0-1.後腐れなく
私は、幸せでした。
辛いことがなかったと言えば嘘になってしまいます。
いわゆる戦前と呼ばれます頃に生まれ、帝国陸軍の少尉さまと見合いを経て結納いたしました。
言葉少ない旦那さまでしたが、事あるごとに記念日を思いつかれては花や簪、着物などを贈って下さいました。
常にまっすぐな眼差しと静かな佇まい、そして何より常に私を気遣って下さる優しさを、心よりお慕い申しておりました。
…ですが私の父、義父さまとともに、戦争により還らぬひととなりました。
私は旦那さまとの御子を身ごもり義母さまとともに疎開いたしましたので、東京を覆う火に呑まれることもなく、戦火を免れておりました。
ただ、身重の身で戦後の動乱に耐えられるのか、恥ずかしながら自信は持ち合わせておりませんでした。
そんな不出来な母を励ましてくれたのは、双子としてこの世に生まれて参りました旦那さまの忘れ形見でございます。
実母の実家にて産みました二人の子を抱いたとき、私はこの子たちを何としても育てなければならないと、使命感のようなものが胸を満たしたのです。
ともに夫を亡くした実母、義母さまも、孫の誕生に萎れた心が嘘のように蘇ったと聞いております。
私たちにとっての救世主でありました。
女手のみでこの子たちを育てる決意をいたしましてからは、手分けをして家のことをこなすようになりました。
近所の方と共同で畑を作り、針仕事で日銭を稼ぎながら、交代に子供たちの面倒を見る。
精一杯に毎日を生きて、どうにか飢えさせることもなく物心つくまでを育てられたころ、ある問題が浮かびました。
子供たちに学をつける方法が、この村にはなかったのです。
ただでさえ小さな村だというのに、このあたりで唯一の学校に務めていらした教師の方に赤紙が届き、出兵してしまわれたのです。
場はあれど人がおらず。
これを打破するための、代わりのものとして白羽の矢が立てられたのは、周辺で最も良く学をつけていた私でした。
こうして私は、その知識もないままに教鞭を取るに至ったのです。
ことの流れだけを端から見れば、押し付けられたものと思われたことでしょう。
しかし、そうではありません。
子供たちに教え、子供たちから学び、互いに磨き合い成長していくというのは、それまでに感じたことのない充足感を与えて下さいました。
実母と義母さまが家のことを引き受けてくださったことも大きいでしょう。
もちろん育児には参加しましたが、その他の時間を教師としての活動に充てることが出来たのです。
後に正式に教員として必要となる資格を得て、私は小学校の教壇に胸を張って立つに至りました。
子供たちは様々な表情を見せてくれます。
喜怒哀楽は大人より余程触れ幅が大きく、所作も大袈裟に。
時にとても理解に苦しむ理由で笑ったり泣いたり、怒って喧嘩もしてしまいます。
けれど大人が介入するまでもなく、いつの間にか仲直りをして一緒に笑っているのです。
まるで万華鏡のような子供たちを見ているだけで楽しかったものですから、思えば子供たちを叱りはしても怒りや呆れを覚えたことはなかったような気がしています。
いえ、定年退職ももう三十年は昔ですから、もしかしたら私が都合よく忘れてしまっただけなのかもしれませんが。
兎にも角にも、私は本当に幸せでした。
息子が可愛らしいお嫁さまを見つけて幸せな家庭を築き、産まれた孫を抱かせていただけただけでなく、孫の結婚も曾孫の誕生まで見ることが出来たのですから。
もう充分、旦那さまへのお土産話も出来ました。
たくさんの子供たちに囲まれて眠ることが出来るなんて、自慢したらあの人は拗ねてしまうでしょうか。
いいえ、我がことのように喜んで、幸せだと言って頂けることでしょう。
楽しみですね、本当に。
唯一、心残りがあるとすれば…灰里でしょうか。
あの子は引っ張りだこで、どの家が引き取るか決まっていなかったはずですから。
飼い主としては嬉しい人気ぶりですが、どうかそれで喧嘩だけはしないように…大丈夫ですね、私の子たちですもの。
後を任せられるのは、どんなに嬉しいことでしょう。
それでは皆さん――おやすみなさい。
「…母さん」
「おばあちゃん!」
「ひいばーちゃん…」
「……わう?」
その日、佳月小夜子は最愛の家族たちに看取られて、深い深い眠りについた。
はず、だった。