1 真夜中の寝台
天蓋付きベッドの薄暗い天井を見上げながら、夕子はぽつりと呟いた。
「……神様なんていない」
「おや。やっと君もそれっぽいことを言うようになったね」
「おかげさまで」
にこりと笑顔をつくると、楽しげなクスクス笑いが返ってきた。夕子はむっとしたがあえて言い返すことはせず、僅かに身じろいで横を向いた。ベッドの上に脱ぎ捨てられた白いコートが目に入る。床に落としてやろうと、夕子がこっそり手を伸ばしたその時、鋭い痛みが夕子の首筋を貫いた。
「っ……!」
おもわず息を洩らした。その反応が面白かったのか、夕子の首元で銀色の頭がおかしそうに揺れている。
「まいったなあ。唆るねその表情」
「ド下手。痛いんだけど」
「感謝して欲しいくらいさ。君がいつまでも夢見心地だから、現実に噛み戻してあげたんだよ」
そのからかい口調に、夕子は飛び出しかけた言葉をぐぐっと飲み込んだ。図星だったからだ。もっとも夢と言っても幸せな夢などではなく、夕子に言わせれば、出来の悪いとびっきりの悪夢であったが。
あれから、半年が経とうとしている。
半年と言うと、まだそれくらいなのかという気がしてくるので不思議だ。しかし六ヶ月と思えばなかなか感慨深いものがあり、およそ百八十日と考えれば目頭もじんわりと熱くなる。とても気苦労の絶えない毎日だった。
それでも夕子は恵まれているのだと、周りは口を揃えて言う。それは夕子だってわかっていた。シックな紫の床に黒い家具が並んだゴシック調のだだっ広い部屋。天井には、この世の贅沢を極めた豪華なシャンデリアが宝石のごとく輝きを放ち、その下には洒落た角度で据えられた年代物の大きなグランドピアノ。中でも夕子のとっておきは、部屋の奥の巨大な天蓋付きベッドだ。大人五人が寝転んでもまだ余るほどの広さを誇り、頭の側に積み上げられた色とりどりのクッションの可愛らしさは、夕子に言わせると――半端じゃない、だ。
この部屋の調度品に至るまでのすべてが、夕子のためだけに用意されたものである。そして何を隠そう、それを指示した人物こそがこの屋敷の主人であり、今現在夕子の首筋に顔を埋めるムカつく銀髪頭なのだ。
思い出したせいで込み上げてきた苛々を、夕子は荒々しく鼻から吐き出した。
「ふん、悪夢だよ絶対」
「困った子だね。ため息をつきたいのは私の方なのに」
「なんでグイドが?」
「こう見えて嫉妬してるんだよ」
ベッドが軋む音がした。銀色の頭がそっと離れていく。
掴まれていた腕が自由になり、微かに感じていた温度が遠のいたので、夕子は訝しげに足元のほうに目をやった。白いベストに白いブラウス、白いズボンが見える。そこに視線を据えたまま、夕子は尖った声で尋ねた。
「嫉妬って?」
「私だって傷つくんだ。こんな時に他の男のことを考えるなんて……ふふ、ずいぶんな駆け引き上手と見た」
「勘違いだよ」
「知りたいのはそこじゃないさ。ねえ、私の愛しの夕子。そろそろ余裕が出てきたと思っても……いや、勘違いしてもいいかい?」
冷たい指先が、ベッドに仰向けになったままの夕子の頬に触れる。びくりと夕子の肩が揺れ、その顔に緊張が走る。やはりグイドは面白がっている。再び聞こえたクスクス笑いに腹を立てながらも、夕子は必死に首を横に振り訴えた。
「やだ! ちょっと待ってよグイ――」
ド、と言い終わらないうちに、くいっと顎先を持ち上げられ、すぐ吐息を感じる距離にグイドの顔が迫った。夕子は息を呑んだ。抵抗するのも忘れ、自分の頬に熱が集まっていくのを感じながらもなすすべなく、一瞬本気で見惚れてしまった。
「ふふ、どうしんだい?」
「っるさい! 離れて!」
はっとして、自分に被さる体を乱暴に押し返そうとするがびくともしない。それどころか、愉快そうに笑う声が頭上から降ってくる始末だ。
グイドはクスクスしながら、下で暴れる夕子の頬に手を添えた。
「それでどの男のことを考えてたんだい? 私の知ってる男? それとも君は女性がお好みだったかな?」
「だからそんなんじゃ……」
「ほらダメだよ夕子。私は真剣に質問してるんだ。ちゃんと目を見て答えなさい」
そんなの無理だ、と夕子は思った。それなのにまるで操り人形になったかのように、自分の意思とは関係なく夕子の身体はふざけた命令に従っていた。夕子は目を上げ、自分に被さる相手を見た。そいつは満足そうににこりと微笑み、このうえ夕子を殺しにかかる。
「やっと私の顔を見てくれたね」
美しい男というのはこんなにも危険なのかと、夕子は息が止まる思いだった。どんな言葉でも彼を語り尽くせる気がしない。常軌を逸した美しさ。全身から立ち込めるその気高さ。存在の高潔さ。まるで星を散りばめたように煌めく銀髪の美しい男は、夕子を見つめ、微笑み、その頬をひと撫でする。
「ふふ、どうしたんだい? 君が答えるのを待ってるんだよ」
「グ、グイドには……関係ないよ……」
「へえ?」
どうやらバレバレの嘘だったらしい。獲物を見つけた獣のように、グイドの白い睫毛に縁取られた瞳がすっと細められるのを、夕子は目撃した。慌てて口をひらこうとするも、それより先にグイドの冷たい指先が唇に押し当てられた。
「当ててみせよう。――あの日のことだね?」
「あの日?」
そう訊き返した声はすこしだけ上ずっていた。
「素晴らしきあの日のことだよ」
「私の知ってるあの日とちがう」
「悪魔に祝福された日だった」
どこまで本気で言っているのだろう。グイドの口元は笑っているが、目だけは鋭く光っている。
グイドが脇にどいたので、その隙に夕子は上体を起こした。
「私の長い人生において疑いようもなく最良の日だったよ。神はいなかった。あるいは、もしかするといたのかもしれないね。だけど人間を見放した。神は我々に微笑んだ。まったく感謝が尽きないよ。ふふ、それとも――感謝すべきは君にかな?」
その言葉に夕子は顔を曇らせた。ふん、と小さく鼻を鳴らし、ベッドの背もたれに寄りかかり、折り曲げた膝に顔を埋める。清潔な石鹸の香りがした。高級仕立てのクリーニングが施された白いナイトドレスから立ち込めているようだ。
夕子は深く息を吸い込み、それからおもいきり吐き出した。繰り返しているうちに少しずつ気持ちが軽くなっていく気がした。けれど錯覚だ。胸の奥で時々痛みを主張するこのしこりが消える日は、永遠に訪れることはないのだろう。
やさしい手つきで、グイドは夕子の髪を一筋すくった。
「困った子だね。まだ気にしてるのかい?」
「……当たり前でしょ」
「何度も言うようだけど君の行いは正しかったよ」
「グイドたちにとってはね」
「我々にとって、だよ」
「ちがう!」
弾かれたように夕子は顔を上げる。
「だって私は――」
「いい加減やめたらどうだい」
ピシャリとグイドが言い放った。夕子は出かけた言葉をぐっと飲み込む。グイドの顔からは微笑みが消え、厳しい表情で夕子を見据えている。
もう何度目にもなる言葉を、グイドは辛抱強く繰り返した。
「人間のことなど早く忘れるんだ。それが私の願いだよ」
「でも……」
「いいね? そもそも君が気にする必要なんてないんだ。君はもう人間でもなければ、ただの吸血鬼でもない。私の愛しい養女というだけでもない。夕子、君は――吸血鬼の英雄なんだよ」
英雄――。
その言葉が胸の奥でずしんと重く響いた。