010 コンドル
「うわっ……」
鏡に映るドレス姿を見て、夕子はなんとも言えない表情になる。
さすがにネグリジェのままで会うわけにはいかないので、気怠い身体をどうにか動かし、最低限の身支度だけは整えた。そんな自分の女子力は平均的だと自負している。みんながかわいいと思うものはたいていかわいいし、ブサかわいいという女子特有の概念だってそれとなく理解している。しかしこれはいただけない――夕子は長々と息を吐き出す。
まったくもってリンドウのことを言えなかった。
当然といえば当然だろう。夕子のクローゼットの中身はすべてグイドが調達したものだ。夕子の好みはおろか、似合うかどうかなんて一切関係なく、ひたすらにグイドの趣味全開だ。サイズだけは合っているが、あとは色も形も、普段着用かパーティードレスなのかも考えていない。しかもたちが悪いことに――頻繁に服を入れ替える。一度か二度着た服はいつのまにか行方をくらませ、代わりにやってきた新しい服は決まって一段と趣味が悪いのだ。気づけばまともな服はすべてなくなり、残された中で比較的おとなしめなドレスを選んだ結果、夕子の心が折れる音がした。
夕子はため息混じりに鏡に映るモンスターを眺めた。――まさにモンスターだ。あるいは友好的顔をして地球にやってきた宇宙人か。
ラメのキラキラした、銀色の折り紙のようなドレスは、仮にハイセンスだとしても、そもそも夕子に似合うはずがなかった。若さだけが取り柄の化粧っ気のない顏。腰まで伸びた色気のない黒髪。真っ直ぐ横に切り揃えられた前髪は子供っぽく、胸だって貧相だ。胸元が大きく開かれた大胆なデザインも、肉付きの悪い太ももが覗くミニスカートも、ドレスとお揃いのヒールの高いロングブーツも、大人の女性が着てこそ映えるものだろう。夕子が着ても強調されるのはその幼児体型だけで、悲しくなってくる。
「お嬢様――お連れしました」
「ちょっと待って!」
ドアをノックする音が聞こえ、慌ててドレスと一緒に詰められていた銀色の帽子と黒いストールを手に取った。胸元を隠すようにストールを羽織り、キラキラの帽子を頭にのせて――そこではっと我に返り、帽子を投げ捨てた。よく見たら、天辺に先端の丸いアンテナが一本立っている。
「失礼いたします」
数秒も待たずにリンドウはドアを開けた。急いでベッドの前に戻った夕子を、いつも通り表情のない顔で迎える。宇宙人姿を見てもクスリとも笑わないのはさすがだと、夕子はおもわず感心してしまう。
入り口に立つリンドウは後ろに赤い髪の男を連れていた。俯いているせいで男の表情はうかがえない。リンドウは夕子の視線を追うように自分の後ろに目をやり、それから脇にずれると改まって紹介した。
「この者が、ご所望されましたコンドルです」
その言葉に、赤髪の男――コンドルは初めて顔を上げた。エメラルドの瞳。彫りの深いくっきりとした目鼻立ち。無造作に外にハネた、襟足まで伸びた髪。身長が高く、ロックバンドをしていそうな雰囲気のせいか、黒いスーツがとてもクールに決まっている。なかなかの男前だ。
コンドルはすぐにまた顔を伏せ、深々と頭を下げた。
「――ご指名いただきありがとうございます」
ホストクラブもこんな感じなのかな、と夕子はふと考える。
「このように名誉ある役目を賜り、身に余る光栄でございます」
「あーうん」
「つきましては、ふつつかながら私コンドルが、精一杯お役目を全うしたく思います」
「なるほどなるほど」
コンドルはそのあとも挨拶やら賛辞を並べ続けたが、夕子は適当な相槌で受け流し、歩きにくいブーツを脱ぎ捨て、えいっとベッドに飛び乗った。クイーンサイズのベッドは広々としている。ベッドに合わせた布団も大きく、押し潰すようにして丸めるとクッションにちょうどいい。やわらかな羽毛に包まれながら、夕子は退屈な時間が過ぎるのを待った。
ほどなくして、リンドウがこちらへやってきた。
「何かございましたらこのベルでお知らせください」
抑揚のない声で告げると枕元に黒い布を敷き、その上に赤いリボンのついた銀色のベルを乗せた。ハンドベルにしてはやや小ぶりで、一見するとディナーベルに見えないこともない。試しに耳元で振ってみたら、キーンとくる高い音が幾重にも連なるように大音量で夕子の鼓膜を揺さぶった。うっ、と夕子の口から低い声が洩れる。
「何かございましたら、お知らせください」
「りょ、了解……」
いつのまに回収したのか、リンドウの腕にはゴミ箱に捨てたはずのカタログが収まっている。リンドウは姿勢正しく一礼した後、入り口に向かった。頭を下げたままのコンドルの横を通り過ぎたとき、ほんのわずかだがその歩みがゆるやかになった。何か耳打ちしたのだろう。コンドルの頭がびくっと一度だけ跳ねたのを夕子は見逃さなかった。
ドアが閉まる音がしても、コンドルは一向に面を上げなかった。深く頭を下げたまま視線だけを後ろのドアに向けている。長いことそうしていた。やがて、リンドウが完全に遠ざかったとわかるとようやく顔を上げ――。
「またかよ。そんなにオレの血はうまいってか?」
突然、傲慢不遜な態度に一変する。乱暴にネクタイを引き抜いてテーブルの椅子に放り投げ、ワイシャツの一番上から三番目までのボタンを慣れた手つきで外していく。それから上着ごとシャツを肘までまくり上げ、腕を組むと、偉そうに夕子を見下ろした。おもわず夕子はにやっとした。まさしくコンドルだ。これこそ夕子のよく知るコンドルなのだ。
「そうだね。とんこつラーメンにもやしとキクラゲと紅しょうがとニンニクとネギと――あ、煮卵も忘れずにね。それをトッピングした感じかな」
「ラーメン? ああん? どんな高級料理だよ」
「まさか! とんこつラーメンはおいしいけど庶民の味だし、そもそもラーメン味の血って……あはは、そんなのクソまずいに決まって――」
椅子が飛んできた。ついでにネクタイが空を舞う。喉の奥で短く悲鳴を上げ、夕子はバッと飛び退いた。椅子はついさっきまで夕子が寝そべっていた場所を突っ切り、カーテンを揺らしてベッドの向こう側に消えた。壁にぶつかり、砕け散る音がする。
夕子はドギマギしながら驚いた顔でコンドルのほうを振り返った。コンドルは「あ、やべ」という驚きと怖れが入り混じったような青ざめた顔をして、こちらを見ている。
「ふざけんなお前――オレを殺す気か?」
「なんでよ。殺されそうになったの私でしょ」
「バーカ。アイツに見られたらオレの首なんてこうだぜ、こう――」
コンドルは自分の首を跳ねる仕草をする。舌をでろんと出し、目玉をひん剥き、死んだフリまでしてくれた。せっかくの男前が台無しだ。
「さっきアイツなんて言ったかわかるか?」
「なんて?」
「不義を働いたら死罪です――だとよ」
「冗談きついね」
「だろ? オレにだって選ぶ権利ぐらいあるっての」
コンドルはやれやれと肩をすくめ、不満げに息を吐いた。
うん、と夕子はにこっと笑う。
「それ私のセリフ」
「は? オレだろ」
「私」
「オレ」
「――ベル鳴らしていい?」
「よし、オレらのだ」
二人は顔を見合わせる。数秒の沈黙。やがてどちらともなく、ぷっ、と口から洩らした。堪えきれなかった笑いが小刻みに震える唇から溢れ、重なり、大きくなっていく。それはすぐに二つの大きな笑い声に変わった。夕子とコンドルは互いを指差し、時にはお腹を抱え 、笑い転げた。辛気臭い部屋に久方ぶりの笑いが響き渡る。
すこしして、コンドルが弾かれたように口をつぐみ、つられて夕子も押し黙った。ほとんど同時に入り口を振り返る。ピッタリ閉ざされたドアはシーンとしている。開かれる気配はない。夕子は小さく噴き出した。
「ふっ……びびりすぎ」
「うっさい。こっちは死活問題なんだよ」
二人はまた顔を見合わせ、今度は静かに笑った。言葉もなくコンドルはベットに腰かけ、夕子はその隣に移動する。
「よぉ。元気してたか?」
「……そっちこそ」
ふいに、夕子よりも一回りも大きい拳が向けられた。んっ、とコンドルはくぐもった声を出す。夕子は真似して拳をつくり、小さく笑って相手の拳にコツンとぶつけた。変わらぬ友情は健在だ。