FOX & MAGICIANS
昔の作品の再掲載です。
敢えて、何も手直ししないままです。
山の中を一人の若い男が歩いていた。
血を流しすぎたな、とその男、深海道隆は思った。
重すぎてほとんど動かない身体を騙しながら、木々の間を進む。
坂道は辛いな、と思っていると、不意に足元の地面が無くなって道隆は崖を転落
した。
受け身を取る事もかなわず、道隆の身体は木の枝を叩き下りながら真下の地面に
叩き付けられる。
「……がふっ」
血の霧を吐きながら、起き上がる。
かろうじて助かったが、状況は絶望的だった。
意識は半ば朦朧としているし、身体に力が入らない。
しかも、後ろから迫ってくる敵達のプレッシャー。
「これは……死ぬかな」
そんな事を呟きながら、ついに道隆はその場にへたり込んだ。
木の幹に背を預け、荒い息を吐く。
きゅーん……。
何かの鳴き声がした。
「……?」
くっつきそうになる目蓋を何とか堪えながら、鳴き声の方向に顔を向ける。
道隆から五メートルも離れていない場所に、小ギツネがトラバサミに引っ掛かり、
足から血を流しているのが見えた。
「……よいしょ」
道隆は起き上がろうとしたが、力が入らずそのままうつ伏せになってしまった。
どうして助けようという気になったのか、強いて理由を挙げればここでこのキツ
ネを助ければ、ひょっとしたら天国に行けるかもしれないと思ったかも知れない。
もっとも、天国に行くには道隆はあまりに多くの人を殺してきていた。
地面を這いながら、キツネの傍に辿りつく。
キツネは大人しく、うつ伏せ状態で自分に近づいてきた怪我人の様子を見ていた。
道隆はトラバサミの繋ぎ目に手を加えた。
バネが跳ね上がる音と共に、キツネの足が罠から解放される。
キツネが逃げていくのを見届けると、道隆の意識は深く沈んでいった。
道は、木々でふさがれていた。
「隊長、こんな木、行きにありましたっけ?」
長尾成海は副隊長の戸惑った言葉を聞きながらも、木々を見
上げていた。
確かに、行きにはこんな木で道がふさがれている事は無かった。
考えられるのは一つ、あの深海道隆が作ったのだ、この木々を。
「どいてろ」
長尾は副隊長を後ろに押しのけ、息を吐いた。
手を前にかざすと、正面の木々が強風で吹き飛ばされる。
副隊長を筆頭とした部下達が吹き荒れる風に、思わず顔を腕で覆う。
巻き起こる土煙。
しかし、本来降り注ぐはずの木の破片が落ちてくることは無かった。
長尾は数歩前に進み、地面に落ちていた札を拾った。
トランプのカードだった。
「ふん……クローバーの9か。こんな場所で大きな数を出すとは、奴もかなり追い
詰められているな」
カードを眺めながら長尾が呟くと、横から副隊長が質問してきた。
「隊長、それは?」
「お前、追い掛けている奴の経歴も知らないのか?」
「え、ええ、聞いていませんが」
そういえば説明していなかったな、と長尾は思い至った。
『塔』でも屈指の魔術師、深海道隆にも弱点はあった。
奴は確かに実力はあったが、それは相手も単体の時だ。
複数の敵を相手にした魔術は多くない。
「奴の使う魔術はカードを使用する概念魔術だ。最初に、俺達が食らったのは奴唯
一の対複数用攻撃魔術『トランプの兵隊』。ついでに『クイーン・オブ・ハート』
まで使わせられたのは僥倖だった。K、Q、Jの強いカードは残されると厄介だか
らな」
長尾としては言う訳には行かない。
まさか、その『トランプの兵隊』を使わせる為に、とにかく数だけを揃えたなど
とは。正直な所、部下達は全て捨て駒に過ぎない。それは『塔』の幹部達も承知の
上だ。
だが、ある駒は最大限に利用させてもらう。
地面に付いている血痕を見下ろしながら、長尾は口を開いた。
「奴はこの近くにいる。全員手分けして探し出し、発見次第殺せ」
「はい」
副隊長は頷き、後ろの部下共々、一瞬にして散開した。
「さあ、キツネ狩りの時間だ」
そして、長尾もゆっくりと歩き始めた。
「んぅ……」
深い闇から目覚めた時、道隆の視界にまず入ったのは日本家屋らしいどこかの天
井だった。
「……?」
周囲は薄暗い。
どうやら部屋が暗いのではなく、既に夜になっているようだった。
身体を動かそうとしたが、鉛のような重さでビクともしない。痛みも感じないほ
どだ。
「あ、気が付きました?」
可愛らしい声が右からしたので、道隆は首をそちらに向けた。
満月を背に、巫女装束の少女がタオルを引っ掛けた木桶を手にしながら微笑んで
いた。
「……あの、ここは一体?」
「雲然山の中腹にある神社です。裏に薪を採りに向かっていた所を見つけたんです
よ。驚きました」
あんまり驚いた様子もなく、少女はニコニコと微笑んだままだ。
「ここまで、その、あなたが運んでくれたんですか?」
「ええ、私、こう見えても力はありますから」
少女は、むん、と腕まくりをした。色白の細い腕が露わになる。
「怪我の手当てはしましたから、後は傷が癒えるように栄養を採らないと駄目です
ね。ご飯の用意をします。あ、消化にいい、おうどんにしますね」
少女は木桶を畳の上に置くと、障子の向こうに消えていった。
道隆は再び天井を向くと、ため息をついた。
「生き延びちゃったか……」
「……」
座椅子に腰掛けさせられた道隆は、目の前の料理を見つめた。
少女が言っていた通り、料理はうどんだった。
しかし、中身がすごい。
卵と牛肉、ワカメに餅、それに揚げが二枚。
そのなみなみと盛られた具のお陰で、汁の下のうどんがほとんど見えなかった。
「食べないんですか?」
丼を手に持ち、同じうどんを箸で啜っている少女が首を捻った。
「いえ……ありがたく頂戴します」
確かに栄養は付きそうだ。ただ、ゆっくり食べないと胸焼けを起こしそうではあ
ったが。
二人でずるずるとうどんを食べていると、少女が尋ねて来た。
「どうして、あんな所に倒れていたんですか?」
そうだ、それがあった。
「ちょっと事情がありまして……」
さて、どう説明したものかと道隆は迷った。
道隆が所属していたのは、一種の学究機関だ。
ただ、世間一般では知られていない。
『塔』と呼ばれるこの機関の目的は『世界の理の探求』である。
この世界に確実に存在し、だが未だ解明されていない『魔法』の研究を行なって
いる。
それは、書物の積み重ねから解き明かされるものもあれば、人の直感と閃きから
発見されるものもある。
だから、この機関での主な研究方法は理論派と実践派の二系統に分かれていた。
道隆はこの『塔』で生まれ、子供の頃から研究命題を与えられていた。
それは『数と記号』だ。だが、数学かといえば、そうでもない。
例えば1、2、3という数字があるが、これは一位、二位、三位という数に解釈
すれば、1が優位に立つ。だが、一つ、二つ、三つではむしろ3が優位の場合が多
い。かと言って、1が常に不利かといえば、そうでもない。
その法則性についての研究だ。
そして、彼は研究材料にトランプを選んだ。全53枚という限定された数も好き
だったし、様々な応用も利く。それに、どこにいても研究が出来るという携帯性も
望ましいものだった。
だが、それだけなら道隆も『塔』から逃げ出したりはしなかっただろう。
「答えられる範囲でいいですよ? 無理強いはしません」
少女の促しに、道隆は頷いた。
「僕はとある学問の研究をしているんですが、これは少々説明が難しいので、『戦
争』というものを例にあげます」
「『戦争』?」
「はい。これを研究するには、大雑把に分けて二通りの方法があります。一つは歴
史書や研究書を紐解いて、自分の研究命題に消化していく方法。分かりますか?」
「はい。それで、もう一つの方法は?」
「実際に戦場に行って、自分の目で確かめ、身を以って戦争というものがどういう
ものかを知る方法です。確かに直接的で分かりやすいのですが、人殺しに嫌悪を感
じる人間にとっては、耐えられる方法ではありません。ですが、機関からの命令と
なると、逆らえません。通常は」
道隆は言葉を切った。この例えの意味が分かってもらえるかどうか不安だった。
少女は頷いた。
「つまり、ええと……あなたはその方法が嫌で拒否した、という訳ですか?」
ここで道隆は自分が自己紹介もしていない事に気がついた。
「道隆です。深海道隆」
「あ、音羽霧香です。この神社で宮司をしてます」
宮司といえば、神社で一番えらい神主だ。
「他に、この神社で働いているものはいないんですか?」
「ええ、古い上にボロッちい神社なもんで。私一人です」
少女は恥ずかしそうに笑った。
「それでお話を戻しますと、怪我を負っているのは、その機関から追われていると
いう事になりますか」
「そう……ですね。皮肉な事に、『戦争』を長く研究していると、研究者自身が歴
戦の戦士となってしまうらしく、どうにか生き延びられてきました」
「運がよかったですね」
「ええ……ですが、ここも危なくなりますから、明日には出立させて頂きます。お
世話になりました」
道隆は頭を下げた。
「駄目です! 道隆さん、今は痛みが麻痺して分からないかもしれませんけど、ひ
どい怪我なんですよ! そんな身体で動いたところで、すぐ倒れちゃうのがオチで
す!」
「そうは言われても……」
「――なんなら、その悩み、オレが解消してやろうか?」
その声に、道隆ははっと霧香を抱き寄せ、どこから取り出したのか一瞬にしてカ
ードを出した。『ダイヤの3』だ。
瞬間、和室が凄まじい突風で吹き飛ばされた。天井が吹き飛び、畳がめくり上げ
られる。うどんの丼は柱にぶつかって砕け散った。
しかし、『ダイヤ』の『盾』に守られた道隆と霧香はかろうじて無事だった。
「死ねば、怪我の具合なんか気にしなくて済む」
満月を背に、カーキ色の服を着た男が宙に浮いていた。
道隆の身体に無意識に蓄えられていた、戦闘時用の力が漲る。
彼は霧香を背後に追いやると、身体に力を込めて立ち上がった。
風はいまだ強く、道隆は腕で顔を覆いながら視界を確保する。
「長尾成海、もう追いついたのかっ!」
「血の臭いと痕が残っていたから、追うのには苦労しなかった。死ね」
簡潔な言葉だった。
同時に無数の影が音も無く道隆達を取り囲んだかと思うと、一斉に襲い掛かって
きた。
宙に浮いた男、長尾は勝利を確信していた。
『トランプの兵隊』は、術を行なうには枚数が少なすぎる。
長尾の知っている限り、道隆に複数を相手にする術はもう無かったはずだ。
文字通り、道隆は手札が切れた状態である。
しかし――その予想は覆された。
「……何だと?」
刃物を構えた部下達は、道隆達にたどり着くより前に、次々と倒れていった。
道隆の正面に、三枚のカードが光を放ちながら宙に浮いていた。
『ダイヤの4』、『クローバーの4』、『スペードの4』だ。
三枚の『4』。
「……『吹き荒れる死のカード』。数の価値は何も順序だけじゃない。並べる事に
意味が存在する場合もある」
そしてカードを一枚取り出すと、道隆はそのカードを長尾に向けて投げ放った。
『スペードの9』は『九つ』の『矢』に姿を変え、長尾に突き刺さろうとする。
しかし、その矢は長尾に辿り着くより前に、彼の周囲に渦巻く強風に阻まれ、次
々と地面へと落ちていった。
まずいな、と道隆は思った。
長尾が精霊魔術師ではなく、道隆と同じ概念魔術師だという事は知っている。問
題は、奴が『何を研究』しているかだ。
道隆自身の手札は知られているのに、相手のカードが何なのか、いまだに分から
ないままなのだ。
いや、それよりもまず優先させるのは――
「霧香さん、早く逃げて! ここはもう、危ないから!」
背後でまだへたり込んでいる霧香に向けて、道隆は長尾を見上げたまま声を張り
上げた。
正直、振り返る余裕など、欠片も無いのだ。
長尾が『強風』を使って周囲の大木を根こそぎ引き抜き、道隆達に向けて飛ばし
てくるのを『ダイヤの盾』で防ぐので精一杯だった。しかも、持ち札は弱いカード
がほとんどで、使いどころを間違えると霧香もろとも吹き飛ばされかねない。
しかし、霧香は一向に逃げる気配が無かった。
「何をしてるの!? 早く逃げないと!」
風が強いため、自然怒鳴り声になる。
ここで、霧香は奇妙なことを口走った。
「あの!! みち……かさん、魔……師なんですね!? そうなん……よね!?」
「え!? 何ですって!?」
うまく聞き取れなかった。
霧香は立ち上がると、風になびく黒髪を押さえながら道隆にしがみついた。
そして、耳元で叫んだ。
「道隆さん、魔術師なんですねって言ったんです! だったら、私が何しても、驚
かないですよね!!」
「え……?」
いい加減、膠着状態に焦れた長尾は一際大きな木を『強風』で引き抜いた。
「これでも――」
それを道隆に向けて狙い定める。いくら優れた『ダイヤの盾』とは言え、数の小
さなもので防ぎきれる大きさではない。
「――食らえっ!」
投げ飛ばした。
道隆はワンパターンに『ダイヤの盾』を出現させる。
しかし風で加速のついた巨木は『盾』ごと力を押し切り、道隆達に衝突した。
ダンプカーに撥ねられたように二人は神社の境内まで吹き飛び、石畳の上を二、
三度バウンドしてから動かなくなった。
二人がうつ伏せになったまま、完全に動かないのを確認すると、長尾は地面に降
り立った。
「これで任務完了か」
ボソリと呟き、長尾は二人に近づいた。おそらく完全に死んでいるだろうが、万
が一という事もある。
道隆の身体に足を引っ掛け、仰向けにさせる。
全身血塗れで白目を剥いた死体。
脈も確かめたが、やはり死んでいた。正真正銘、間違いない。
これで、この仕事も終わりだ。
大した感慨も無く、長尾はポケットから煙草とライターを取り出した。
それは、一服と火葬の両方を兼ねていた。
実のところ、長尾の魔術師としての研究命題は『成長』だ。長尾を宙に浮かせな
がら守っていた『強風』も、周囲にある大気を『成長』させて生み出したものに過
ぎない。早い話、空気の流れである『対流』さえあれば、長尾は無敵だった。その
気になれば、自身の吐き出した呼気を『成長』させ、同じ効果を生み出す事だって
出来る。
風に火を乗せ二人の身体に着火、『火』よりもむしろ『熱』を『成長』させ、二
人の身体を完全に焼き尽くす。
「……」
煙草を咥えた長尾は焼けた死体から巻き上がる黒煙を見上げていたが、やがて異
常に気がついた。
「……?」
死体は燃えている。それは確かだ。
なのに、何故一向に人の形が崩れない?
「!!」
疑問と同時に、長尾は後ろに飛び退いた。
一瞬前まで長尾が立っていた位置を、炎の鞭が薙いだ。
「馬鹿な……」
呟く長尾の煙草が根元まで黒炭に変化していた。
死体はもはや死体ではなかった。死体は動かない。
長尾の足元の地面が揺れた――かと思うと、轟音と共に周辺から巨大な火柱が幾
つも上がった。
長尾は何が何だか分からなかった。
だから、難しいことを考えるのはやめた。
確実に分かることは、ここは危険だということだけだ。
彼は、『風』を成長させ、宙に飛んで戦線を離脱――しようとしたが出来なかっ
た。
いつの間にか頭上に控えていた二つの『炎の死体』が、長尾に向けて無数の『炎
の鞭』を放ったのだ。
「うおおおおっ!」
「こ、これは……一体?」
突如攻撃を止め、空中でのた打ち回り始めた長尾を見上げながら、道隆は呆然と
していた。
長尾同様、何が起こっているのか、さっぱり分からなかった。
その道隆の袖を、霧香が焦った様子で引っぱった。
「早く逃げましょう! あのまま死んでくれると助かるんですけど、もしかしたら
生き延びるかもしれませんから!」
「あ、ああ……それにしても、君は一体?」
火などどこにも無いはずなのに、長尾の身体は突然発火を開始した。
灼熱の苦痛とパニックの中にいながらも、長尾は必死に考えていた。
悪い夢のようだった。
そう、こんな事は起こるはずが無い。
だが、実際に今、自分の身体は炎に焼かれ、朽ちようとしている。
意識が生と死の狭間で明滅を開始する。
長尾の命は保って、あと数秒だった。
だが、それでも長尾の頭脳の一部は考え続ける。
起こるはずのない事が起こっている。
何の伏線もなしに、こんな死に方は認められない。
道隆がこんな術を使うなどという報告は聞いていない。もしかしたら『切り札』
として隠していたのかもしれないが、考えにくいことだった。
道隆の『数と記号』は、東洋の『木火土金水』といった五行思想とも、西洋の『
地水火風』といった四大精霊ともあまり縁が無い。
ならば、一体誰が?
現実とは思えない術だ。
自分の『成長』でさせた風すら無効化させる炎の嵐。
道隆ではない。長尾でもない。部下は全員死んでいる。
ならば。
「……そうか。あの女かっ!!」
朽ち行く直前に、長尾は炎の中で答えを出した。
手を取り合いながら境内を駆ける二人の背後で、地響きが鳴り響いた。
「な、何だ!?」
「分かりません! それより傷は大丈夫ですか!? 苦痛はない筈ですけど!」
「あ、ああ……」
確かに霧香の言う通り、ひどい傷にも関わらず、何故か身体に痛みは無かった。
しかし、この痛みの無さはむしろ全身麻酔の無痛に近い。何しろ、彼女と繋いで
いる手の感覚も無ければ、走っているというのに足元の感覚も無いのだ。
「ところで、君は……」
先導する霧香が振り返らないまま頷いたのが、道隆には見えた。
「はい。私、実は……」
しかし霧香が答えるより先に、何者かが石畳を砕きながら二人の前に降り立った。
長尾だった。
長尾の今の姿はひどい物だった。
髪はチリチリになり、全身が焼け焦げていた。その所々にケロイド状の火脹れも
存在している。おそらく皮膚呼吸も満足に出来ないだろう。
だが、それでも長尾は生きていた。
「……やってくれたな、女」
長尾の目の前で、彼女は毅然とした態度で道隆を背後に庇った。
「山や森に住む狐狸の類には、幻術や不老長寿の術を使うモノがいる。それを失念
していたオレも迂闊だったが深海、貴様どうやってそこの牝狐を手懐
けた」
「……牝狐?」
道隆はハッと何かに気がついた様子だった。
「そうか……君はあの時の……」
「はい。あなたは命の恩人ですもの。助けるのは当然です。大丈夫です。ここは私
が守りますから」
「それは、どうかな?」
鼻で嗤う長尾を、彼女はキッと睨みつけた。
しかし、すぐにその顔が何かに気付いたように強張った。
「ど、どうして……術が利かない!?」
ふぅ……と息を吐いてから、長尾は記憶にある知識を引き出した。
「幻術とは五感へ錯覚現象を発生させる術だ。人間の脳は電気信号の伝達で働いて
いる為、これに干渉する事で幻覚や幻聴が生じる。そして問題なのは、いわゆる催
眠効果。通常、肉体の損傷から痛覚神経を伝達して『痛み』と言うものを人間は自
覚するが、幻術の場合、逆の現象を引き起こす事が出来る。つまり『痛み』を与え
る事により、肉体を損傷させる事が出来る――なるほど、原理は書物で読んだこと
があるが、身を以って味わったのは初めてだ」
そこまで言うと、長尾は彼女から視線を外し、視線を上げた。
「そして、電気信号に干渉するということは、その属性は五行でいう所の『木』気
に当たる。ならば、答えは簡単だ。オレよりも、もっと大きなものにその『気』を
誘導させればいい」
長尾は二人の後方を顎でしゃくった。
二人は目の前の脅威にも構わず、振り向いてしまっていた。
「――悪いが、『避雷針』を立てさせてもらった」
長尾の視線の先には、高層ビルほどの高さにまで『成長』させられた巨大な木が
そびえ立っていた。
呆然と、後方の巨木を眺める二人に構わず長尾は言葉を続ける。
「もう、幻術は通じない。全て、あれに吸収されるからだ。そして――」
「――お遊びは終わりだっ!!」
長尾がパチンと指を鳴らした瞬間、ハッと長尾に向き直った道隆の身体から夥し
い鮮血が噴き出した。
「ぐあっ!?」
「道隆さんっ!?」
「『傷』を『成長』させた。致命傷だ。もう助からん!!」
長尾は大股で二人に近づくと、霧香を渾身の拳骨で殴り飛ばした。
木を薙ぎ倒しながら横っ飛びに吹き飛ぶ霧香。
長尾はそのままの勢いで道隆に詰め寄ると、その鳩尾に膝を叩き込んだ。
「ぐふっ!」
一瞬呼吸困難に陥り、身体を折った道隆の背中に、今度は肘打ちを入れる。
「がっ!」
そして、道隆の首根っこを手で掴むと、そのまま大きく持ち上げた。
道隆の足先が宙に浮く。
返り血が顔や身体に浴びるのにも構わず、長尾は道隆を持ち上げたまま叫んだ。
「随分と舐めた真似をしてくれたな。……正直楽な仕事だと思ったんだが、中々ど
うしてやるもんだ! お前の使った術は全て『塔』に報告させてもらう! 何か遺
言はあるか!? 何でも聞いてやるぞ!?」
「が……あっ……」
がふっと口から血煙を上げる道隆を見て、長尾は残忍な笑みを浮かべた。
「もっとも、満足に口も利けない状態だろうがな……何をしている?」
道隆が指を自分の流れる血に浸すと、そこからカードが出現した。
それは、生命の源から生まれた『ハート』だった。
「なるほど、『カード』に『意味』を持たせるだけではなく、『意味』から『カー
ド』を生み出す事も出来たのか。面白い。非常に面白いぞ? 最後にいい物を見せ
てくれた!」
くっくっく、と本当におかしそうに長尾は笑った。
「だが、『ハートの2』だと? 回復か? やってみろよ。その傷ではどうせ焼け
石に水だ。治った直後に、再び傷を『成長』させてやる」
「よく……喋るな……お前」
荒い息を吐きながら、道隆はなおも指を動かした。
ぱら……とカードがめくれる。
いつ、取り出したのか。
カードは一枚ではなかった。
『ダイヤ』『スペード』『クローバー』それぞれの『2』で計三枚。
そして今出現させた『ハートの2』のカード。
『2』が四枚……?
長尾にはその意味が分からなかった。
だが、次の道隆の言葉で、意味を理解する事となった。
「なあ……長尾、『大富豪』ってゲーム……知ってるか?」
長尾は目を大きく見開くと、道隆のカードを払い落とそうとした。
だが、道隆の術はそれより早かった。
宙吊りになりながらも、道隆はありったけの力を振り絞って叫んだ。
「――『革命』っ!!」
『革命』=『力の逆転』が発動した瞬間、長尾の全身から熱い血が噴水のように激
しく噴き出し、彼は絶命した。
そして、怪我の代わりに全身に火傷を負った道隆は、首を長尾の手から解放され
ると同時に、力なく血溜まりの中に倒れこんだ。
涼しい風と秋の虫の鳴き声で、道隆の意識はゆっくりと覚醒した。
そこは以前と同じ和室の中だった。どこをどう直したのかは分からない。もしか
すると、元々神社そのものが無くて、全てが霧香の幻術で生み出されたものだった
のかもしれないが、まあ、今はどうでもいい事だ。
そして当の霧香は、道隆の傍らで正座して団扇を扇いでくれていた。
「大丈夫……?」
少し赤く腫れている霧香の頬を見て、道隆は思わず心配になって尋ねた。
霧香はおかしそうに笑った。
「それを言いたいのは、むしろ私の方ですよ。痛覚神経は幻術で麻痺させましたけ
ど、ひどい火傷です。あとで、栄養の付く物を作りますね」
「……出来れば、揚げと卵程度でお願いします」
「はい」
「死体は……どうしました?」
「山の奥に埋めておきました。ボロっちいとは言っても一応神社ですから、穢れは
避けたいですしね」
なるほど、神社は実在するらしい。
「ところで……ねえ、道隆さん。これからどうしますか?」
「どうしましょうかねえ……」
道隆が天井を見上げていると、霧香はポンと手を打った。
「よかったら、私と一緒に暮らしてくれませんか? 人間の人がいてくれれば、こ
の神社の居住権も確保できますし、今なら可愛いお嫁さんもついちゃいます」
「なぁるほど、確かに条件はいいねえ」
風光明媚、騒々しさとは無縁の土地で、しかもうまい料理(ただし量に難あり)
を作ってくれる美人のお嫁さん付き。
ここで暮らすのもいいなと、道隆は思った。
「それじゃ、よろしくお願いしますか、霧香さん」
「はい。今後とも、よろしくお願いしますね、道隆さん」
初出、2001年9月28日。