2 予想外
「ただいまー……って留守だっけ」
鞄から取り出した鍵を戻しながら独りごちる。
この日の朝、朝食の席で聞いた話によると、今日は家族みんな帰りが遅いらしい。冷蔵庫の中に夕食は用意されているが、昼食は出前のピザを取るのだと言って夕子が譲らなかった。そのためダイニングテーブルに軍資金が三枚、赤い金魚の箸置きを文鎮にして置いてある。夕子はクーラー、扇風機と順にスイッチを入れ、さっそくチラシを手にし、電話台に向かった。楽しい前哨戦の始まりだ。
壁の時計に目をやった時、もう夜の九時を過ぎていることに驚いた。
シャワーから戻った夕子はアイスを片手に二階の自室に上がり、部屋の窓を開け、薄手のレースのカーテンを引く。初夏の夜風は火照った身体に心地よく、外から聞こえる虫の音も夏の夜の楽しい気分をいっそ盛り上げるようだった。残り二時間何をしようかと、夕子はベッドにごろんと横になり、思い巡らせた。ふと昼間の会話を思い出す。
「……いいね」
夕子はにやっと笑ってベッドから飛び降り、小走りで向かった本棚からお目当てのものを見つけ、ニヤついた顔で第一巻を取り出した。
警報音の鳴り響くけたたましい音で夕子は目覚めた。
いつの間に眠ってしまったのだろう。夕子は目を開けるとともに勢いよく咳き込み、慌てて両手で口元を覆った。目をばちばちと瞬かせる。眼球に鈍い痛みを感じ、涙がこぼれそうになる。何も見えない。
それは暗闇だからではなかった。
真っ白だった。
――火事だ。
ぎょっとして飛び起き、夕子は素早く頭を横に振った。ギリギリまで細くした目で周囲の様子を窺ってみるが、煙に邪魔されて家具の輪郭すら見当たらない。とっさに身体を低くしたのは奇跡に近い。パニックになりながらも、夕子はドアがあるだろう方向に向かって必死に足を動かした。
何かがおかしいと思い始めたのは、それから間もなくのことだった。
夕子は、口を覆っていないほうの腕を無我夢中で振り回し続けた。家具でも壁でもドアノブでもなんでもいい。知っているものに触れ、自分のいる場所を確認したかった。しかしどんなに進んでも、腕を突き出しても、何ひとつ手応えがない。
おかしなことはほかにもある。部屋にいたはずなのに、既に歩いた距離は五畳半の部屋の大きさを軽く超えているのだ。なにより不思議なのは、こんなにも煙が上がっているというのにどこからも火の気を感じない。というより、むしろ――。
「寒い……」
ぶるっと夕子は身を震わせた。
奇妙なことに、裸足の足底から伝わる床の温度はぞっとするほど冷たく、まるで真冬のコンクリートの上を歩いているようだった。半袖のシャツとホットパンツから伸びた手足は、見るまでもなく鳥肌が立っているのがわかる。
ふと、頭上から聞こえる大音量の警報音に混じって、時折、不気味な金属音がすることに気づいた。カキッ、キッ、カキンッ――と鋭い金属同士がぶつかり合っているような音が微かに聞こえてくる。
「わっ!」
何かにぶつかり足を取られ、夕子は勢いよくつんのめった。反射的に伸ばした両手は、ツルっとした重厚感のある床の上を滑り、もう少しで顎先を打ちつけそうになる。危ないところだった。間一髪で胸元から倒れ込んだ夕子は、冷たい床の上でおもわずほっと胸を撫でおろした。
どうやら段ボール箱にぶつかったらしい。両手と両膝を交互に動かし、這うようにしてぺたぺたと進みながら、夕子は白いもやの中に似たような箱をいくつも見つけた。やはり見知らぬ場所にいる。これから引っ越しをするのか、それとも越して来たところなのか、その慌ただしさを物語るようにそこら中に段ボール箱が散らばっている。あるいは作業中の倉庫なのかもしれない。底冷えした空気の中に、煙たさとは別の埃っぽさを感じた。
それからずいぶんと経ったような気がする。次第にかじかんだ指先の感覚を失い始めた頃、これまでになかった変化が目の前に訪れた。夕子はぴたっと動きを止め、数秒後、ふたたび動き始めると渾身の力を振り絞った。
一見すると、それは霧の中で光る赤いテールランプのようにも、出口を示す誘導灯のようにも見えた。しかしドアにしては低すぎる。急き立てるように点滅する赤いライトは、もっと別の存在を知らせている。――そんな予感めいたものを感じながら夕子は立ち上がり、身体を低くするのも忘れて精一杯目を凝らした。が、煙のせいでよく見えない。わかるのは、夕子の顔の高さとちょうど同じくらいの位置で何かがピカピカと真っ赤に光っていることぐらいだ。その正体を突き止めるにはさらに近づく必要がある。
右足が、キャスター付きの椅子のようなものを弾いた。その次に当たったのはテーブルだろうか。夕子は見えないテーブルらしきものに左手をつき、乗り出して覗き込もうとしたがうまくいかない。しかたないので口を覆っていた右手を離し、テーブルの右脇に乗せた。カチッ、という無機質な音がした。
警報音が鳴り止んでいた。あたりはあいかわらず煙に包まれ視界は不明瞭だったが、その中についさっきまで点滅していた赤いライトは消えていた。前方からコンピューターを起動するような、ブーンという低い音が聞こえてくる。頭上で、機械の音声が流れる。
『ピッ……ピッ……命令ヲ……確認シマシタ……』
「えっ?」
『実行マデ五秒前……三……ニ……』
一瞬の間があった。
『――攻撃開始』
夕子は硬直して固唾を呑んだ。神経を、耳を研ぎ澄ませた。ところが何も起こらない。何も……。
ほっとして全身の力が抜けたその時、突如としてそれはやってきた。
「っ!」
大地が揺さぶられている。立っているのが困難なほど強い揺れに夕子の口から悲鳴があがる。縦に、横に、斜めに、乱暴に、建物全体が揺さぶられているのか、そこかしこから建物が軋む不協和音が響き渡る。慌てて冷たい床に両手をくっつけ、膝をついて屈み込んだ夕子は、頭を丸めて衝撃に耐えた。遠くでガラス窓が外れて砕け散るような音がした。大きくて重たいものが倒れ込むような音がした。ガタガタと何かがぶつかり合う音が前方から聞こえてきて、頭を庇った。ほどなくして揺れは収まった。
おそるおそる顔を上げて夕子は驚いた。煙が晴れている。どこかに空気の通り道ができたのか、あれほど濃く充満していた煙は嘘のように引いていた。もう普通に目を開けても痛くはない。呼吸も楽になった。それと同時に、ようやく周囲の様子を知ることができた。
夕子の想像した通り、倉庫のような場所だった。薄暗い内部は学校の体育館よりずっと広さがあり、段ボール箱が投げ出されているほかには何もなく、もぬけの殻と言っていいほどがらんとしている――。と、ゆっくりと首を回していた夕子は、正面を向いてどきりとした。おもわず二度見する。
大量のモニターが、壁一面を覆うようにずらりと横に並んでいる。テーブルだと思ったのは正確には横長のモニター台で、そこには細かいボタンやツマミなどがこれまたびっしりと埋め尽くしてある。明かりの消えた赤いランプもあった。
モニターの半分以上が砂嵐だった。残りの映像も次々に揺らぎ、プツリと途切れ、ただの砂嵐に変わっていく。前触れもなく切り替わる時もあれば、その直前に一瞬だが、映像の中の景色に爆風のようなものが駆け抜けていく時もあった。
夕子は無意識のうちに一歩引いてその全貌を見渡そうとした。つい最近これと同じ光景を見た気がする。なんだろうと考えてすぐ思い至った。
「はは、夢ぇ……?」
その時、後方で乱暴に扉を押し開ける音が聞こえた。
「ここだ!」
「先に行って!」
振り返る間もなかった。それほどまでに夕子は夢心地で放心していたし、突然部屋に飛び込んできた人物は少しも躊躇することなく、完璧な一手を繰り出していた。
夕子は、黙って自分の脇腹を見おろした。銀色に輝く長い刀身が突き出ている。日本刀だろうか。切先が小刻みに揺れているのは、背後の相手が荒々しく肩で息をしながら柄を握っているからだ。と、いきなり引き抜かれ、その拍子に夕子の身体は糸の切れた人形のようにその場に崩れ落ちた。
血溜まりの中で、夕子は何度も読んだあの言葉を耳にした。
「おい、なんだよこれ……嘘だって言ってくれ……頼むから、なあっ!」
蹴りつけるように床に踏みおろされたスニーカーが真っ赤な血を跳ねる。
「“爆弾が起動された! 日本は滅びたんだ!”」
大神英雄が咆哮した。