名前と過去
「ぼちぼち橋吊りにいくかぁ」
リア充上司様の言葉に私は首をかしげる。
期日にポンとあらわれるというのもそう言えば変な話だろうか? なにがあったとしても驚きは薄いだろうと思っていたけれど、むしろ作業工程がまともにあるという方が驚きだなとそんな感想を抱いた。
「というか、どーしてリア充上司様自ら吊り橋用ロープ編んでるんですか!?」
そこから?
そこからなの?
それとも別用のロープ?
「お、一カ月ありゃさぼりながらでも出来っから気楽に待っとけ」
本気で吊り橋用のロープのようでしたー。ないわー。一番偉い人の行動じゃないわー。
他に手伝い要員はおらず、いるのはリア充側近様だけ。(ごはんや寝所その他雑務処理らしい)気楽に「温泉借りるなー」と言われて私は頷く以外の選択肢を持たない。いつも勝手に楽しんでるよね?
マシュポゥの核揚げも勝手に食べ尽くしているよね?
ないわー。
「空気とでも思ってください」
リア充側近様にそう言われても「無理です!」としか答えられない。
本当にないわー。ありえない状況だわー。思考がすっごく感じ悪く平坦になるわー。
鼻唄まじりに足場になる木の板に彫刻を施したりってそこまで凝るの!?
「踏まれる部分ですから後で魔力でコーティングするんですよ」
あ、はい。そうなんですか。
「とっとと自分の作業しろよー。それともなんか言いたいことでもあんのか?」
言いたいこと?
「あるようなないような?」
「しかたねぇな。とりあえずひとつ」
はぇ?
「名告るカタチを決めとけ。キマリやソーミみたいに仮の呼び名でもかまわないが、『吊り橋守り』『領主』以外の呼び名を決めろ。もちろん、持った名をそのまま使ってもかまわない。それがお前の名前だろう?」
背筋にザワッと怖気がはしった。
たぶん、了解して私はその場をはなれたんだと思う。
自分の体が出した拒否反応にひどく戸惑う。妥協案も添えられていたのに、私は『私』が呼ばれることがおそろしくておぞましくてたまらない。
名前、ではないのだと思う。『私』を『私と特定する言葉』に拒否反応を起こしているのだ。
吐き気がする。気持ち悪い。
私はだれでもないだれかでいたい。
無理だとわかっていても名前のないだれであれ入れ換われてしまえるなにかでありたい。
「私は、私を求められたくない」
こぼれ落ちた本音をキマリさんが拾っているのが見えた。
「私は、カノコちゃんじゃないわ」
『されど、カノコのニオイはそこにある。我はカノコが側にある。案ずるでない。我が求むるはカノコだけぞ』
サラッと切って棄てられた。なんとなくキマリさんは理解しているのだろう。私とカノコちゃんは別物でそれでも、はなれがたいなにかなのだということが。
『我はカノコのそばにある』
「私はカノコちゃんじゃないからね」
『ならば、ここの大主の言うたとおりに呼び名をあかすがよかろ。我はそれには従おうぞ』
私はその名を受け入れられる?
嫌わずにいられる?
呼ばれて受け入れていける?
不安しかない。
ぐるぐると思考が縮れて混線する。
気持ち悪い。
素直に落ち込んでいたい。なのに私に落ち込む自由時間はない。落ち込んでいられないと自分で追い立て追い詰めている。わかってる。ちゃんと、そう。ちゃんとみんな待ってくれるとわかってるのにそれがありえないと受け入れられていない。
弱ければ要らないと言われるとは思っていないのに、自分に能力なんてないと知っているのに幻滅されたく、がっかりされたくないから虚勢を張る。
ハリボテを重ねていく。
見透かすような眼差しがこわい。
呼吸が荒いのはきっと暑さと足もとの悪い場所を急いだから。
夏の熱と豊かな水源が茂みを大きく育てている。私より高く伸びた草の茎を見上げれば大きな葉が頭上で開いている。こんな世界に生まれたわけじゃない。
石畳の道。石造りの街並み。鉄の街灯。蒸気鉄道。流行りはじめていた電気通信。官憲の見回り。季節のお祭り。お仕着せ制服に身を包んだ子供達が道を駆ける姿。街の茶房で放課後のお喋り。私の生まれた場所に私がいられる場所はなかった。
名を呼ばれることは、恐怖だった。
私は、それをまだ過去として受け入れることも見ようとすることもできない。