、冷戦時代のブロック構造の消滅によって大規模災害発生時に世界各国が人道的支援を実施しやすくなった環境、テロリズムの横溢に対して全世界的に対応せねばならなくなった状況、
そして、人、物、金が自由に動ける世界で、麻薬、密輸、武器、さらには大量破壊兵器関係物資が移転する危険性が増加したことに対する各国協力体制の必要性が生じたことによる国際社会からの要求の声が高まったことを受け、行われるようになった。
● 「新防衛大綱」(2004年~)の作成
このような世界情勢と自衛隊の任務に関する変化を受けて、アメリカによるイラクのフセイン政権攻撃後の2004年(平成16)12月10日に「平成17年度以降に係る防衛計画の大綱」、通称「新防衛大綱」と呼ばれる新たな防衛大綱が、安全保障会議と閣議によって決定されることとなった。
この「新防衛大綱」(2004年)制定へと至るまで、それ以前に、情勢の変化にどう対応すべきなのかという研究・検討会が、「テロ特措法」の制定された2001年(平成13)から実施されてきていた。
アメリカで「9.11同時多発テロ」が発生した直後の2001年(平成13)9月、防衛庁長官を議長とする「防衛力の在り方検討会」が設置され、招来の日本の防衛力として必要な形はどのようなものかという研究がなされ、これが新防衛大綱の中核となった。
2003年(平成15)12月19日には、安全保障会議と閣議において「弾道ミサイル防衛システムの整備等について」が決定された。
これは四つの項目からなり、
一は、弾道ミサイル防衛システム(当面の措置として米国製のイージス艦から発射するスタンダードSM-3艦対空ミサイルと、同じく米国製のパトリオットPAC3地対空ミサイルの導入が決定された)を整備すること、
二は、「我が国の防衛力の見直し」として統合運用を基本とした組織の改変、それに対応した陸海空三自衛隊の編成方式の改革、多種の任務に対応できる組織と装備の整備と、在来型装備の見直し、
三は、弾道ミサイル防衛システム導入に伴う防衛力整備「経費の取り扱い」について、
四は、新たな防衛計画の大綱だった。
さらに2004年(平成16)4月には、小泉内閣総理大臣の下に、幅広い見地から日本の安全保障と防衛力の在り方を総合的に検討する有識者会議で構成される「安全保障と防衛力に関する懇談会」(座長を務めた荒木浩東京電力顧問の名を取って荒木懇談会とも呼ばれる)が設置され、
13回の開催を経て同年10月に報告書が小泉総理に提出された。
この報告書では複雑で多様化した脅威に対応するために、内閣を中心とする国の各省庁、総力を挙げた統合的な施策の実施が必要で、防衛力には「多機能弾力的防衛力」が必要だと結論付けられていた。
この「弾力的」というのは、要するにある特定任務に固定された部隊や装備の運用ではなく、一つの部隊、装備がいろいろな任務に投入でき、また状況に合わせて柔軟に活用できるという意味で、
後に策定された「新防衛大綱」においても、「多機能で弾力的な実効性ある防衛力」というふうに反映されることとなる。
そして、こうした経過を踏まえた上で、2004年(平成16)10月から12月にかけて、新たな防衛力の在り方を検討する安全保障会議が6回にわたって開催され、
そして12月10日に「平成17年度以降に係る防衛計画の大綱」(新防衛大綱)が決定されることとなった。
「平成17年度以降に係る防衛計画の大綱」(新防衛大綱)は荒木懇談会の報告を踏まえた形で、
「二つの目標、三つのアプローチ」を安全保障の基本的考え方とした。
二つの目標とは、
①日本に直接的な脅威が及ばないように防止し、脅威に晒された場合にはこれを排除し、被害を最小眼にとどめること(日本の防衛)と、
②国際的な安全保障環境を改善して、日本に脅威が及ばないように努力すること(国際的安全保障環境の改善)で、
三つのアプローチとは、この二つの目標を達成するために、
①日本自身が努力する、
②同盟国との協力体制を強化する
③国際社会との協力も推進する、というもの。
また、この「新防衛大綱」における新しい防衛力の考え方の特徴の一つとして、
「抑止力」から「対処能力」への転換がある。
従来、防衛力(軍事力)の基本的役割は「抑止力」であり、そのために日本でも最小必要とされる「基礎的防衛力」の保持を防衛力整備計画の中心的考え方としてきた。
「抑止力」とは、こちらがある力を保持することで、相手にこちらに対して無理難題を押し付けられたり、武力攻撃(によって問題の解決を図ろうとする行動)を行わせないようにしたりするというもの。
ところが、テロリズムに対しては、このような「抑止力」はほとんど通用しない。
テロの目的は相手に大小を問わず被害を与えることにあって、そのためにはいかなる自分の犠牲が生じようとも構わないと思っている。
テロリズムに対しては、情報収集による先手を打った逮捕や資金・武器入手路の根絶など、最大限の防止努力を行うが、もし実行されてしまった場合でも、その被害を最小眼に食い止める対応措置を講じる必要性が求められる。
「対処能力」とは、そのための対応措置や能力を持つこと。
アメリカで「対処能力」とは「ケイパビリティ・ベースト」と呼ばれ、
また、「被害を最小眼に食い止める」対応措置は「被害管理」(カンセクエンス・マネージメント)という。