2 二人の英雄
夕子は顔を下に向けたまま声を震わせた。
「……英雄は、私じゃない」
「大神英雄――だったかい」
吐息混じりにグイドが尋ねる。夕子は黙って頷いた。
「君はとんだ大物なのか、それとも単なる大馬鹿者か、私は時々わからなくなるよ」
「……ひどい」
「私には到底理解が及ばないということさ。考えてもごらんよ。君が起動した爆弾で何百万もの人間の命が奪われたというのに、君が気に病むのは彼らではなく、たった一人の少年――それも子供のことなんてね。あの子供がそんなに好きだったのかい?」
「大神英雄は特別なの!」
そう叫ぶとともに手元のクッションを投げつける。しかしグイドは表情を変えることなく、首を傾けるだけで軽々と避けてみせた。
夕子はキッとグイドを睨みつけた。
「なのに、あんたに殺された! まだプロローグだったのに……主人公だったのに……!」
――全部この女吸血鬼のせいだ。
あの時の英雄の言葉が脳裏にこびりついて離れない。そのあとの恐怖で崩れた顔を、苦しそうな呻きを、忘れることなどできなかった。
英雄は半分正しかった。
だけどあくまで半分だ。日本を滅ぼしたのは確かに夕子だが、それはストーリー通りの展開であり、夕子がボタンを押さなければ代わりにグイドが押していた。どうしたって日本は一度滅びる運命だった。そういう意味ではけして避けられない筋書きで、しかたがなかったのだと割り切ることもできる。しかしそこから先はちがう。英雄が死んでしまったのはまぎれもなく夕子のせいだ。夕子の登場で物語が狂ってしまった。そしてこれからも狂い続けていく。
考えただけでも恐ろしくて、ここのところ、夕子はろくに夜も眠れなかった。主人公を失った物語はどうなるのか。英雄が倒すはずだった吸血鬼は? 守れたはずの人間は? 英雄のいない吸血鬼殲滅を掲げる組織、人鬼の行く末は? なにより――。
人類が勝利を飾るこの物語のラストは?
主人公の不在がこんなにも怖いということを夕子は知らなかった。狂ってしまった物語は、歯車が狂った時計のようにすこしずつズレが生じていき、最後には間違った未来を刻むのだろう。だから英雄は半分だけ正しい。この先に待ち受ける悲劇は全部夕子のせいだ。
私のせいだ、と夕子は言葉を落とした。私のせいだ、ともう一度呟き、ドレスの裾をきゅっと握る。
「私が殺したようなものだよ……。ただの大馬鹿者だよ。英雄は私じゃない。英雄だったのに――」
「いいや、それでも君は英雄だ」
「だからっ――!」
反論しようとした夕子を抑え、グイドは冷たく笑った。
「人間の英雄などどうだっていいさ。当然だろう? 我々は吸血鬼で、君は正真正銘、吸血鬼にとっての英雄なのだから。悔いるだけ不毛だ。そのことに気づきなさい」
夕子はきっぱりとグイドの目を睨みつけた。ひどい男だ。本当にムカつく。なんでこんなやつの養女になってしまったのかと、それこそ悔やまれる。
不穏な空気を察知したのか、グイドはまるで釈明するかのように口早につけ加えた。
「悲しくともそれが事実だ。君は人間の身でありながら我々のためによく働いてくれた。あの日君がボタンを押し、戦いの火蓋は切られ、我々吸血鬼は人間に勝利した。それも全てあのタイミングで爆弾が起動されたからこそだ。私の代わりに君が計画を実行してくれたからだよ。夕子、たとえ、それが意図せぬことだったとしてもね」
グイドの夕子を見る目は真剣そのものだ。いつもは余裕のある声もどこか張り詰めていて、まるで強く訴えかけるかのように、その表情の奥に切実な色が見える。もしかしたらグイドなりに夕子を案じているのかもしれない。そう思うと、夕子はこれ以上言い争う気にはなれなかった。
グイドはゆっくりとした動きで床に落ちたクッションを拾い上げ、微笑みながら夕子に差し向けた。
「でも……そうだね。私のことならいくらでも責めてくれて構わないよ」
「もう責めてるけど」
「足りないね。もっとだよ夕子。なに、遠慮はいらないよ。愛しい我が娘のためだ。喜んでこの身を犠牲にしよう」
「その愛しい娘にひどいことしてるくせに?」
夕子は呆れた様子で肩をすくめ、差し出されたクッションに手を伸ばした。グイドは一瞬、なんのことだかといった顔で瞬いたがすぐに気づいたようだ。さきほどまでとは一転して意地悪そうに目を細めた。
「これは立派な愛情表現さ」
「どうだか」と夕子は鼻先で笑う。
「ただし、吸血鬼流のね」
胡散臭いものを見るような目をした夕子に、グイドはいたしかたないといった風に頷いてみせる。
「どうやら疑っているようだね。いいさ。ならば証拠を見せてあげよう」
グイドの赤い唇がにやりと歪められた瞬間、なぜだか夕子は猛烈に嫌な予感がした。慌ててグイドから離れようと上体を引く。だが、その肩をグイドに掴まれた。
あっという間に、美しい顔が間近に迫っていた。
「やだ、離れて」
「悪夢だと言ったね。それなら私が幸せな夢に変えてみせよう。大丈夫。君は私に心も身を預けてくれるだけでいい。力を抜いてごらん。心を無防備に……そう……解き放つんだ……。何もかも忘れさせてあげるよ。さあおいで……私の愛しの夕子……」
「ひっ……」
ズキン、と鋭い痛みが首筋を貫いた。夕子の目が恐怖で大きくひらかれる。一瞬、呼吸を忘れた。いつもよりずっと強く、深く、グイドの二本の牙が柔らかな肌を突き破ったのだ。
灼けるような痛みに夕子は小さく呻いた。それはすぐに熱となった。まるで熱病にうなされているかのように全身が火照っている。じっとりと汗ばんでいるのは背中や額だけには留まらず身体中そこかしこだ。手足がひどく重くて気だるい。苦しくもある。
ざらつく舌が首筋を這った。
「ああっ……」
女の嬌声のような声が自分の口から出たものだと気づくなり、夕子は火がついたように真っ赤になった。とてつもない羞恥心に襲われ、きつく閉じた目に涙が浮かぶ。それが一筋の糸のように頬を伝い流れた時、これまでにない感覚が夕子に訪れていた。
夕子は声を震わせた。
「なにぃ……これっ……?」
ぞくりと肌がざわめき立つ。甘い疼きが身体中を駆け巡る。無意識のうちに逃げようと浮かせた腰に、すっと伸びてきたグイドの腕が回され引き寄せられた。くぐもった吐息が耳元をくすぐり、それだけで夕子は身体を震わせてしまう。頭の中に霧がかかる。思考がまとまらない。
やさしく誘われるまま、柔らかなベッドに夕子の身体は沈んでいく。そこに覆い被さったグイドは人差し指をまばゆい部屋に向けた。途端に、束ねられていた天蓋のカーテンがひとりでに閉まり、シャンデリアからは光が消え、アンティーク調のテーブルに置かれた燭台の蝋燭に火が灯った。
「あっ……グイ、ド……」
「なにも心配はいらないよ……」
薄いレースに、重なった二人の影が浮かび上がる。荒い息遣いと甘い囁き声が暗がりの部屋を満していく。
グイドの言葉は本当だった。幸せな夢を見せてくれた。
だってもう何も考えられない……。