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時計屋鬼談:御釜池

作者: 半蔀

 愛用の腕時計の電池が切れてしまった。交換のために適当な時計店を探していた。どこで換えようかと思っていると,そういえば駅近くの商店街に個人でやっている所があったなと思い出した。店名は忘れたが,店先のガラス越しに珍しい置き時計などを飾っているから覚えていた。自宅から歩いて十分程度のところである。九月とはいえまだ日差しの強い中を歩くのは億劫だが,長年身につけている時計を動かないままにしておくのも落ち着かない。仕方がない,ついでだから帰りに買い物でもしてこよう。私は渋々と時計を持って家を出た。

 目当ての時計屋は『瀬戸口時計店』という名前だった。両脇を電気屋と靴屋とに挟まれた,細長い三階建ての古い建物である。どことなく人を寄せ付けない感じのする。私のような小心者は冷やかし目的では入れない店だ。しかし,今日はしっかりと目的あっての入店である。私は意を決して店のドアを押し開いた。

 来店を告げるドアベルが店内に響いた。店の中はやや薄暗くひんやりとしている。耳をすませば,色々な時計の時を刻む音が聞こえた。

 誰も居ないのかな……と思って店内を見回してみる。壁には妙な掛け時計がいくつか,壁際にはいかにも古そうな振り子時計などもある。ガラス張りのディスプレイには高そうな腕時計などが並べてあった。私にはとてもでないが買えない代物たちだ。

 店内の品々をじろじろと眺めていると,店の奥から物音がした。そちらに視線を向けてみれば,店主らしい初老の男性が出てきた。老人は私を見つけると済まなそうな顔をした。

「これは,大変お待たせしてしまいまして」

「いえ,色々と眺めてましたから,退屈しませんでしたよ」

「左様でございますか。変わった時計ばかり置いておりますから,お珍しかったでしょう。して,どのようなご用でしょうか」

「これの電池を換えてもらいたいのです」

 私は腕時計を差し出しながら言った。時計屋の老人は,お預かりします,と言って時計を手に取って眺めた。すぐに,では承りましょう,と言って奥の作業台へと歩いて行った。私も老人の背を追った。

 十分程度で出来るというから店内で待たせてもらうことにした。近くの丸椅子に,おかけになってお待ち下さい,と勧められるままに座った。何もすることがないので暇ではあるが,店内の静かな雰囲気と展示の時計が刻む一定のリズムのためか居心地の悪い気はしなかった。そのまま呆けていると,お客さん,と声をかけられた。何です,と返事をすると,時計に故障があるから電池交換のついでに直してしまいますか,ということである。部品代が余計に掛かるそうだが是非もないので承諾した。どれくらい掛かるかと訊くと,三十分掛からないそうである。三十分もじっと座っているのは流石に勘弁してもらいたい。暑いのはやはり億劫だが商店街でもぶらついて時間を潰すかと考えていると,

「よろしければ,お客さんの退屈しのぎに小話を一つ差し上げましょうか」

「小話……?」

 店主の突拍子もない提案に私は思わず聞き返してしまった。老人は構わず話を続けた。

「ええ。あなた,怪談はお好きですか」

「嫌いではないですが」

「ハハ,結構なことです。ではこの老人から一つ話を差し上げて構いませんかな。なに作業はきっちり進めます。話しながらでも手は別に動く性質(たち)ですからご安心ください。特技でしてね」

 私に断る理由もない。どうやらこの老人も話し慣れしているらしいから,よしんばつまらない話であっても退屈しのぎになるには違いない。

「ではぜひやって下さい」

 だから私はそう答えた。老人は再び笑うと嬉しそうに頷いた。この手の話を人にするのが好きなものと見える。

 彼は作業の手を止めずに話し始めた。

「霊場というのは色々な祈願の集まるところでもあります。それは修験者たちの徳を積みたいという思いばかりでなく,一般の参拝客の悲喜こもごもな願いであったりもです。最近ではパワースポットなどと言って,若い人たちにも人気があるそうですね。さて,老若男女の託した願いは,時には思いが通じて叶うかもしれません。もちろん時機というのがありますが,託した願いが叶えば,これは,たいてい嬉しいものです。神様ありがとうございます,といったものです。しかし,そこに託す願いが分不相応なものであったならばどうでしょう。しかも祈願の者が真剣にそれを願うならば。霊場の力が屈折して作用してしまったとしても可怪(おか)しくないでしょうな」




 柚崎あかねには二つ年上の姉ゆかりが居た。あかねとゆかりとは幼少の頃から仲がよく,二人して買い物に出かけたり遠出したりと一緒に過ごす時間が他の誰よりも長かった。彼女らの両親は,何処行くにも一緒な二人に呆れながらも,喧嘩の少ないことは結構なことだと思っていた。二人は近所でも有名な仲良し姉妹であった。

 それゆえ,あかねが姉のゆかりを亡くしたときは酷い悲しみ様だった。あかねが二十歳のときである。

 水の事故だった。数人の友人と共に山中湖にキャンプをしに行ったゆかりは,夕方頃に湖の周りを歩いてくると散歩に出た切り戻ってこなかった。湖には無人のボートが一隻残されていた。貸しボート屋はゆかりと思われる人物にボートを貸したと証言している。警察は事故による溺死と見ているが遺体は上がらなかった。

 彼女の両親は悲嘆に暮れるあかねに何の言葉も掛けることが出来なかった。あまりに深い悲しみゆえに,彼女は一時期,正気を失ったかのようであった。彼女の両親らが,夜な夜な夢うつつに家中をうろつくあかねに驚かされたのは,一度や二度ではない。夜中に彷徨(さまよ)う彼女はいつも何かを探している様子だった。それが両親らの胸を痛ませた。しかし,どうすることも出来なかった。彼らもまた,娘を亡くした悲しみから立ち直れているわけではなかった。

 あかねが日常を取り戻せたのは,大学で同じサークルの友人であった長谷川琢磨に依る所が大きい。姉を亡くしてから大学に顔を出さなくなった彼女を心配して,彼は頻繁に連絡を遣った。実の所,以前から男が女に惚れていたのである。

 彼は最初は直接的な表現で大学に復帰するよう呼びかけていたが,彼女に効果のないことを知ると,大学であった出来事やサークル仲間の近況を知らせた。彼の復帰応援の便りは見る気力もなかったあかねではあったが,話題が単なる世間話に変わると,自然,彼の便りを読みもするし,時々,返事もするようになった。琢磨の何事にも呑気なところが彼女の気を(ほぐ)した。

 あかねは半年してようやく大学に復帰することが出来た。

 あかねの復帰を彼女の両親と同じぐらい喜んだのは琢磨であった。彼女も彼の親身に感謝していた。復帰後も二人は連絡を取り合っていたし,大学でも一緒に居ることが多かった。それゆえ,二人が恋仲となるのには,さして時間は掛からなかった。

 男は元々呑気な性質(たち)であるし,女にとっては世話になった相手であるから,互いに衝突することも少なく男女は仲睦まじく交際を続けていた。それで別段変わったこともなく二人は関係を築いていったが,時々,あかねが沈んだ表情をすることだけは,琢磨にとって気掛かりだった。正気に戻ったとは言え,あかねの姉を亡くした悲しみが癒えた訳ではない。あかねには湖でこつ然と消息を絶った姉が今も何処かに居るような気がしてならなかった。言葉に出さずとも,そうした彼女の憂いは折々で彼女の(おもて)に現れた。それに感付けないほど鈍感でもない琢磨は,彼女を元気づけようと,長期の休みにはしばしば彼女を旅行に連れ出していた。


 姉ゆかりの一周忌も過ぎ,大学の夏休みも残すところ後半月ほどとなったある日。琢磨は例のごとく,あかねを連れ出して富士の麓にあるコテージに泊まりに来た。割合早めに着いてしまったので,観光でもしようか,と二人は近場の忍野八海を見て回ることにした。最近,世界文化遺産に登録されたこともあって,二人も名前だけは知っていた。

 駐車場に車を停めて案内板に従って進んでいった。一番近いのは鏡池とあった。

 鏡池は人家の間にある何の特徴もない水たまりのような池で二人は大いに落胆したが,次の中池で滾々と湧き出る水量には驚かされた。中池は人工池で八海の一つではないが,土産物売りの店も建っており観光客で最も賑わっている場所だった。二人は中心にある,深さ10メートルもあろうかというほどの湧水口を覗いて,水底の美しい青色に感嘆した。

「ほかの池にも繋がっているんだって」

 琢磨がそばに立っている説明の看板を見ながら言った。あかねはそれに曖昧に返事した。琢磨も興味があった訳ではなく,たまたま目についたのを読み上げただけであった。二人はすぐに看板の内容も忘れてしまった。

 そこから湧池,濁池と進んで底抜池の辺りまで見て回る時分にはすでに日が傾いていた。底抜池は入場料を取るというので,二人は見ることを諦めた。時間も時間であるし,一番霊場の出口池は距離があるので,二人は二番霊場の御釜池を見て帰ることにした。

 御釜池は人家の裏庭のような所にある小さな池で,端にぼっかりと開いた深さ7mくらいの円筒形の窪みがある。日の差す時間には富士の湧き水の透明度も相まって,その穴は美しい青色をたたえて見ものであった。そこに鯉など泳いでいるので,一種,アクアリウムのような面白さがある。しかし今は夕暮れ時とあって,すでに影が差して底が見えなかった。

「何の変哲もないね」

 琢磨がぼそりとつぶやいた。淵底(えんてい)の青が見えなければ,ここも単なる地味な水たまりである。彼がボヤくのも無理はなかった。

 しかし,あかねは彼と同じ感想を抱かなかった。辺りが夕焼けに赤く染まる中,日が陰り,底の見通せなくなった御釜池の穴が,何か,どこまでも底の無いなような気さえするほど,暗く暗く引き込まれそうなほど暗かった。その暗闇に彼女は思わず惹き込まれたのだった。きっと,人ひとり飲み込んでしまえるほど,窪みはぽっかりと口を開いてじっとしている。

――あそこに入ってしまったら,きっと出られない。

 あかねは身震いした。淵の暗い底が恐ろしかったのではない。何者かが,そこに潜んでいるような気がしたのだ。冷たい水底に(うずくま)って,淵を覗き込む人間をじっと待っている者がいるような。その孤独,その骨の芯まで冷え切るような水の冷たさを思ってしまって,恐ろしかったのである。




 東京に戻っても,彼女はその穴のことが忘れられなかった。彼女は度々,御釜池の穴の夢にうなされた。淵の底に押し込められる悪夢を毎夜のように見た。助けを求めようにも肺は水で満たされて声は出ず,手を伸ばして地上の人に知らせるためにはあまりにも穴は深い。水底の四方から止め処なく染み出す氷水のような湧水で体は冷え切っている。その体を抱えて蹲ったまま,いつか来るかもしれない助けを待っている。そんな夢である。孤独に気が狂いそうになり叫び声を上げようとしたところで目が覚める。明け方に跳ね起きた彼女は,冷や汗に濡れた体を抱きしめて,淵底の水の冷たさを思い出して震えた。

 それから彼女は深い水を恐れるようになった。川の淵や海,湖といったところには一切近づかなかった。プールさえ彼女は嫌がった。

 あかねの友人たちは彼女の急な変化を訝しんだ。一体,彼女はどうしたのかと,彼らは琢磨を問い詰めたが,彼も首を振るのみで恋人の豹変に困惑するばかりであった。彼女の豹変は水のことについてだけである。それ以外は至って普段どおりであるので,周囲はますます不審がった。

「きみは最近どうしたの」

 ある時,琢磨は彼女を問い正した。もちろん,心配のためでもあるが,日々彼女から感じる気味悪さに耐えかねたのである。

 琢磨が彼女の家に遊びに行って夕飯を馳走になったある夜のことである。洗い物を彼女に任せて風呂の掃除を引き受けた琢磨は,自分の仕事を終わらせて居間に戻ると,彼女は洗い場で水を出しっぱなしにして微動だにしていなかった。声を掛けられても気づかない彼女は水が流れ落ちる排水口をじっと見つめて能面のような表情をしていた。そこに異様なものを感じた琢磨は,慌てて台所から彼女を引き剥がした。はっとしたあかねも,自身が何故放心していたのか分からなかった。それ以外にも,雨の日に側溝に落ち込む水をじっと見つめていたり,風呂の水が抜けていく様子を見つめていたりと,水場において尋常でない様子を見せることが多かった。共に過ごす時間の長い琢磨にとっては,それが不気味に思えて仕方がなかったのである。それゆえ,前述の問いを発せざるを得なかった。

 問われたあかねは返答に窮した。彼女も自分自身の様子の可怪しさには気がついている。しかし,彼女自身にも,水場で正気を失ってしまう理由は分からなかった。だが,切っ掛けは分かっていた。

「あの池……御釜池を見てから,わたし,おかしいの」

 悲痛な表情でつぶやく彼女に,琢磨はそれ以上何も言うことが出来なかった。


 何かに憑かれたかのようなあかねであったが――これが古い人間であれば祈祷など受けさせて一先ず安心させただろう――若い二人は呪術的なものに頼ろうという考えをそもそも持たなかった。とくに琢磨にとっては,彼女の異常な行動は,姉を亡くしたことがまだ尾を引いているものと見て,精神的なものに起因すると考えていた。そのため,彼が真っ先にあかねに勧めたのはカウンセリングであった。彼女は受診を渋った。たしかに,自分自身の行動を振り返ってみたとき,彼女自身でも異常さを認めない訳にはいかなかった。しかし,この異常行動の原因は最愛の姉を亡くした悲しみによるものではないと彼女は感じていた。自分は,もっと別の何か,もっと奇妙な,あの淵に潜む恐るべき何かに,思考を囚われてしまっているのだ。そう思えてならなかったのである。

 医者からは,一種の水恐怖症だろうから,無理に対峙せずゆっくり克服して行きましょう,と言われ,あかねも思いの外心強く思った。念のためにと薬も処方された。薬だけは本当に病人になったような気がして嫌がった彼女であったが,持っているだけでも安心だからと言われ渡された。持ってみると案外気持ちが軽くなった。

 不満だったのは琢磨の方である。彼としてはこんなのは手抜かりとしか思えなかった。もっと直裁的な方法でなければ,彼女の異常は取り除けないと考えていた。元来,呑気な性格であるはずの彼は,恋人の異様な行動に怯え,どうにかせねばという思いに焦っていたのである。そもそも,池を見てからおかしくなったという彼女の言い分も,彼からしてみれば眉唾ものであった。彼は考えた。あんな地味な水たまりに気をおかしくされる人間があるだろうか。あかねは割合思い込みの強い人間であるから,あの池がおかしいと一途に念じている間に,本当に自分をおかしくしたのだろう。だから,池が何の変哲もないただの水たまりだと認識させれば,彼女は正気に戻るに違いない。そう考えたのである。

 琢磨は半ば強引にあかねを忍野八海へと連れ出した。彼女は抵抗したが,琢磨の剣幕に気圧されて押し切られてしまった。もはや男女の間に,一月前にあった平穏はなかった。すでに十月も半ばを過ぎ富士の麓は肌寒い空気で張り詰めていた。


 八海に来るのは二度目であるから,二人は迷わずまっすぐに御釜池へとたどり着いた。午前の授業を欠席して来たのである。この前とは異なり日の明るいうちに池を見ることになった。

 深さ7メートルあまりの池の窪みは陽光が底まで差し込んで見事な青色を見せていた。そこに二,三匹の鯉が悠々と泳いでいる。なんとも幻想的な景色を目の当たりにして,思わず琢磨は冷静さを取り戻した。彼は自分でも驚くほど,常規を逸していた。彼はあかねを強引に連れ出したことを急に申し訳なく思った。

「ごめん,あかね。俺,どうかしてた」

「あ……うん」

 あかねはどこかぼんやりとしていた。視線は彼の方を向いているが,その瞳は何者も映していないかのように虚ろだった。琢磨は慌てた。彼女の様子が尋常でなかったから症状が出たと思ったのである。彼はあかねの手荷物から薬を取り出して彼女に飲ませた。

 しばらくして,あかねは正気を取り戻した。あかねの記憶は池に来てから曖昧で,自身では到着から数分しか経っていないと思っていたが,実際は一時間も経過していた。そのことを聞かされて彼女は大いに驚いた。

 琢磨はこれ以上あかねをここに置いておくのはよくないと思った。彼にとってはただの池でも,あかねにとってはよくない場所であることを,さすがに彼でも理解し始めていた。

「帰ろう,ここに居ちゃいけない」

 彼は,まだ少しぼんやりとしている彼女の手を引いて池を後にしようとする。しかし,あかねは後ろ髪惹かれるような気がした。やはりあの池の穴には何か居るのだ。彼女は根拠なく確信していた。自分はそれに会わねばならない。淵の底で孤独と寒さに震えるあの子を助けなければならないのだ。彼女は毎夜のように見ていた夢を思い出していた。

 薬で正気を取り戻したかのように見えたのは,見かけの上だけだったのである。

 彼女は琢磨の手を振り解いた。そうして,池の方に向き直って呟いた。

「迎えに来たよ」


 途端,辺りの様子が一変した。晴れた午後二時の日差しに青々としていた池のほとりは,夕焼けに妖しく燃えるかのように朱に染まっていた。人気は消え失せた。木枯らしがガサガサと草木を騒がしている。その中にあって,あかねは一人,池の一端を凝視していた。例の窪みは,地の底まで続いているかと思われるほど,深く,暗かった。

 あかねはその窪みを目指して池の中へ入って行った。そして穴を目前にすると,服の濡れるのも構わず,四つん這いになって真っ暗な淵底を覗き込んだ。暗闇の底は見通せない。しかし,そこに何かが居ることは,今のあかねにははっきりと分かった。

 呼んではならぬ。覗いてはならぬ。

 彼女の頭の中で警鐘がガンガンと打ち鳴らされている。激しい動悸に脈拍が耳元で聞こえるほどだった。

――これ以上はいけない。

 脳裏に何度もその言葉が浮かんだ。彼女も痛いほど分かっている。口にしてはならないことを。望んではならないことを。自分が願うことがこの穴の底には有り得ないことを,彼女だって重々承知している。

 それでも止む得なかったのだ。そこに()の人が居ると思ってしまったから。

 暗闇の底を見つめながら彼女は呟いた。

「ねえさん」

 たちまち,無数の黒い腕が彼女を淵の底へと引き摺り込んだ。


 琢磨は自身が握っていた彼女の手の感触の無いことに気づいた。振り返るとそこには先程と変わらぬ池の景色があるだけである。

「あかね?」

 池は静かに水を湛え,例の窪みは午後の陽光を受けて青々と透き通っている。あかねの姿はどこにも見当たらなかった。




「男は散々女を探したわけですが一向見つからない。地元警察も捜索隊を出す大事になったようですが,やはり一つの痕跡も発見し得なかったようです。しかし,奇妙な所で後日遺体が発見されたのです。どこだと思いますか」

 老人の意地の悪い質問に私は閉口した。

「その口ぶりでは,御釜池には出なかったのでしょうね」

「ハハハ,当たりです。御釜池から50メートルほどの所にある底抜池に女は浮かんでいたそうです。不思議なものです」

「でも何故またそんな所に」

 老人は作業台から目を放しニンマリと笑いながらこちらを見た。

「さあ。しかし,こんな伝説があります。村の者が底抜池で洗い物をしている時にうっかり物から手を放してしまうと渦に飲み込まれてしまって物を失くしてしまうことがよくあったそうです。ただ,しばらくすると,失くした物は御釜池に浮かび上がって来るとか。底抜池で洗い物をすると池の神様の怒りを買う,と村では言い伝えられているようです」

「今回は逆方向に浮かび上がった訳ですか」

「そういうことです。さ,修理が終わりました。お待ちどお様です。どうぞ大事になすって下さい」

 私は代金を払って礼を言うと,老人は,またどうぞ,と返事した。

 店を出ると商店街の賑わいと残暑の日差しとにぶつかった。私はその中を歩くのを億劫に思いながら,近いうちにまた店主の怪談を聞きに来よう,と思った。

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[一言] 面白かったです。と言っていいのでしょーか怪談だし。怖いと言うなら池が怖いんではない違和感が怖い?感染したような不快さなのに、作品自体は美術品のように美しいです。
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