3 予後
夢を見ているんじゃないのかと、夕子は冷たい床に倒れ込んだまま傷口を抱え、ぼんやりと目だけを上げた。
大好きな漫画のプロローグ。そこにまったく未知の登場人物として入り込んでしまった。この現実離れした状況を説明するには、ほかのどんな言葉より「夢だから」という一言のほうが納得がいった。そういえば寝る前に読んでいた漫画もこれだったし、なおさら夢に見てもおかしくない。ただひとつだけ気がかりなのは、夢にしては身をつんざくような痛みがリアルすぎるのだ。
あまりの激痛にこらえきれず、夕子は額に脂汗を浮かべて唸った。それで英雄は夕子の存在を思い出したらしい。
「お前が……お前が日本を……」
「英雄くん!」
息を切らしながら、脇夜久が遅れてやってきた。床に倒れた夕子を見てびくりと足を止める。夕子と英雄から距離をとったまま二人を交互に見て、声をひそめた。
「ねえ英雄くん……その女性……」
「吸血鬼だろ。アイツの仲間だ。この女が日本を滅ぼしたんだ……全部この女吸血鬼のせいだ!」
「えぇっ! それじゃ、間に合わなかったの……?」
夜久の声が涙で滲んだ。泣きたいのはこっちのほうだと、夕子は唇が白くなるほど強く噛み締めた。痛みは治まりそうにない。どんどん血が流れていくのがわかる。目の前が何度も遠くなって今にも意識を手放しそうだ。
ごほっと夕子の口から血が飛び散り、冷めた目で夕子を見おろす英雄のスニーカーを汚した。
「殺そう」
英雄が冷たく言い放つ。
「ど、どうやって?」
「頭を潰すんだ。吸血鬼はこのくらいじゃ死なない。夜久、あっち見てろ」
「でも英雄く……」
「これで脳天ぶっ刺してやる」
ギギッ、と何かを引きずるような音がした。夕子は音のしたほうへ視線を伸ばし、喉の奥で「ひっ」と短く悲鳴をあげた。慌てて床を這う。両手で刀を構えた英雄から逃れようと、夕子は痛みも忘れて力を振り絞った。冗談じゃない! 英雄に刺された傷口が焼けつくように熱かった。血に濡れたのか失禁したのかわからないほど下半身が湿っている。床と天井が交錯し、ぐるぐる回って――。
ふっと目の前が真っ暗になり、どこかで硬い足音が響くのを夕子は耳にした。閉ざされた視界が一進一退しながらちょっとずつひらけていく。薄汚れたコンクリートとダンボール箱……血で汚れた靴先……学ランの黒いズボン……それから、突きつけられた日本刀。
頭上で、感情を殺したような低い声がした。
「見んなよ夜久」
「う、うん!」
「覚悟しろバケモノ」
「やっ……」
声を絞り出そうとしたが喉を震わすので精一杯だった。夕子の目から大粒の涙がこぼれ落ちた。覚めろ。覚めろ。夢なら早く覚めてくれ。お願いだから! 夕子はぎゅっと目をつむった。祈った。
衝撃はこなかった。
どれだけ待ってもやってこなかった。
「う、うわああああああああ!」
「く……っそが……」
夜久の悲鳴。英雄の呻き声。そして誰かが駆けて行く足音が遠ざかっていく。
近くでボタボタと水が落ちるような音がした。地面に叩きつけられた雨水があっという間に広がっていくように、何かが床の上に伸びていく。温かくてぬるっとしたものが、夕子の頬を撫でた。濃い鉄の臭いが鼻につく。
夕子は目を開けた。ゆっくりと瞬きを繰り返し、ぼやけた視界にピントを合わせる。赤い床が見えた。真っ赤なスニーカーが見えた。濡れた学ランのズボンが見えた。痛みに顔を歪めながら僅かに首を浮かせ――赤く染まったワイシャツが見えた。それから――。
一瞬息が詰まった。信じがたい光景が飛び込んできた。
「て、めぇ……なんで生きて……」
「『吸血鬼はこのくらいじゃ死なない』――ふふ、知ってたのに残念だったね。もしかして君ってうっかり屋さんなのかい?」
「っち、くしょ……」
ごふっと英雄の口から大量の血が飛び出た。蒼白な顔でギリギリと目をひらき、背後を睨みつけようと必死に後ろに回っていたその瞳が、ついに諦めたのか、それとも気にせずにはいられなかったのか、ふっと下に落とされた。直後、ぐしゃっと英雄の顔が歪んだ。弾かれたように瞳孔が揺れ、頬が、唇が、顔全体が、恐怖で崩れた。
まるで悪夢を見ているようだった――夕子に向けて振り下ろされたはずの刀が、あろうことか、英雄の心臓を背中から貫いていた。
夕子は歯を食いしばって上体を起こした。ふらつく上半身を背中のモニター台に預け、目だけは油断なく、息も絶え絶えな英雄のその背後へと向ける。疑う余地もない。この場面で主人公を殺すなどという、大番狂わせも甚だしい暴挙に出るふざけた人物など、夕子が思いつく限りでは一人しかいない。
刀に貫かれたまま英雄の身体が床に倒れた。動きはない。夕子は沈黙した英雄の身体からゆっくりと目を上げ、その後ろで余裕たっぷりに構える白いコートの男を見た。白いシャツに白いズボン、白いブーツ、さらには上質な白い手袋を纏った全身真っ白のグイドは、この場にそぐわない楽しそうな笑みを浮かべ、夕子に向けてひらひらと手を振ってみせた。
「やあ、人間のお嬢さん。君がこの国を滅ぼしてくれたのかい? おかげで楽できちゃったよ。いやあ、実を言うとさあ……」
そのあとに続けられた言葉は、どれもこれも夕子の右の耳から左の耳へと通り抜けていった。
夕子は薄れゆく意識の中で、なんて空気の読めない男なんだと憤慨し、呆れ果てた。静かに死なせてくれる気はないらしい。死にかけの夕子の顔のすぐ横にしゃがみ込んだグイドは、夕子の事情などお構いなしに呑気に話し続けている。
と、夕子の限界を感じ取ったのか、急にグイドの語調が冷ややかになった。
「――それで、最期に言い残すことはあるかい?」
最後なら――と夕子は残された力を振り絞って笑う。
「はは……漫画と展開ちが……」
「漫画?」
グイドはきょとんとした。
「漫画ってなんだい? あっ、おーいお嬢さん……おーい……」
なんて嫌な夢なんだ。グイドが滅ぼすはずだった日本を人間の夕子が滅ぼしてしまうし、英雄には刺されるし、その英雄は生き残るはずが殺されて、逆に死ぬはずだった夜久はどっかに逃げていった。メチャクチャだ。『ひとおに』はこんな話じゃないのに。
夕子は限界を感じた。ムカつくグイドの声ももう届かない。清々する。
願わくば――神様どうか、早くこの悪夢から覚ましてください。