3 教育係
翌朝、目が覚めて起きるなり夕子の身体は再びベッドに沈んでいた。
力が入らない。頭がぼうっとし、耳の奥でキーンと高い音が鳴っている。手足に重しをつけられたかのように全身がだるく、指先ひとつ動かすのも億劫だ。なにより耐えがたいのは、体の内側から悲鳴を上げるこの空腹感……。
込み上げてきた吐き気をなんとか飲み込もうと顔をクッションの山に押しつけた時、チクッと首筋が痛んだ。おもわず夕子は顔をしかめ、おそるおそる痛みのした箇所に指を這わせる。極小さなカサブタのようなものが、二つ――いや、四つ。一瞬不思議に思ったもののすぐに記憶が蘇り、夕子は「あっ」と声を上げた。
そうだ、昨日の夜……。
瞬く間に耳まで真っ赤にした夕子は急いで布団を頭の上まで引っ張り、それからそうっと目だけを覗かせ、天蓋カーテンの薄いレース越しに室内を探った。どうやらだだっ広い部屋に夕子一人きりらしい。窓から射すやわらかな光で満たされた室内に、この屋敷の主人の姿は見つからず、テーブルに置いてあった燭台も消えている。夜のうちに自分の部屋に戻ったのだろう。
「……グイドのバカ」
殺す気だったのかと疑いたくなるほど昨夜は容赦なかった。おかげで久しぶりにぐっすり眠れたが目覚めは最悪だ。
悪態とため息を交互に繰り返しながら、夕子はやっとのことでベッドから起きた。直後、ピッタリなタイミングでドアをノックする音が響く。
「お嬢様、失礼いたします」
返事も待たずに入ってきたのは、メイド姿のリンドウだった。
夕子は呆れたようにため息をつく。その微妙な視線に気づいたのか、リンドウが無表情のまま夕子に訊ねる。
「いかがなさいましたか」
「メイドさんだなぁと思って」
「指定の制服でございます」
「……執事なのに?」
「今はお嬢様の教育係も兼任しております」
そういうことじゃないのに。そう突っ込んだところで、どうせ入り口の相手には伝わらないのだろう。
この日も、執事兼教育係のリンドウはメイド服だ。日によって服の色やスカートの長さ、装飾などが変わることはあっても、夕子の知る限りいつでもメイドの格好をしている。リンドウいわく、どれもグイドの用意した指定の制服らしい。それが事実なら、あの男はずいぶんと趣味が悪い。
リンドウの頭にはヒラヒラした白い布ではなく黒い猫耳カチューシャ、首には鈴のついた赤い首輪と、スカートの後ろに安っぽい尻尾まで生やしている。それでいて、男でも重たそうな厳つい短剣を腰に下げ、怪しい者を見かけるやいなや、問答無用とばかりにその首に向けて鋭い刃を光らせる。なんともキャラの定まらないメイド――ではなく、執事で教育係である。役職も定まらない。
入り口に控えるリンドウは頭を下げながら事務的に告げる。
「お目覚めの時間でございます」
「もう起きてる」
「ご支度はお済みですか」
「そう見える?」
夕子が訊き返すと一瞬の間があった。やはり表情もなく一礼し、失礼いたしました、とリンドウは続けた。
「貧血のようですので、直ちに朝食の用意をいたします」
その言葉にさっと夕子の顔色が悪くなったことに、リンドウは気づいていない。
夕子は、顔を上げたリンドウに向かって軽く笑ってみせた。あくまで自然な感じに感謝を伝え、楽しみでしかたないという表情をつくる。それから、ちらりと目をやり、その無表情顔に変化がないことを確認した後でようやく軽い調子を装って言った。
「それじゃ、今日はカップにしようかな」
「カップ、とは?」
「ほら、なんていうの? こんないい天気だしお茶日和っていうか……うーん、おいしいお茶飲みたいなぁって」
「かしこまりました。食後に紅茶をご用意いたします」
「ううん、そうじゃなくてさ!」
心なしかリンドウの眼光が鋭くなった。夕子は必死に頭を回転させながら、「考えてもみて」と声を緊張させて言う。
「それだとお腹いっぱいにならない? なるよね? うん、なる。だって飲み物に飲み物だよ。そういうわけで今日はティーカップに注いで飲みたいなって思うんだけどいいよね!」
最後は一息で言い切った。肩で息を継ぎながら、ダメ押しのつもりで、夕子にこりと笑顔を披露してみる。リンドウの反応はない。吟味している最中だろうか。
早くも逃げ出したいと夕子は思っていた。できることなら今すぐベッドに戻ってまだ温い布団の中に潜りたい。そこで昼までずっと眠っていたい……。ひしひしと感じる無言の視線に、死刑宣告を受ける囚人のごとく身体を緊張させながら、夕子は一心に祈りを捧げた。
緊張の時間は、しかし唐突に幕を閉じた。
リンドウの冷たい目が僅かに細められたのを見て、あ、だめだった、と夕子は悟った。
「食事は直接にと仰せつかっております」
「うん、でもそこをなんとか」
「例外はございません。当主の言いつけは絶対です」
「だけどさ、たまにはいいよね?」
「そうですか。ご理解いただけたようで私も嬉しいです」
「わかったよ! でもさ――」
「感謝いたします」
取り付く島もないとはこのことか。あまりの石頭っぷりに、下手に出ていた夕子もキレそうになる。だが、イラっとした夕子の口から文句が飛び出すよりも先に、今度ははっきりとリンドウの目が細められた。凍てつく視線。ギラリと鋭い眼光。夕子は縮み上がった。
危ないところだった――耳元で速まる心臓の音を聞きながら、夕子の背中に冷たい汗が流れた。寿命が縮まった気がする。リンドウの視線が一瞬腰の短剣に向かったのを、夕子は目撃してしまったのだ。
そこから先は、恐ろしすぎるこの教育係の独壇場となった。
「お聞きしてもよろしいですか」
「あ、はい」
「お嬢様は直接の食事に何かご不都合等ございますか」
「いえ……ないです……」
リンドウは胸元に抱えていた洋装本のようなものをうなだれる夕子に差し出した。
「これは?」
受け取った本をひっくり返したりしながら夕子は訊く。真紅の表紙は革張りで、緻密な金の飾りが施されている様子は見るからに高級品のようだが、中を開けるとアルバムだった。顔と顔と、それからまた顔だ。一ページごとに異なる顔が短いコメントとともに並んでいる。その様はまるで――。
「カタログ、メニュー、お品書き……なんとでもお呼びいただけます。朝食はそちらからお選びくださいませ。どれもこれも現在当屋敷の敷地内にて所有している者たちです」
そう言って、固まったままの夕子に代わって、リンドウがゆっくりとページを捲っていく。凍りついた夕子の瞳に次々と様々な顔が映し出されていく。無理に笑顔を浮かべる者。怯えを隠せずにいる者。泣いている者。あるいは、感情の失った瞳を向ける者。壊れたように笑う者。そして、憎しみを露わにする者。人種も性別も年齢も、さらには人間も吸血鬼も関係ない。彼らに共通しているのはただひとつだけ。
ほどなくして一番最初のページに戻された。近くに感じていたリンドウの気配が離れていく。正面に向き直ったリンドウは無表情のまま、かしこまったように頭を下げて夕子に選択を迫る。
「――以上三十名からお選びいただけます。お嬢様、どうぞご選択のほどを」
「えっと……」
夕子はカタログの中の少年を見た。【人間・男(17)62kg】と記された文字の下で、赤い顔を憎しみで歪み、少年はカメラ越しに夕子を睨みつけている。
――全部この女吸血鬼のせいだ。
少年の顔が変わり、夕子のよく知る口がそう動いた気がした。