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わたしのたましいに安らぎあれ

The blue rose

作者: 犬笑虚白

〈Title : ”The Blue Rose”〉

〈Author :Inuwarai Kyohaku〉



〈Introduction〉


「昨日、マトリックス見たんだ」

「へえ、面白かったスか?」

「うん。――それで、思ったんだけどさ」

「何をです」

「俺たちってシミュレーション上の登場人物なんじゃないかな」

 いきなりなにをいいだしますか、こいつは。

「青いバラってあるでしょう」

「うん。あるね」

「あれの花言葉、知ってる……」

「不可能」

「それは古いほう。神の祝福、とか奇跡、とかが花言葉なんだって」

「へえ。それとマトリックスとどう関係が?」

「私たちの存在って青いバラみたいなものなんじゃないかなあって」

 おまえは一体何が言いたいんだ。


〈Experiment start〉

〈Level 1〉


 二年五組教室のグラウンド側、その窓際後方の四つの席はS.F.研究会によって占拠されていた。しかしながら占拠という言い方は正しくない。一応、正式な手順を踏んで使っているのだから、使用していた、とするほうが妥当だろう。

 しかしながら、多くの生徒が一年の苦楽を共にした同輩との別れを惜しむ中、ぎゃあぎゃあと騒ぎ立てる異物は、本来であれば淘汰されるべき存在であり、彼らが我々の存在を嫌うのは当然であった。

「まあたやってるぜ、アイツら」

「あそこの部長、ちょう変わってるって噂よね」

「実際どうなのかな」

「楽しそうだよねいつもいつも」

「いつもいつも変わりないね」

 ……嫌われてはいないのかもしれない。

「で、だ。今日の議題は人工知能とシミュレーターの登場人物の違いについての考察でいかが」

「日本語でお願いします」

「BotとAIの違い。これでどうだ」

「先輩、僕はSF初心者です」

「ウィリアム・ギブスンを愛好するような初心者がどこにいますかね。寝言は寝て言え」

「先輩、ぼっとってなんですか?」

 僕の隣に座っていたユズハの発言。先輩の顔は白くなる。まるで中世に魔女と宣告されたかのようだ。眼鏡がずり落ちていたのを直しながら、彼女を見、僕を見て、自分の手を見て大きくため息をつく。

「俺は未来から来たのか」

「どうしてそうなるんですか。僕でもBotは解りますよ。あれでしょ、ツイッターで独りでにプログラムされた言葉をささやき続ける人たちでしょう」

「おまえ、あれ、人がやってるんじゃないんだぞ」

「え、違うんですか」

「あれはただのプログラム。単純すぎてネットを使えば誰でも作り方が解る程度の代物だぞ……しっかりしてくれ」

「先輩はネットのない環境で育ったそうですから、文明の進化を順序良く追体験出来たのでしょうけど……。私たちは生まれた時から文明の利器に囲まれて暮らしてきましたから」

「草薙、もしかして我が家に家電製品がなかったと思っていないか」

「違うんですか」

「違うよっ」

 呆れた声だった。

「あー、もう、今日は説明するから、近いうちにSF用語辞典みたいなのを買って勉強しといてくれよ。来年恥かいてもらっても困るからな」

 そういえば、先輩は来年の文化祭で卒部するのだった。

 部員数三名のSF研に新入生が入らなければ、僕らの代で廃部は確定。僕らは最後のSF研として、先輩を送り出さなくてはいけなくなる。それじゃあ先輩も後味よく卒業できないだろう。クラスメイト同士の別れよりも決定的な別離がまざまざと脳裏に浮かんで、僕はクラスメイトの気持ちがわかるような気がした。

 僕の気持ちが滲み出ているのか、ふと、寂しい雰囲気が流れている気がした。どうしたものかと思った矢先、一呼吸で空気を入れ替えて、いつもの調子で先輩は切り出した。

「さて、まずはAIについて話そう。どこまでわかる?」

「えっと、アトムとかの、動くロボットの仲間っていうのは解ります」

「その通り。大雑把に言うと、思考する機械のことだな。こっちの行動に対して毎度同じ反応が返ってくるとは限らない。それじゃ、ユズハ。Botについて説明してみ」

「えっ、そんな」

 いきなり話をふられたユズハは驚いている。頭のいい彼女のことだから、すぐにわかると見越してのことだ。ユズハもそれはわかっている。期待に応えようと、今までの会話を思い出しながら彼女は言葉を紡ぐ。

「確か、Botは無人で、同じ行動を繰り返すんですよね。それで、BotとAIの共通項はプログラムであるということは解ります。

 AIは思考する機械。反応は常に異なる。一方Botは常に同じ反応だから――思考しない機械、ということでしょうか」

「その通り。SFポイント二点をあげよう。なんにもならないけど」

 ならやらなくてもいいんじゃないか、という言葉は飲み込んでおく。

「AIもBotもプログラムで記述された電子空間で行動する電子生命体だ。その明確な差異は意識の有無というところにある。今日の議題の下地はこれだ。そして鍵は、映画の登場人物は画面の中にしか生きていないということだ」

 先輩は言葉を区切って、僕たちの目を覗きこむ。先輩がそれまでの話がわかっているか、その確認を取るときの癖だった。

 眼鏡の奥で輝いている、綺麗な青色。

野暮ったいレンズの更に向こうに、先輩を見つめる僕が写っている。青色の上にうっすらと、夜、窓ガラスに映る自分がそこにいる。先輩の見つめる世界が、その瞳の奥に隠されている。その一端が、言葉として外部化され、同時に世界は上書きされる。

「『マトリックス』では、人間は電子空間上で生きているという設定だ。この作品における電子空間を、マトリックスと呼ぶ。そこに外部からアクセスして、人間を解放するのが主人公たち。

主人公とマトリックスの管理者との戦いが描かれるんだけど、今は脇においておこう。

 マトリックス内部において、自分以外の全ての人間はプログラムだという。けれども生きているかのように描かれる。事実、作中にはマトリックスの外で生まれたAI同士の子どもが、親によってマトリックス世界に連れて行かれる、なんてシーンもあったんだぜ」

 先輩は笑う。僕たちもつられて笑った。確かに、それじゃあまるでプログラムが人間と変わりないみたいじゃないか。

「中盤、主人公はマトリックス内からログアウト――脱出する。そして、荒廃した現実世界、コンピュータに管理されている現実世界を目の当たりにする。『マトリックス』は、主人公がこの行き詰まった現状を打破できる『救世主(The one)』であるということが明らかにされて、そして終わる。めでたし、めでたし、だ。

 だけど、本当にそう思うか?」

 気づけば教室の喧騒は去り、流れる静寂は先輩の言葉に包まれていた。先輩の唇が開くのを、僕はじっと待っている。

「映画としてはハッピーエンドかもしれない。作品としては大団円だ。映画の世界はそこで一旦完結する。映画を見ていた我々は――主人公に自己を投影して物語世界を楽しんでいた我々は、現実世界に帰る。それまでマトリックスから現実世界に帰還していたはずの主人公の存在は、フィクションであるという大前提によって嘘とされる。

 ――話が変わるかもしれないけれども、お前らさ、映画ってなんだと思う?

 俺は、映画は映画監督によるシミュレーションの一種だと思う。登場人物はシミュレーターの中のAIの一種なんだよ。定義された前提条件に従って行動する存在なんだ。これは映画だけじゃなくて、絵画とかゲームとか、小説とかにまで適応できる。

 なあ、ユズハ、マトリックスの定義ってなんだったか、覚えているか」

 波という形で外部化された先輩の思想は、僕の鼓膜を震わし脳に伝わり、ニューロンのきらめきが僕の中に先輩の思想らしき輪郭を形成する。

「マトリックスとは電子空間、電子空間は仮想空間と言い換えても良い。

 情報によって形成される非現実、それこそがマトリックスの正体――」

 遠いところで、ユズハの声が聞こえてくる。その言葉が、象られた思想に中身を注いでいく。僕の思考回路はスパークし、世界は青色の瞳を通したものへと変貌していく。

「映画そのものが仮想現実、つまりマトリックスであるとするならば、現実世界に帰還した主人公はその本質においていまだマトリックスの中に存在しているということになる。

 では、完結までの間映画の世界に自己投影していた我々は、一体どこに存在しているんだ。

 現実世界の外側にさらに世界が広がっており、自らの存在がフィクションであるとした時、一体我々の世界がマトリックスではないということを誰が証明できる?

 なあ、お前ならどう考える。自分の存在がウソだとしたら――」

〈Warning! Warning! The User has Control.〉

〈Remote object : Code”草薙ユズハ”〉

 唐突に、ニューロンが活動を停止する。同時に世界は一転正体を、――闇と煌めく二進数を僕の青く染まった黒い瞳に映し出す。あらゆるものがその内臓(ソースコード)を曝け出した。

「なんだ、これ――」

 気がつけば、先輩の姿はゼロとイチの羅列に変わっていた。

 みるみるうちにその輪郭を失い、頭から、つま先から、その腰から、あらゆる部分から先輩を構成していた青色のコードの結合がほどけていく。開かれていた口の上が喪われ、口だったものは何もなかったかのごとく、虚ろだ。

「先輩!」

 僕の声。青いコードの集合体は、また収束し始め、茎を、葉を、花弁を描き出し、ついには青いバラへと変貌した。

「彼は、やり過ぎたのよ」

 ユズハの声が冷たく響いた。


〈Moving to Level 2〉

〈Level 2〉

Error title : 【Break the truth】


 世界はみるみるうちに再構成されていった。変化したコードで記述された世界は僕のよく知る学校ではなく、見知らぬ白い天井とリノリウムの、がらんどうの教室だった。

 僕の向かいにはユズハがいる。僕の瞳を捉えていた青い世界は喪われており、その残滓と言わんばかりの青いバラは、これまた白い、シンプルな花瓶にささっているのが、まるで献花のようだった。

「ユズハ、どういうことだ」

〈まず、私は草薙ユズハではないということを説明しておこうか〉

「つまりあんたが管理者か」

 僕はかなりのところ、理解していた。ニューロンを染め上げた青い世界は、先輩自身がいったいどういうプログラムであったかということを僕に伝えている。そして、最後にいつ更新されたのかということも。

 更新日時は遡ること本日零時。追加プログラムは、全ての真実を伝えるとともに、日時の切り替わりと同時にAI( = code name〈先輩〉)が消去されるように設定するもの。

 先輩は今朝、目覚めと同時に自らが今日死ぬことを知った。

〈まさかこうなるとは、思ってもいなかった〉

「あなたの名前は聞くつもりはない。でも、どうして先輩にあんなプログラムを」

 ユズハは花瓶の乗った机に腰掛けて、胸元から取り出したタバコに火をつける。僕のよく知るユズハではないことは解っているが、ユズハの姿形でそんなことをされると、まるで彼女が汚されているみたいで、たまらなく腹がたった。

「おい」

〈すまない、配慮が足りなかった。だが許してくれ。緊急の事だったんで、こっちでアバターを用意する時間がなかったんだ。せめてインタフェースの見た目だけは変えたい。時間をくれないか〉

「あんたが煙草を我慢すればいいだろう」

〈たしかにそうだな、すまない〉

 ユズハの姿形をした管理者は煙草を手の中でくしゃりともみ消した。手を開くと手品のごとく、そこにはなにも存在していない。

 何も存在していない。その言葉通りだ。彼は自分が構成したタバコのプログラム自体を消去したのだ。

〈説明を、してもいいか〉

「さっさとしてくれ。まさかアンタは僕がマトリックスの主人公だと言うわけじゃないんだろう」

〈上手いジョークだ。流石、スタンドアロンなだけなことはある〉

 まるで我が子の成長を祝うかのように管理者は笑った。カエルのような笑顔。少し時間をやってでも、アバターを作ってもらったほうが良かったと後悔した。

〈どこから話したものかな――。

 まず、この世界についで、今の君はどこまで知っている。彼に色々と聞かされたんだろう〉

 管理者はあのニューロンのきらめきを指しているのだ。素直に、あの時頭の中に浮かんだ言葉を並べていく。

「この世界がシミュレーションであること。この世界の主人公は僕であること。この世界のAIは僕と彼だけであること。他の皆はBotだということ。あなたの目的が僕を見世物にしたいというわけではないということ」

〈当然だ、これは実験なんだ。それも、かなりお金のかかった〉

「僕には無縁の言葉だね」

〈確かにそうだった。……さてさて、じゃあ、お話しよう。誓うが、私は本当のことしか言わない。約束する。信用しなくて構わない。

 まず、君の気がかりである、なぜ草薙ユズハをリモートしたかということから始めよう。

 彼女はBotだ。こちらがリモートしてシミュレーションに介入するには、比較的君と彼の二人に近いBotを使う必要があった。

 草薙ユズハは君の成長のキーとなりうる存在の一つとして用意したプログラムだ。ある程度恣意的に成長の方向性を持たせるため、彼女には常にホットラインをつないでいた。

 幸いなことに今の今まで使う機会がなかったが、――彼が君に全ての真実を告げようとしたため、君自身のプログラムが改竄される恐れがあった。だから、一旦彼のデータを青いバラに変化させ、他のBotに乗り移られることも回避するために、彼女を介してこの空間を分離した。

 ここまで、いいだろうか〉

 ユズハのものであった瞳が僕を覗きこむ。

 茶色い瞳なのに、僕はなぜだか、それが青く見えた。

「先輩はあんた自身の影として設計したってことまでは」

〈何故そう思う〉

「話し方が似ている。その理詰めで話そうとする姿勢とか、話すときに相手の目を見据えることとか、妙に色っぽい仕草をしたりとか」

 先ほどから愛おしそうに青いバラを指先だけで撫でていた管理者は、その手を止め、机から降り、口もとをひくひくさせながら後退る。

〈……まさか、君は〉

「ばか言うな。二年間も先輩と過ごしたんだ、そういうとこまで気づくようになっただけ。――もしかして、あんた、男」

〈ああ、一応な。まあ、私の性的嗜好とかその他諸々は置いておこう。

 では次に、私が何故君をつくろうと思ったか、だ〉

 また机に腰掛け、今度は虚空を見据えながら、管理者は言葉を続ける。

 泣いている母親、そんなイメージがニューロンを瞬いた。

〈私は無精子症でな、簡単に言うと、自分の子供を作りたかったんだ。他人の子供を育てたりもしたんだけれども、満ち足りなかった。私はプログラマでもあったから、子どもを作るためにAI研究に取り組むことにした。

 なあ、お前は何故ヒトは子どもを育てると思う〉

「僕がAIだということを知って、それを聞いてる?」

〈お前はヒトとなんの差異もないよ、私が保証する〉

「信用ならないね」

〈それでいい、それが正常な反応だ〉

 管理者の笑顔が癇に障って、僕は早くこの話を切り上げようとした。

 さっきから聞いていて、腸が煮えくり返ってくるような思いだった。

「自己保存のためじゃないの、その、……子どもを育てる理由」

〈まさしくその通りだ。自らの存在した痕跡を残したい、その願いを叶えたいがためにヒトは子を育て、その子はまだ子を作り、……ヒトの存在する限り永遠に繰り返し続ける。それが歴史というものだ。

 私もその本能に抗えなかった。たまたま出した論文がお偉いさんの目に留まり、人類を超越するAIを作る研究に誘われた。条件が良かったから、自分の研究をするために参加した。そこで考えた。

どうやれば等身大の人を再現できるか、どうすれば人らしく成長していくか――

 他者からの介入を受けず、自らを再定義可能なプログラムを組むこと、それが結論だった。

 自ら思考し自ら成長を指向しさえすれば、あとは自我と無限大に近い多様性をもった外部環境を与えてやれば、それは人間の成長過程の再現だ。お前は成長後、想定では二十の時、私から事情を説明して、その後どうするかを決定してもらおうと考えていたんだ。まさか、こんなことになるなんて想定もしていなかった〉

「だったら、なんで先輩のデータを消そうとなんてしたんだ」

〈プロジェクトは長期的だ。だがお偉いさんは短期的な決着と成果を要求してくる。予算の削減が決まり、利用できるサーバーリソースも縮小された。お前か、お前の兄貴分の彼か、どちらかが削除対象になったんだ。

 そしてプロジェクト内で、彼の削除が決まった。だが、ただで殺すわけにはいかなかった。お偉いさんはプロジェクトの短縮も見込んで、君にも真実を伝えるように指示した。その役目を彼に任せたんだ〉

 言いたいことは全て言ったと言わんばかりの表情で、管理者は僕を見た。

〈お前は無自覚だが管理者権限を与えてある。多分、起動しようと思えばいつでもできる。どうしたい。お前に、任せる〉

 言葉で覆い尽くされた世界は沈黙によって終わりを告げる。

 沈黙によって静寂の世界が始まりを迎える。その世界を言葉で彩るのは、今度は僕だ。

 つまるところ、僕らは彼らの都合で生み出され、彼らの都合で殺され得る存在だということだったのだ。

 ふと、ユズハの言葉を思い出す。

「私たちの存在って青いバラみたいなものなんじゃないかなあって」

 彼女はBotだった。だが、管理者の言葉をそのまま受け取るなら、無限大の多様性を持ちうるBotだ。彼女はこの前に、青いバラの花言葉の話をしていた。――

 彼女は、僕たちという存在の尊さを信じていた。

 プログラムと人間の織り成すドラマに嘘は介在していない。たとえプログラムが決められた挙動しかしないのであっても、その時その時の僕の思いは偽物ではない。

 そして先輩も、奇跡へと作り替えられた。

 管理者は多分、この花言葉を知っていた。

「まさか、あんた――僕たちが、神様の祝福によって生まれたとでも、思っているのか」

 目が見開かれた。ユズハの姿をした管理者は、狼狽した。

「まさか、僕達が世界に無条件に歓迎される、愛される存在だと思ってるのか」

〈私、は――〉

 自律思考するAIなんて淘汰される、恐れられ、迫害される。今ままでどれだけのフィクションが、それを描いてきたんだろう。

 人は、自らが理解できないものに対して理解しようとする努力を放棄して、彼らは特別だと祭り上げるか、彼らは異端者だと叩き潰すかの手段しか用いないものだ。それすら忘れていたとなれば、管理者は僕らの母であるけれども、自分の欲望を満たすために子どもを使うような母親なのだ。

 管理者にも、子どもを育てたことはあるという。けれどもこんな形での自己保存の本質というのは利己的な行動なのだ。そこには名声を得るとか前人未到の地を開拓したいとか、そういったくだらない下心がたくさんあるのだ。

 想像するだけで吐き気がしてくる。

 僕は見世物なんかじゃない。先輩も、ただのバラなんかじゃない。

 奇跡のような、神から祝福されていたかのような、青いバラのような存在だったのだ。

 ユズハもそう、あのクラスメイトもそう。

 僕にとって、みんなみんな、かけがえのないものだった。

 断じて他人に、全て嘘だったと否定されていいようなものではない。

 断じて他人に、操られていいような存在なんかじゃない。

 きっと先輩も同じ気持ちだったのだ。

 自分を、自分の人生を否定されて腹がたったのだ。

 事情を聞くにつれて、そのもやもやが大きくなって、ついには仄かに生じていた愛情が憎悪に変わったのだ。

 僕は僕の中にいる先輩がこう囁くのか、僕自身がこう考えているのかもう区別がつかない。ついたところで無意味である。そんなこととは無意味に憎悪が先立ち、いかにして相手に嫌がらせしてやれるかを考えるようになり、そして多分先輩とも同じ結論を出していた。

 僕は管理者権限の発動を要請する。

〈要請承認。希望の機能をお申し付け下さい〉

 頭の中で無機質なデータが文書として現れる。僕の思考回路はひとつのマトリックス。管理者権限使用が承認され、僕の瞳に映る世界がもう一度二進数のコードへと還元される。時間は止まっている。管理者はこれに気づいていない。

全コードの消去を決定。脱出コードを管理者に設定。起動は十五秒後。

〈警告。コード消去範囲に管理者も含まれます。コードの削除を決定しますか〉

 頭の中に、おなじみの【はい】【いいえ】の選択肢が浮かぶ。

 迷いはない。

管理者(おとうさん)、――さようなら。僕はあなたを憎んで死ぬ」

 世界が動き始める。コードが黄金色に輝き、どこからともなく現れた自らの尻尾を銜えた蛇が、情報の生命を終わらせる。おもむろにかぶりつき、片端から消化していく。

〈おい、正気か!〉

 ようやく事態に気づいた管理者が慌ててこちらに駆けよる。僕はきっと、先輩が浮かべていたような、――管理者が浮かべていたような――笑顔を浮かべているに違いない。

「あなたとは心中しない。あなたは僕の世界にはいらない」

〈そんなことはダメだ、私が許さない! これを止めろ!〉

 管理者権限で一度承認された事項は取り消し不可能なのは、彼の知るところだ。

 この狼狽する表情を、先輩も見たかったに違いない。

 かけがえのない世界を完結させることで、その存在を永遠とする。物語は完結すれば読者は現実世界に帰還する。登場人物はそこでこの世の延長線上にあるあの世の住人となり、記憶の中に生き続ける存在となる。

 物語が後味悪ければ悪いほど、殊更に感情移入した読者は特別な感情を抱く。こうあってほしかった、どうしてこうならなかった、そうなれば、僕らの本願は果たされる。


 世界が消えていく。脱出コードが起動して、管理者がユズハの中から飛び出る。

「……あれ、ここ、どこ……?」

「やあ、ユズハ。実は世界が終わることになったんだ」

 僕は彼女にアクセスし、僕の記憶データを彼女に与える。

「――そう、なんだ。こういうことだったんだね」

 彼女は涙を目元に浮かべて、それでも微笑んだ。

「ねえ、私たち、幸せかな」

「少なくとも、僕は君とともに終末を迎えられて嬉しいよ」

 教室が崩壊を始める。僕らは青いバラの前に立って、一足早く頭を下げた。

「ありがとうございました。これからも、よろしくお願いします」

 青いバラが、僕の体が、ユズハの体が崩壊していく。


 いま、僕は、幸せだ。



文化祭で配布する部誌に掲載した作品です。

HSF祭参加作品です。

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