1 予感
「“死ね吸血鬼!”」
突然の叫び声に、小海夕子は弾かれたように首を上げ、振り向きざまに後ろに飛びのいた。黒い物体が目と鼻の先を横切っていく。ついさっきまで夕子が立っていた場所を正確に狙った攻撃だ。あと一歩反応が遅れていたらまともにくらっていただろう。
夕子は伝い落ちる汗を拭うように手の甲を顎に当てたまま、襲ってきた相手から静かに距離を取った。右手の学生鞄を盾のごとく構え、目の前の相手に視線を据えたまま、頭の中で金歯を光らせる厚化粧音楽教師の姿を思い描く。噛みしめた奥歯にぐぐっと力が入った。
「“おのれ人間ごときが……! またしても邪魔をするのか!”」
「“何度でも立ち向かってやる! それが俺たちの答えだ!”」
「“いいだろう。ならば今度こそ根絶やしにして――”」
「やかましい」
ごつん、と左側頭部を衝撃が襲い、夕子は両手で頭を押さえてその場に飛び跳ねた。「痛い!」と大声で文句を言い、涙目で左を向く。その時、すぐ近くで似た悲鳴が上がった。
「痛いです!」
夕子と友人の愛は、たがいに頭を庇った体勢のまま顔を見合わせ、ほとんど同時にむすっとすると、二人の前に仁王立ちになる相手を勢いよく振り仰いだ。
「ノリ悪いぞ花ちゃん」
「そうです。最終決戦なのに」
「知らないわよそんなの」もうひとりの友人である花は、舌打ちこそしなかったが露骨に嫌そうな顔をし、苛立たしげに鼻から息を吐いた。
「周りを見てよ。変な女子高生がいるって通報されたいの?」
その大袈裟すぎる物言いに夕子と愛はまた顔を見合わせ、タイミングを見計らったかのようにピッタリ同時に左右を振り返った。
真っ昼間の住宅地。強烈な陽射しがアスファルトにカンカンと照りつけ、うだるような暑さの中に濃い緑の匂いを感じる。ありふれた夏の、ありふれた通学路。遠くに小さく聞こえるのは子供のはしゃぎ声と赤ん坊の泣き声、それと開け放たれた窓から流れ出るテレビの音。延々と続くかと錯覚しそうになるほど長い通りの先に同じ制服が見えるが、そのほかに人の気配は――。
あ、と隣の愛が上ずった声を洩らした。大きな目を丸くして、口元に手を当てている。その視線の先には、いくらか進んだ場所の二階建ての家、そのベランダで手すりに乗り出す小学生くらいの兄妹。気のせいでなければ夕子たちのほうを向いている。
勝ち誇ったような花の笑顔を見るのは癪だったので、夕子は何事もなかったかのように鞄を持ち直し、少し足早にふたたび歩き始めた。二人もすぐに追いついてきて隣に並んだ。
「決めたよ。花ちゃんの夏休みの課題は読書だね。反対意見は?」
「夕子さんに賛成です。いいですね課題図書。熱いバトル漫画は暑い夏にピッタリです!」
「言われなくても大人の読書ならするわよ。でも漫画なんて読まないし、ましてやバトル漫画なんて野蛮じゃない」
「またまたー。すぐ手が出る花ちゃんにうってつけ……冗談。冗談だってば。やめて睨まないで」
頬を引きつらせ慌てて首を横に振るが、容赦なく花の拳が夕子の頭に降り落ちた。
「痛いって!」
夕子はまた瞳を潤ませて、花とクスクス笑いが止まらない愛を睨んだ。花は怒った顔で睨み返してきたが、愛は取り繕ったような微笑みを浮かべ、わざとらしい咳払いで誤魔化しにかかる。
「で、でもー……ただの漫画じゃないんですよー?」
じろっと花に睨まれたが、こればかりは愛も負けじと笑顔で頑張った。
「大人気バトル漫画――その名も『ひとおに』! 人間と吸血鬼の命を懸けた熱く燃える戦いがここにあり、です! 主人公の大神英雄と泣き虫の親友脇夜久が修学旅行先で偶然、吸血鬼による全世界同時襲撃計画を知ることから始まるんですけどぉ……」
「ちょっと待って。私興味ないんだけど」
と花は顔をしかめる。
が、うっとりと興奮した愛の耳には入っていないようだ。
「二人はただの中学生でありながら日本を守るため、吸血鬼日本支部へと乗り込みます。そこで日本中に仕掛けられた爆弾とそれを起動するためのボタンの存在を知って……日本支部臨時リーダー、吸血鬼のグイドと戦うんです!」
「負けちゃうんだけどね」
と夕子は愛の説明を引き継いだ。
「“爆弾が起動された! 日本は滅びたんだ!”ってセリフなら聞いたことあるでしょ? 親友の夜久も殺されて生き残ったのは主人公の英雄だけ。で、復讐を誓うの」
「ふふふ、これが涙なくしては見られないプロローグになります!」
「へえ結末は?」
いつの間に取り出したのか、カバーを裏返してつけた文庫本を片手に花は尋ねる。不自然なまでの、私全然興味ないんですけどアピールだ。
愛はちょっぴり気落ちしたように肩を落としながらも笑顔で答えた。
「本編では大人になった英雄が吸血鬼殲滅を掲げる組織、人鬼に入って、なんやかんやしてるうちに吸血鬼を全員やっつけ、なんやかんやしてるうちに最後は人間の勝利で終わります」
「じゃあその吸血鬼の……グ……グッドだっけ? 良い人そうね。そいつは最後に死ぬの?」
その問いに、愛はにやりとした。夕子もにやっとして花を見た。花は、意味がわからないけどとにかく不快だわ、という顔をして二人を見た。
「グイドです。ラスボスだと思われたグイドは……」
愛はまたにやりとした。
「な、なによ?」
「一巻の終わりで、成長した英雄にあっけなく殺されるのだ」
と夕子は舌を出す。
「雑魚キャラだと後に判明するのがファンの間で密かに熱いんだよ」
「不憫な男ね」
「どのみち吸血鬼は最後には全滅しますから。みんな自業自得のざまあみろですよ」
「そうかなぁー」
穏やかな気質の愛にしてはなかなかの過激な発言に、ちょっとだけ引っかかった。気づくと、夕子の口から自分でも意外だと思うような言葉が飛び出していた。
「私はちがう結末でもよかった気がしたけど。なんだかかわいそうだったかなって」
「ふっふっふ、さては夕子さん、あなた……“見つけた! 吸血鬼のスパイめ!”」
「やかましいって」
「ぎゃっ」
今度は文庫本の角で殴られた。そろそろ花のイライラも爆発する頃合いだ。夕子と愛は軽く目配せをし、この話題はこれでおひらきにした。
いつもの別れ道に差しかかる。
交差点で立ち止まった夕子は、信号待ちする愛と花を見た。二人とはここでお別れだ。
「二人とも海外旅行だっけ? いいなあ」
「あんたもどっか連れてってもらえば?」
「ふふ、次は二学期ですね」
それから少しして、自宅まで通りをあと一本というところで、ふいに黒いローファーが止まった。突然吹きつけた風の行方を追うように、夕子は来た道を振り返った。真っ青な空が瞳に焼きつく。どこまでも繋がっているような広大な青空の中、白い雲がゆったりと流れている。
七月中旬。明日から長い夏休みだ。
おもわずニヤけた夕子ははっとして周りを確認し、急いで駆け出した。すぐに弾んだ足取りに変わる。
なぜかはわからない。
だけど、何かが起こるんじゃないかって少しだけワクワクしている。