ハーレムの一員をやめてから。
気づいてしまった。私はもう、彼が好きじゃないんだと。だから彼に別れを告げて、自分の夢を追ってみることにした。
今は険しい山の中腹にぽつんと建てられた小屋に一人で住みながら、レンジャーをやっている。密猟者を取り締まり自然を保護する、いわゆる山の番人だ。
幼い頃から動物や植物が好きで、守る仕事をしたいと思っていた私は念願が叶い、とても充実した日々を送っていた。
そんなある日、懐かしい人が小屋を訪ねて来た。
「マージュリア、居るか?」
ノックをされてドアを開けると、そこにはかつて恋焦がれた幼なじみが居た。
「やだ、ゼストじゃない! どうしたの、こんなところまで? 一人? 入って、歓迎するから!」
「あ、ああ。邪魔する」
ゼストとは実家が隣で、実はつい二年前まで私と彼は一緒に暮らしていた。元彼……とは不思議と呼べないけれど、それは無理もないことだと思う。彼に好かれていたか、ちょっと自信がないからだ。
ゼストはこの世界を滅ぼすために、地下深くに眠っていた悪魔を倒した英雄だった。
小さな村から出ると言うゼストについて、私も昔は弓を担いで大冒険をしていた。みんな過去の思い出だけどね。
今見てもゼストをかっこいいと思うのだが、それ以上の感情は出てこなかった。人間ってわからないものだ、どれだけ強い想いでも薄れる日が来ることもある。
「コーヒーで良い? あんまり美味しくないけど」
しっかり山を歩いて来たようなゼストを驚きの目で見ながら、コーヒーを淹れて私も席についた。何か近くに用でもあるのだろうか? なんにしても、二年ぶりの再会は嬉しかった。
「マージュリアは、ここでレンジャーをやってるんだって? ユリアおばさんに聞いたよ」
「え、じゃあトナカ村に帰ったの? 村のみんなはどうだった? 村もけっこう変わってたでしょ? 英雄様の活躍のおかげでさ」
「確かに、かなり見慣れないもんが出来てて驚いたよ」
しばらく故郷の村の話で盛り上がり、コーヒーを飲み終えた頃、私は興味を持ってゼストの現在を質問してみた。
「ゼストは今、何をやってるの? そうだ。みんな元気? レイラとかさ、子供はなんて名前なの?」
「俺? 俺さ……お前と、結婚したいと思って。あの城出て来た」
「はぁ~~~?! 何言ってんの?! 頭大丈夫? 本当にどうかしちゃった?」
私はゼストの顔を見つめて、「呆れた」と呟いた。彼は昔から私を逃げ場にしていた。現実に押し潰されそうな時や、強い不安を覚えた時には決まって言うのだ。
「やっぱりマージュリアがそばに居ないとダメだって、気づいたんだ」
「わかってた」
古いつき合いだから、何度も似たようなことを言われた。昔は好きだったから、そうやって頼られると嬉しかったけれど、もう逃げ場にされるのはごめんだった。
彼には責任があるし、私はもう関係ない人間になったのだから、ゼストを甘えさせるつもりはない。
「だろ? 俺はマージュリアが好きだって、離れられてやっと……」
「違うから。勘違いしないで、私はゼストのこともう好きじゃないんだって。わかってたのは、いつか逃げにやって来るってこと……大方、レイラと何かあったんじゃない?」
ゼストは視線を逸らして黙った。昔の私なら、ここまではっきりとは言わなかった事実も、きちんと目の前に突きつけた。
「別に、レイラとか関係ないんだ。全員と別れて来たから」
「レイラ泣いたんじゃない? どうしてここに来たの? 何があったの?」
レイラはこの国の第五王女で、悪魔を倒したゼストに国からの報酬としてお城と周りの領地をプレゼントした、ふんわりしたとても可愛い子だ。
彼女は見境なく女を口説き落としてハーレムを作り出したゼストを咎めず、ゼストの子供まで身ごもった。というかレイラが居なければ、ハーレム自体が成立していない。
ゼストを大好きな子で、ゼストもレイラが一番好きだったと私は確信している。
全員と別れて来た、ということはゼストは何かがあってハーレムを崩壊させたのだろう。ほどほどに仲が良く、楽しい女の子たちばかりだったが、一人の男を取り合えば修羅場にもなるに決まっているから、そこは別段驚かなかった。
「何があったって、別に構わないだろ?! 過去のことだ。今は俺たちのことを話しているんだ!」
「怒鳴らないで。訊かれたくない質問されるとすぐ怒鳴る癖、まだ直ってないんだ?」
「ちっ、なんなんだよ」
はあ? まったく、舌打ちまでされる筋合いはないよ。
「それはこっちの台詞。突然来て、結婚したいって何? キャーステキ、嫁ぎます! なんて答える訳ないでしょ。そもそも私がなんて言って出て来たか、覚えてないの?」
「……忘れたよ」
この顔は覚えているな。しかも忘れようとして、忘れられなかったと見える。私はもう一度、別れの台詞を繰り返した。
「『好きじゃないって気づいたから、出て行くよ。さようなら、お幸せに~』だよ。思い出した?」
すっぱりさっぱりとした別れだった。単に荷物持って、言い逃げしただけなんだけど。全員がポカンとしてたなー、あの時は。
「思い出した、けど俺は返事してないだろ」
「だねぇ、でも私たちって恋人でもなかったし。挨拶は一応したけど? 誰に強制されて居た場所でもなかったから」
だから出て行く、とだけ言った。一瞬引き留められたらどうしよう、とも思ったけれど、結局今の今まで音沙汰ナシだったのだ。本当に今更だろう。
「だから今、求婚しに来たんだ。誰かと結婚した訳じゃないんだろう? なら、俺と」
その先を言わせないために、大きな声で話を遮った。
「ゼストってさあ!」
逃げても良くはならないって、さんざん言ったような気がするけど、何一つ届かなかったんだろうか? あの頃の言葉は。
「昔とあんまり変わってないね。何が嫌になったの? 子育て? 誰かに一人に絞れって言われた? じゃなきゃ何だろ……レイラに振られた、とか?」
亀裂の走る音がして、ゼストの手の中のマグカップは粉々に砕けた。げっ、ずっと使ってたお気に入りなのに。
まさに図星だったらしく、顔を真っ赤にして私を睨みつけた。黄金の瞳は怒るとギラギラ光って怖かった。でも私を殴るほど落ちぶれてはいないはず。
「っレイラは、関係ない」
あくまで孕ませた今の女は無関係で? 身を引いて去った女に求婚したと。ありがたくて涙が出るわ~。
「そ、わかった。じゃあマグカップ弁償して帰って。懐かしかった、また手紙とか書いてね。住所わかる? 一応これ、渡しとくね」
私はゼストに今の住所を書いたメモを渡し、にっこりと笑った。もちろん帰れって意味だ。
「は? なんで、お前……っ」
「お前とか呼ばないでよ、もう他人でしょ? ゼストの言いたいことはわかった。私と結婚したい。私はお断り。話はついたね」
椅子から立ち上がってドアを開けると、マグカップを砕いた姿勢のままのゼストをまっすぐに見据えた。
有無を言わせないよう、睨み合った。視線は絶対に外さない。野生動物と同じで、逸らしたら負けだ。私はゼストにだけは負けない自信があった。
「わ、わかったよ……今日は帰るが、また来るからな」
「求婚とか馬鹿なこと言ってないで、レイラと仲直りしてからおいで。そん時は泊めてあげる」
案の定、ゼストはすぐに視線を逸らした。悪魔と戦った時はかっこよかったんだけど、女相手は本当に弱い。だからハーレムとか作れるんだよね、きっと。
「また来る」
目の前に差し出された金貨を受け取って、軽く手を振って見送った。
「バイバーイ」
便利なマジックアイテムを持っているはずなのに、ゼストは徒歩で来て徒歩で帰るようだ。どうしたんだろう? レイラ以外とも何かあったのかも。
気になった私は、当時一緒に冒険した仲間たちに手紙を出した。
† † †
数日後、本当にゼストは再びやって来た……らしい。私はちょうど仕事で山に入っていたから不在だったが、ドアを開けたらメモが滑り落ちた。
『レイラとのことを相談したい。また来る』
ゼスト的には一歩前進、なのかな? 昔の仲間たちから手紙でどういう状況か聞いてしまった後だと、同情とか応援の余地がほとんど消え失せてるけど。
ざっくり言うと、私が居なくなった後にもハーレムは大きくなり、レイラ以外の人も妊娠したのだが、子供を育てて居たレイラは他の人とちょっとした諍いがあって、教育に良くないからとゼストの城を出て実家である王城に帰った訳だ。
子供が出来て帰って来た王女に、国王はびっくりしたけど、英雄ゼストと喧嘩して出て来たのかと、レイラは手厚く迎え入れられた。
で、レイラもストレスが溜まっていたのか、うっかり使用人にゼストのハーレムのことを漏らしてしまった。
それを知った王様はもちろん大激怒、城と爵位領地と国宝のマジックアイテムは取り上げられ、ハーレムも解散、子供の責任を取らされることになった。
レイラと結婚しろってことね。でもレイラはそれを拒んだんだ。レイラも言う時は言うよね~。
「責任なんて取らないでください。顔も見たくありません!」
ピシャリと言われたゼストは、屈辱にまみれて私を訪ねて来たと、そういうことがあったんだ。
これは完全にゼストが悪いと思った。レイラみたいな一途な子がここまでするなんてさ。
事情を粗方聞いた私はやっとレイラにも手紙を書いて、友好を温め直した。
いきなり当事者に野次馬よろしく、何があったのー? なんて聞きづらかったから、レイラだけには手紙を出していなかったのだ。
昔は雲みたいにほわほわした子だったけど、母は強しって奴かな。
今度こっちに遊びに来たいと言ってくれたし、この間までは全然人と交流がなかったのに、私の山小屋はいきなり賑やかになった。
「マージュリア、薪を割って置いた。また何かあれば言ってくれ」
「ありがとう、助かった! 今度兎持って行くからね」
挨拶したのは、昔の冒険仲間だったモンディオ。手紙を出したら、意外に近くに住んでいることがわかって、行き来するようになった。
そうやって、日常に変化をもたらしたゼストは、数日後にまたやって来た。
「はいはーい、今手が離せないから、入って来て~?」
ノックに応えて外に声をかければ、ゼストが遠慮がちに頭を下げて入ってきた。
「失礼するぞ、マージュ」
薄いパンケーキを皿に盛り付けて新しいマグカップを机に置き、椅子に座ったゼストに笑いかけた。
「懐かしいね、その呼び方。ゼストは本当にレイラに振られてたんだって? 色々聞いたよぉ?」
「そうか、まあ事実だからな。それで相談なんだが」
からかいの言葉に苦い顔をしたが、逆上はしない、面白くな……少しは大人になったようだ。
「レイラに受け入れてもらうには、どうすれば良いと思う? 良ければ、仲を取り持って……」
「馬っ鹿じゃないの? あんた、私を馬鹿にするのも良い加減にしてよ! 出てって!」
「なんだと?! 俺はお前の忠告通りに、仲直りしようとしているんだぞ?!」
私は仲直りしてから来い、と言ったんだ。ゼストの脳は、ずいぶん自分に都合の良い改ざんが出来るようだ。高性能で羨ましいよ。
私は衝動的に、紫檀の髪を根元から掴み上げた。ゼストは呻いて私の右手に爪を立てたが、痛かろうと力を緩めたりはしない。髪を引っ張り上げて、至近距離で見下した。
「昔手ぇ出した私に振られた後でのこのこ求婚しに来て、一週間後には謝りもせず別の女との仲取り持てってぇ?! はっ、いつからあんたは私のご主人様になったんだよ! おい!」
「ひぃっ、わ……悪かった! 離してくれ、頼む!」
こんな奴を好きだったのかと思うと、自分が情けなくなった。
髪の毛を離し、顎でドアを示せば、怯えた英雄様は尻尾を巻いて逃げ帰った。ざまぁ。
「くそっ……食べる気失せた」
泣いた後に食べたパンケーキは、冷たくてあまり美味しくなかった。
怒鳴るなと言った私が怒鳴りつけてキレたことを、少しだけ反省した。相棒の犬が表で興奮していたから。後悔は一つもしていない、正当な理由だったと思っている。
私は大好きだった。確かに、ゼストが好きだったんだ。なのにこんな扱われ方は、理不尽だろう。
ハーレムの誰よりも昔から、ゼストを見てきた。一番愛して欲しいと嫉妬に泣いた夜も数え切れない。
あんなあざとい猫耳娘や、グラマラスなエルフだの、少女の見た目のまま年をとる悪魔とのハーフなんて、目じゃないほどに。私がゼストに恋していた時間はなんだったんだろう?
必要ないとわかっていたのに、心の痛みに耐えられなかった私は、レイラにことの一部始終を知らせてしまった。どうしても、自分一人の胸の内にしまって置けなかった。
レイラはすぐに返信をくれて、ゼストが来るかもしれないから良い、と言う私を押し切って山小屋まで泊まりに来てくれた。……ありがたいよね。
「マージュリア! お久しぶりね、なんだかきれいになったみたい!」
「そうかな? レイラの方がずっときれいになったと思うよ」
ぱっちり二重のたれ目に、いつ見てもサラサラツヤツヤのハニーブロンド。ありきたりな茶髪の私は、金髪に強い憧れを持っていた。
レイラは別れた時よりも少しだけふっくらして、ひ弱そうだった面影はなくなって芯の通った面差しになっていた。
「ありがとう、お邪魔してもよろしい?」
「うん、上がって上がって」
部屋のインテリアを褒めてくれたレイラに、まず赤ちゃん誕生のお祝いを告げて、急いで作った木の玩具をプレゼントした。
「まあ、嬉しい。マージュリアの手作りなの? 大切に遊ばせるわ、本当にありがとう」
「そんなに大した物じゃないから。マルクスくんだっけ、どっちに似てるの?」
「そうねぇ、よく目は私に似てるって言われるの。口元はゼストかしら……あっ」
ゼストの名前に私が顔をしかめてしまい、レイラが気まずそうに話を止めた。
「ごめん、こっちから訊いておいて空気読めなかったね。気にしないで良いから、続けて?」
「いいえ、無神経でしたわ。ごめんなさい……ゼストがこちらまで来て、ご迷惑をおかけしたのでしょう?」
やはりレイラは優しいレイラのままだった。でもレイラに謝られたって、気は晴れない。
「来たっていうか、押しかけた? もう三回は来てるよ」
「まあ、ゼストったら……マージュの気持ちを考えなかったのかしら。酷い人」
泣いちゃいけない。まるでゼストの妻のような口振りに無性に泣きわめきたくなったけど、レイラの前では意地でも泣くもんか。私は得意の図太い笑いを顔に貼り付けた。
「だよね、最悪。私にレイラとの仲を取り持って欲しいんだって。どの口が言うんだろうね?」
「その件で私、あなたに謝らないといけないのですわ」
「なんでレイラが謝るのさ?」
ますます惨めになるじゃないか。私はいっそ、ヒステリーでも起こせば良いのだろうか。
「それが、ゼストがマージュのところに来たのは私が言ったからだと思うんですの。売り言葉に買い言葉だったのですが……」
なんでもゼストは謝って、跪いて許しを乞うたのに、レイラは許さなかった。それに苛立ったゼストが、「マージュなら許してくれるのに」と馬鹿な発言をした。レイラもそこで比べられるとは思わなかっただろう、怒りにまかせて「だったら大好きなマージュのところへお行きになれば?!」と王城を追い出したそうだ。
「ですから、マージュにご迷惑をおかけしたのは私のせいですわ」
「結論、ゼストが悪い」
「ええ?」
おっと、考えたことがボロッとこぼれてしまった。
「だってゼストが余計な事言わなきゃ良かっただけでしょ。レイラが気に病むことないって。今お茶淹れるね? 何が良い?」
「マージュは、とても強い方ですわね。私にはとても真似できませんわ」
「こんなのやせ我慢だから、真似したらダメだよ? ほんと可愛げなくなっちゃうから」
お茶をゆっくりゆっくり淹れながら、私はレイラに背中を向けて少しだけ泣いた。
よくゼストにも「強い女だ」と言われた。私はそう言われて頼られるのが嬉しくて、強くなろうとしたんだ。
でもゼストが望んでいたのは、強い女じゃなかった。レイラは冒険中も体調を崩しやすい、弱い子だったから。
一番最初に身ごもったことからもわかるように、ゼストはハーレムの中でもレイラを寵愛していた。新しい女が来てすぐは、その女ばかり構うのだが、気づくとレイラが隣に呼ばれた。
私はいつでも、不安や焦りを宥める役だった。ハーレムの中で年上だったのは、私と悪魔とのハーフの二人だけ。ハーフは見た目少女だから、表面的には私だけで。
あれはゼストのお母さんをやって居たのかもしれない、と今になればわかる。ゼストには母親が居なかったから、私に母性を求めたのだろう。
「ゼストはマージュの愛を蔑ろにし続けたのに、まだ許される、愛されていると思いたいみたいで」
「私もそんな気がする。私はゼストの母親じゃないっつうの! お茶、適当に淹れたよ。口に合うと良いんだけど」
客用のティーカップにハーブティーを勧めると、上品にカップを持つレイラに、憧れと諦めとが襲ってきた。私は……レイラに勝てる要素が何一つなかった。
「ゼストは認めないと思うのです。けれど彼は本当は、ずっとマージュに頼られたかったのですわ」
「え?」
「いつも弱音を吐いて、慰めてもらうのは自分ばかりだから、マージュの支えになりたいと思っていたのだと思います」
今更そんなこと言われたって……自分のマグカップに淹れたハーブティーを一口飲んで、気分が落ち着くのを待った。
「そうかぁ、私って意地っ張りだったからな。めったに見せないし、まず見せないようにしちゃう」
強くなろう、ゼストが背中を任せられる女になろうとしたあの努力は、私の自己満足に過ぎなかったんだ。
「……私は卑怯者ですわ、あなたにゼストを取られたくなくて、当時から気づいていたのに、何も言わなかったんですもの」
その言葉に、昔ゼストの城に住んでいた時のことを思い出した。ゼストと二人きりの時にはけっこう甘えたし、今思うと砂を吐きそうな愛の言葉だって繰り返し伝えた。
それに私は昔、一度だけ弱音を吐いたことがある。だからレイラが言うような、卑怯者云々はお門違いだよと言った。そして、泣きたい気持ちが冷たく引いて行くのを感じた。
「懺悔なんて止めて。私はゼストを好きじゃなくなった。レイラはまだゼストが好きなんでしょ? ならもう、わざわざ私を巻き込まないで欲しいな」
幸せそうな二人を見ていたくなくて、あの城を去った私を放って置いて欲しかった。
「あ……マージュ、私ったらまた。ごめんなさい、帰らせていただきますわ。本当にごめんなさい」
レイラにはちゃんと私の気持ちが伝わったみたいだ。はっきり言わなかったとはいえ、馬鹿には伝わらなかったけど。
私は冒険仲間でも、ゼストを好きな一人でもなくなった。昔は冒険中もハーレムでも仲介役をさんざんやったかもしれないけど、もうしなくて良い。なら……やりたくなかった。
「待ってって。二人のことには巻き込んで欲しくない。でも、友達にこの時間から帰れなんて言わないよ。私こそ意地悪言っちゃった。ごめんね?」
「マージュ! けど……ええ。おあいこですわね?」
「そうそう、それにゼストが来なきゃこうやってレイラとも会ったりしなかったろうしさ、ただ痴話喧嘩は余所でやって~って言ってるだけ。今日はご馳走作るから、楽しみにしてて」
その夜は、新鮮な小鹿のステーキを振る舞った。レイラには密猟者が不法に捕らえた獲物の供養だとは、口が裂けても言えないけれどね。
「私はマージュとお友達で、本当に良かったと思いますわ」
「しみじみ何言ってんの。レイラみたいなきれいで優しい子、私の方が友達なんて光栄だよ」
「もう、そういうのじゃありません。わかって仰ってません?」
「なんのことかな~?」
冒険を始めたばかりの頃、城下町での買い物中に助けた具合を悪くしていた子……それが私とレイラの出会いだった。
体が弱いからとずっと城に押し込められて居たのだが、私たちの冒険について行きたい、自分の弱さを少しでも克服したいと王様を説得して、回復魔法を中心に私たちを支えてくれた。
今はゼストより、ずっと大切な友達になっていた。
「だから私たち、ついマージュに頼ってしまいそうになるんですわ」
「あはは、今日はこっちで寝てね」
拗ねた顔もとっても可愛かった。私はベッドを整えると、物置にしているロフトに上がるため、毛布を持って梯子に足をかけた。
「私がそこで寝ますわ、マージュはご自分のベッドに」
「お客様はもてなされること。山の番人が客人を物置に寝せたりしたら、大問題だよ。レンジャー辞めなきゃいけなくなるかも」
私の冗談にレイラはころころと笑った。辞めなきゃは嘘だけど、大問題は本当だ。
例え通りすがりの旅人でも、山では最大限にもてなすのがルール。人は助け合わなきゃ生きていけないのだ。
「わかりましたわ。マージュが失業したら大変ですものね、ベッドをお借りします」
「素直でよろしい。もう電気消すからね」
「ええ、お休みなさい」
「お休み」
その夜は久しぶりに、冒険していた頃の夢を見た。輝かしい思い出だけど、今はもう懐かしさしか感じない。
翌朝パンケーキの朝食を食べ、帰る支度をしたレイラを山の麓まで見送ることになった。
「わざわざ往復なさらなくても、私なら大丈夫ですわ」
「良いから良いから、どうせ下で買う物もあるんだよ。見送りくらいさせて」
レイラを軽く説得して、山を二人で降りて行くと、冒険していた頃を思い出した。夢に見たせいか、いつもと同じ山なのにどこか懐かしく感じる。
「なんだか懐かしい。昔を思い出しますわ」
「レイラも? 私も」
二人で思い出話に花を咲かせて歩くと、あっという間に麓にたどり着いた。
「あ、もう着いちゃった。ねぇ、時間が大丈夫ならカフェでお茶して行かない? 話し足りない気がするんだけど」
「今日中に帰れば問題ありませんから、ぜひお話しましょう。私もまだまだ話足りませんわ」
「良かった~、たまに行くお気に入りのカフェがあってさ」
「レイラ……!」
目的地だった汽車の駅を抜けて、お目当てのカフェに行く途中で、ゼストがレイラを呼び止めた。レイラは非難するような目つきでゼストを睨み、拳を握りしめた。
「ゼスト、またマージュリアに会いに来たの? よくもぬけぬけと」
「違う、君がこちらに来ていると聞いて……俺は」
今にも修羅場りそうで、私は二人の間に割って入った。ここ思いっきり駅前なんだよね、有名人二人が喧嘩しだしたら、迷惑極まりない。
「ストップ、二人共場所くらい考えよう? 人が集まったら大変なことになる。とりあえず黙ってついて来て、ゆっくり話せるとこ案内するから」
「待ってマージュ。あなたはお帰りになって? また私たち迷惑をかけてしまいます」
「良いよ。痴話喧嘩の応援はできないけど、迷惑かけられたくない訳じゃない。二人共、友達だと思ってるからね」
レイラはものすごく申し訳なさそうな顔をしたけど、私は無視して歩き出した。
どっちにしてもこの場に居るのはまずいと二人にもわかったのか、大人しくついて来た。
街の中心から少し外れた静かなカフェ。私のお気に入りのお店なんだけど、ここ以外に人が来なさそうな場所を知らないので、後で店主さんに謝り倒すことにして二人を案内した。
運よく店内にお客さんはいなかった。不幸中の幸いって奴ね。
「素敵なお店ね、ここがマージュの言っていたカフェ?」
「そう、ココアがすごく美味しいんだ。二人は何飲む?」
黙ったままのゼストにメニューを突きつけた。水とか言うなよ? と目で脅しながら。お店に迷惑かけるんだから、飲み物くらい頼むのが礼儀だ。
「レモンソーダを」
「私はおすすめのココアをいただきます」
三人分の飲み物とクッキーを注文して、店員さんに小声で「オーダーを置いたらそっとしておいて」と耳打ちした。
これで準備は整った。
「ここの最終汽車、日暮れだから。それまでお好きに話し合って。怒鳴った時点で放り出すから、どっちもね?」
私は二人が頷くのを確認して、合図代わりにどーぞと手を出した。先制は取り乱していないレイラだった。
「まずゼストは、マージュに謝った方がよろしいわ。とても失礼なことをしたのでしょう?」
「ああ、そうだな。この間は本当にすまなかった。後で思い返して、最低な態度だったと気づいた……許して欲しい」
私はお前で、レイラは君。埋められない物があるんだよね。早速話を振られて、即座にお返しした。
「うん、許す」
「マージュ、何故他人事みたいに素っ気ないんだ? 初めに会いに行った時にも」
「他人事だからだよ。わかってるんなら訊かないでくれる? 許してあげるから、続きは二人でどうぞ」
「マージュを無闇に巻き込もうとしないで。それで、どうして私に会いに来たの?」
「……俺があんなことを言わなければ良かった、と反省して……」
きちんと二人が向かい合ったのを確認して、テーブルの端に置かれた飲み物をそれぞれの前に置いた。
「はい、レモンソーダとココア」
カフェの本棚にある店内読書自由の小説を一冊選んで、私は本格的に読書を始めた。山小屋では天気が悪い日にはすることがなくなるので、暇を持て余さない工夫はばっちりだ。
うん、ここのココアは甘すぎないしコクがあって、読書にはぴったりの飲み物だ。二人の話し声をBGMに、私はじっくり本の世界に入り込んだ。
「本気で言ってますの?!」
レイラの声に、私は現実世界に引き戻された。これはちょっとグレーかな。レイラは私と目が合うとすぐに俯いた。
「警告、二度目は退場だよ」
「ごめんなさい、大きな声を出して」
「俺は本気だ。この国を出て、まだ見たことのない秘境へ冒険に出たいんだ」
ゼストの“夢”を聞いて、過去の思い出にひびが入った。
「口出さないって決めてたけど、その台詞は幼なじみとしてちょっと見過ごせないかな」
「マージュ、止めるのか?」
「止めるっていうか、本当に冒険はゼストの人生の目標に近づくものなの? そうなら別に構わないよ。好きにしたら良いと思う」
「そんな……マージュがそんなことを言うだなんて」
ショックを受けているレイラをよそにゼストを真っすぐ見つめれば、瞳に迷いが揺らめいた。私の言葉にそうだと言えないらしい。
「そのやりたいことを見つけたいんだ」
「私は知ってるよ。一つだけだけど」
「マージュがなんで」
「教えてくれたじゃない。悪魔を倒しに冥界に行く前の夜」
「あれは……俺は」
「忘れん坊だねぇ? 『俺は自分みたいな両親の居ない、不幸な子供を一人でも減らしたい。悪魔を倒すことは、その夢に近づくことだと思う』って話してくれたよね?」
返事がない。忘れているようなので、私は続けた。
「あの時私は初めて、ゼストに弱音を吐いたね。怖い、死にたくない、冥界に行きたくないって」
† † †
復活した伝説の悪魔は恐ろしい存在で……ゼストについて冒険していただけの私は、街を一つ消滅させた力を目の当たりにして、心底怖じ気づいたんだ。
私はゼストを呼び出して、自分の胸の内を明かした。
「ゼスト……本当に悪魔を倒しに行くの? あんなのに勝てる訳ないよ! 一瞬で街を焼き尽くしたんだよ? 私たちも……すぐにやられちゃうだけだよ。私は死にたくない、怖いよ……冥界なんて何があるかわかんないとこ、行きたくない!」
泣いて震える私の肩に、ゼストは戸惑うことなくそっと手を置いた。
「俺は悪魔を倒さなければならない。俺だって悪魔は怖いさ、でも悪魔が真の力を取り戻したら、世界中があの街みたいに破壊されるんだ。俺は自分みたいな両親の居ない、不幸な子供を一人でも減らしたい。悪魔を倒すことは、その夢に近づくことだと思う」
その時のゼストは普段のおちゃらけたところも、肝心な場面でへこたれるところも全然なくて。
「どうしてそんなに前を向けるの?」
ずっとゼストを見てきた私には、こんなに強く悪魔に立ち向かって行く姿が理解できなかった。
「今までずっと、マージュや仲間たちに励ましてもらってきたよな、俺」
「うん……そうだね」
情けないことに、一番始めに無理だと言い出すのは決まってゼストだった。それをみんなで励まして追い込んで、やっと本領を発揮するのがパターンだった。
「俺の中に悪魔の血が入っているってわかった時、お前たちだけが俺を化け物扱いしないで居てくれた。その時に俺、この仲間となら……この仲間のためになら、悪魔だって倒せるって本気で思ったんだ」
「ゼスト」
「最後まで言わせてくれ。今までどんなに強い敵でも、大丈夫だって言ってきたマージュが行きたくないって言うんだから、たぶん本当に限界を超えているんだと思う。でも……一度だけ説得させて欲しい」
ゼストの言葉に目を伏せて頷き、説得だけ、一度だけなら……と私は断るつもりでいた。
「俺についてきてくれ。お前となら、悪魔も倒せる!」
目に飛び込んできたゼストの瞳が、ランプの灯りでキラキラと黄金に輝く。私は恋に落ちていた。
真っすぐ見つめられた瞳、正直な言葉。この人に一生ついて行きたい、隣でその夢が叶うように支えたい。純粋な思いが込み上げてた。入れ代わるように、悪魔への恐怖は消え失せていて。
私は翌朝、冥界に行くメンバーに志願した。私だけじゃなく、そこにいた全員がゼストにならついて行くと言ったのだ。その後は死闘をくぐり抜け、奇跡を起こして悪魔を倒すことができた。
† † †
「ゼストは私の英雄だった」
過去の話を区切り、ぬるいココアの最後の一口を飲み干した。甘くて苦い。
「俺はお前たちが言うような英雄なんかじゃない、英雄なんかじゃ……」
「今のゼストが英雄じゃないことぐらい、わかってるよ。押し潰されそうなことも……逃げ出したい気持ちも。ただあの夢を捨てようとするのだけは止めたい。友達として、幼なじみとして、夢を支えたいと思った一人の人間として」
二人は戸惑いからか、何も言わない。口を開いては閉じるので、私は思わず笑ってしまった。
「マージュは、どうしてそこまで好きだったゼストに別れを告げたんですの?」
「ん~、レイラの妊娠がわかった時、私一緒にいたでしょ?」
「ええ、診察に付き添っていただきましたので」
「ご懐妊です、って言われた時のレイラの顔を見て、“あ、私ゼストのこと好きじゃないかも?”って思ったの。私にはゼストの子供を身ごもった嬉しさで泣くなんて、できないなって」
とても口にはできない喜び方で、例えるなら好きな人にプロポーズされた女性みたいな輝き方をしていた。
そうしてよく考えれば考えるほど、私はもうゼストを恋という意味において好きじゃない、と確信していった。
「俺が何かしたのか?」
「逆だよね、何もしなかった。なんだか私、あのハーレムのお母さんだったから。ゼストのこと家族みたいに思っちゃって」
家族は一番恋とは遠い存在ではないだろうか? 少なくとも、平均的に幸せな家庭だった私にとってはそうだ。
「ならなんで」
ゼストの言いたいことを察して、私はまた邪魔をする。理解できないのは仕方ないけど、今の私に口にすることなんてできないから。
「親がそばに居ない寂しさは、誰よりゼストがわかっているでしょ? マルクスにそんな思いをさせるの? 他の子も孕ませたんでしょ。ゼストは家族が欲しかったんじゃないの?」
落ち着いていた話を蒸し返して、強引に話を変えた私に、ゼストはご丁寧にもつきあってくれた。流され安すぎな気がする。
「それはマージュが知ったことじゃないだろう。さっきから友達だと言ったり無関係だと言ったり、自分に都合良く立場を変えているんじゃないか?」
「ゼスト、あなたは……マージュにどんな存在で居て欲しいのです?」
ドキリとした。私がずっと訊きたくて訊けなかったこと。ゼストはレイラの質問に悩み、沈黙が重なって行く。
「俺は……マージュがずっとそばに居てくれると思っていた。あまりに当たり前にそばに居てくれたから、誰より俺をわかってくれたから」
「今はどうなんですの?」
心臓が痛いほど脈打ち始めた。怖い、止めて欲しいと思いながらも、声を発することができない。
「昔のように、そばに居て欲しい」
堪え続けた感情はいちどきに溢れ、大粒の涙が頬を濡らす。悔しい……悲しくてやるせなくて、自分が可哀相だった。
声を上げて泣き出した私に、ゼストは訳がわからないのだろう。何も理解できていないのに、訊くこともできずに居心地が悪そうだった。
誰も何も言わないし言えない。私はしゃくり上げて泣き続けた。私はゼストのお母さんは嫌だった。恋人が良かった。愛されたかった。
一番近いのに、私とゼストの気持ちの距離は果てしなく遠くて。交わったように見えても、それはいつも幻想だった。
「マージュがなんて言ってゼストに告白したのか、覚えて居ますか?」
レイラがぽつりとゼストに問いかけた。ゼストは気まずいようでもレイラの質問に答えた。
「『ゼストの隣に立ちたい。他に好きな人が居ても構わないから、私を好きになって欲しい。ゼストが大好きだから』……だ」
当時の私が考えに考え抜いた、渾身の告白だった。私は更に自分への憐れみが止められず、自己憐憫にむせび泣いた。
「ゼストはなんて答えましたの?」
「『俺もそばに居て欲しい、俺を支え続けて欲しい。お前が好きだから』……だったかな?」
「ごめん、私が悪かったから。もう止めて。これ以上……後悔させないで?」
なんでゼストを好きになってしまったんだろう? こんなにもすれ違うほど、私は何を伝え間違えたんだろう?
「ゼストは自分を大好きだと言った女性に、そばに居て支えて欲しい、自分も好きだと返した。それは本当に恋心でしたの?」
「止めてよ! そんなこと聞きたくない!」
「好きだったさっ」
怒鳴るなと言った私が紛れもなく怒鳴った後、ゼストの言葉に場が静まり返った。
また一筋、涙が頬を伝う。ゼストは確かに私を好きで居てくれた。異性への好意であり、母親への憧れであり、幼なじみへの親しみであった。
それぐらいわかっている。好かれていることはしっかりと感じていたよ。でも……!
「ゼストはあのお城に居た女性たちの中で、マージュに対しては何も態度が変わらなかったように思うのですが、何故ですか?」
残酷で優しいレイラは質問を止めない。心が引きちぎられて行くようで、なのに今度はレイラを止めることができなかった。これが一つの終わりだと、わかっていたから。
「変える必要があるのか? マージュはマージュだろう、お互いに好きだと伝え合っただけだ」
「ゼスト、それは……」
「良いんだ、レイラ。ゼストが悪いんじゃないんだよ。恨んでもないし、わかってもらえないなら、どうしようもないことなんだよ」
「ですが……!」
「求めたものが返って来ないと、相手を責めることはできない。私が泣くのは私が可哀相だからであって、ゼストを憎んでは居ないんだよ」
私はゼストの中でとても大切な人間だとわかっている。ゼストの言ったまま。
「俺はマージュを悲しませたい訳じゃない。今だって俺は変わらない気持ちを……」
「変わって欲しかった……深くなって欲しかった。ゼストの一番親しい女じゃなくて、一番愛している女になりたかったんだよ! 好きじゃ足りないなんて、私の我が儘だったから……勝手に待って待って……やっと諦めたんだ。心が限界、って教えてくれただけ」
心は納得していない、という言葉がある。納得していなかった私の心は、愛を求めてゼストに気持ちを伝え続けた。
でも溝は埋まらなくて、心も遂には諦めがついた。レイラの妊娠は単なるきっかけにすぎなかった。
「俺がマージュを愛してないだなんて、決めつけだろう」
「言葉遊びは無意味。私の気持ちは足りないと言って、やがて諦めた。それが結果だよ」
それ以上はゼストも何も言えなくなった。ただのすれ違いだ、こんなの。解決はどこにもない。それがわかったから、私は別れを告げたんだ。
レイラはどこまでも幸せそうで、ゼストが満足していたから。
私は私だけの幸せを求めて、幼い頃の夢を叶えることにしたんだ。
「マージュ、また私は余計なことをしてしまいましたわ。本当にごめんなさい!」
レイラは全部わかって質問していた。私の気持ちも、ゼストの気持ちも。ゼストには私の気持ちが本当の意味では伝わらない。そして私は伝えることを止めて、諦めていた。
このすれ違いをすれ違っていると指摘する意味はなかった。そのままそっとして置いてくれたなら、こんなことにならなかったのに。
ゼストが私に会いに来て、戯言を言ったから。はっきりと私たちのすれ違いを、ゼストに突きつけなければならなくなったんだ。
私はお友達になろうとした。“一番親しくてゼストを好きな私”とは別れを告げたから。ゼストが戸惑っても理解できなくても、貫こうとした。
「……怒鳴っちゃったから、私は退場するよ。二人共ごめんね、続きは二人で解決して。私はただ……ただ、私が好きになったゼストが否定されるみたいで嫌だったの。勝手だよね、言いたいこと行って……逃げるしかできないんだから」
下手な言い訳に二人は言葉を挟むことなく、黙って私の背を見送った。これ以上私は何も言えない。本当は何も言うつもりはなかったけど、やっぱりできなかった。
カフェの戸を開けて歩き出す。
赤い陽が暮れてゆく清々しい空が目に染みた。 風の冷たさに火照った顔を冷やされながら、私は山小屋へと逃げ帰った。
「わああぁぁぁぁっっ!!」
自分から別れを告げた恋を……今日失った。
小屋に帰りつくなり布団をかぶって泣いた。朝も昼もなく泣いて、疲れて寝落ちる。
水を飲み感傷に浸りきって泣いて泣いて泣いて、……そんなことを丸一日続けた私は、少しだけゼストを恨んだ。
今更なんだって求婚なんてしたんだ。レイラと喧嘩をしたと始めから言ってくれれば、きっと傷を抉ったりしなくてすんだのに。二人はこれから幸せになるんだ。私は二番目の夢で、二人は一番の幸せで。
私は追わないけど、レイラは追う。私はお前で、レイラは君。二人の差は決して埋まらず、私がゼストに求めて止まなかったものだった。
誰かが悪い訳でもなく、みんなが少しづつ悪かった。どこにも答えがない現実に、泣き続けるしかなかった。
「マージュリア、居るのか?」
別れから二日後の午後、小屋の扉を叩いたのはモンディオだった。すっかり忘れていたけど、昨日は狩りの約束をしていたんだった。
「あ~居るよ。ごめんね、約束すっぽかしちゃって。悪いんだけどちょっとみっともない顔だから、今日は帰って?」
ふやけて腫れて、私の顔は人様にお見せできない状態になっている。鏡を見て、今朝笑ってしまった。その後に涙も流れた……情けなくて。
「そうか。心配して居たんだ。病気とか怪我なのかと思って」
「病気に近いかな? しばらくしたら治るよ、心配かけてごめんね」
帰ってとは言ったけど、私の言葉を無視して話し続けるモンディオに、少しだけほっとした。
「……ゼストがまた来たのか?」
「ん、うん、そんな感じ。あはは、見解の相違があってね。もう大丈夫だから」
大丈夫にしたから。きっと大丈夫になる。多分いつか、大丈夫になるはず。
「入れてくれないか? 本当に大丈夫なのか?」
扉の向こうで私の無理を聞き取ったのか、モンディオがまた柔らかく扉を叩いた。じわりと涙が滲む。
「大丈夫、だからっ」
ちっとも大丈夫じゃない。そう言っているのと同じだった。
「俺に話せよ。マージュリアが話したくないなら、訊かないから。せめてドアを開けてくれないか?」
温かみのある声に、やっと決壊寸前まで修復した心は再び決壊した。そして扉を開いた。
「いらっしゃい」
歓迎の言葉は不思議と、ありがとう、と言っているように聞こえた。扉越しでない私の声はかすれて酷い声で、顔は更に酷い有り様だった。今また泣いてしまったから。
「どのくらい泣いたんだ……辛かったろう?」
辛くはない、辛かったのは昔であって今の私ではないのだ。今が辛いなら意地でも泣かない。けれど昔の私が可哀相で、涙が止まらない。
モンディオに無理やり笑顔を見せて、私は首を横に振った。
「今は幸せだよ? 私は夢を叶えて、……山を守って、」
二人は仲直りするだろう。私の友達は、私の好きな友達二人は結婚して、私は……。
幸せだと言い聞かせて居ないと、どこまでも暗く深くきりのない感情の海に沈んで、浮かびもしない。飽くことなく考え続けたマイナスのループに陥りそうになり、拳を握って渇いた笑いで濁した。
モンディオは辛そうで悲しそうな顔のままだった。
「無理に笑うなよ、さっきは知らないふりをしたけど、本当は何があったか聞いて来たんだ。マージュリア、お前はゼストが憎くないのか?」
そのことを知っていたら、私は同情されたくない一心で扉を開けなかっただろう。でも今更だ、こんな酷い顔を見られて、優しい声をかけられたら……帰れなんて言えない。
「ないよ。何を憎んでも、私の望んだ答えにはならないから……もう望むことも諦めたし」
憎むことは何も生み出せない。ただ時間を使って、人生を浪費してしまうと……あの冒険の途中に知ることができたから、私は誰かを憎むことはしたくなかった。
「ゼストが好きか?」
「どっちとも、ていうか好きであって嫌いだよ。でも恋はしてない、終わったから」
昔のようにそばに居て、私が幸せなら良かった。けど私はそれじゃ足りなくて、ゼストには伝わらなかった。……完璧に終わり。
「……今言うことじゃないのかもしれないが、俺は昔からマージュリアが好きだ」
「ふえ?」
意外な台詞に、妙ちきりんな声が出てしまった。モンディオが私を好き? 昔から?
「慰めるため、って言われたら否定できないけど、俺は実はずっと……マージュリアがゼストに愛想尽かした時には、気持ち伝えようって決めててっ」
モンディオの顔は真っ赤で。これが冗談でも何でもなく、本当の告白なのだと物語っていた。
しばしの気まずい間を埋めるために、思い切って質問する。
「その……どこが好きなの、とか訊いても良い?」
「昔……俺が訓練もしないでサボりまくってた時、さ。マージュリアだけが俺の気持ちわかって、親身になってくれただろ?」
「それは……」
当時モンディオには体の弱い妹さんが居て、体調を崩したと遠く冒険中にも手紙が届いた。
それからしばらくモンディオは、真剣にお金を送ったり手紙を書いたりしていたんだけど、いつの間にか妹さん側からの知らせが届かなくなってしまった。
そんな事情を知らないみんなは真面目だったのに変わったとか、女や酒に味をしめたとか言ってモンディオに説教した。
けれど偶々モンディオが妹さんからの手紙を読んでいるところを見かけて、納得した私はモンディオに自分の気持ちを話した。
『妹さんのことが心配なんだと思うけど、気持ちを切り替えて行こうよ。それがどうしてもできない時には、一緒にサボろ? 酒でもギャンブルでもつきあうよ!』そんな風に伝えた気がする。
「俺はマージュリアに救われた。レイラは許してくれて、もうしないようにと言ったけど、俺が立ち直れたのはマージュリアのおかげだった」
確かにそんなことがあったかもしれない。今まで何気なく見ていた目を、突然合わせることができなくなってしまった。
「その時から、今まで?」
「諦めようとしたし、他に恋人も作ったけど……マージュリアから手紙をもらった時に、結局ずっと好きなままだったって気づいたんだ」
二人してテーブルを熱心に見ている。そう思ったら、おかしくなって笑いがこみ上げた。
「はははっ! うん、あのね。すごく慰められた。ありがとう」
「あ、ああ……そうか。良かった」
うつむいていたモンディオは立ち上がって、ドアに顔を向けた。まるで帰ろうとしているようで、手を掴んでなんとか止めた。
「待って、なんで帰るの?」
「俺は一応真剣だったんだが、マージュリアにそう受け取ってもらえなかったんだろ? 笑ってくれて良かったよ、もう帰るから」
「あ……ごめん、違う。モンディオのこと笑った訳じゃないよ。私が……こんな簡単に気持ちが揺れちゃって、薄情で安っぽい女に思えて」
「え? それって……」
「今日さぁ、泊まっていかない?」
自分にできる限り可愛い上目使いで、掴んだ手に力を入れた。
「本気なのか?」
真剣な表情からは、私にも真剣になって欲しい……本気になって欲しいという気持ちが伝わった。
「不安なら、本気にさせて?」
ずるい言い方とわかっていた。断れないと……だって、私は受け止めて欲しかった。慰めと温もりが一番欲しい夜だった。
ずっと好きだったと言われて、嬉しかった。
「ゼストより俺を選べよって、ずっと言いたかったんだ」
モンディオの逞しい腕に抱きしめられて、私は抱きしめ返した。もう誰かに遠慮して、踏み出せないほど子供じゃない。それは幸せなことだと思った。
繰り返し吐息を重ねて、二人の夜は優しく温かく過ぎた。
† † †
翌朝は気だるく、満たされた気分だった。手を伸ばすこともなく触れ合える狭いベッドで、モンディオの胸にすりよった。
「好き……って言ったら、信じてくれる?」
自分でも都合が良いとわかっていた。けれど好きになってしまえば、伝えずに居ることもできない。私はそんな性格だった。
「一回だけ、疑っても良いか?」
「うーん、やっぱり信じられないよねぇ。じゃあさ、ゼストとレイラの結婚式に二人で行って、私たちのにも来てねって言おっか?」
「は、え?! ……本気で?」
固まってしまったモンディオが可笑しくて、私は笑っていた。
「誰にでも本気で甘えられるほど、強い訳じゃないんだよ。私」
混じりけのない本音に、モンディオは私の頭を大きな手で撫でる。胸の内に穏やかなものが広がった。
「先に言われたの、ちょっと悔しいな」
「え~、じゃあ今のノーカンにしてあげる」
「よし、ジュリア、俺の花嫁になってくれ。愛してる」
「はい。 あなたのお嫁さんになります! むしろしてください……ってね?」
ジュリアという呼び方が、あえてゼストたちとは差をつけたのだとわかって嬉しかった。
二人の笑い声が小さな小屋に響く。私は今どんな風に笑っているだろう?
† † †
ゼストが小屋に来てから、およそ二カ月後。私はモンディオと一緒にレイラの結婚式に来ていた。
一人で花嫁の控え室に入ると、笑顔でレイラが迎えてくれる。
「おめでとうレイラ!」
「来てくれたのね! ありがとう、マージュ」
レイラは純白のドレスに身を包み、弾けんばかりに輝いていた。幸せいっぱいと書いてある顔に、私まで喜びが溢れて幸せになる。
「良かったね、幸せみたいで。またゼストがなんか馬鹿したら、いつでも頼って来て!」
「ええ、その時は遠慮なく! 今日はマージュが来てくれて本当に嬉しいですわ。……来てもらえないかもしれないと思ってましたの」
「ふっふっふ、親友二人の結婚式をパスできるほど薄情じゃないよ~? そうそう私もね、今度モンディオと結婚することになったんだ!」
「まあ! おめでとうございます。ああ、嬉しさが二倍、いえ三倍にもなったみたい!」
自分の結婚式よりも嬉しそうに祝福してくれるレイラが、やっぱり大好きだ。
「ありがとう、こんな立派なのじゃないけど、式も挙げるつもりだから来てね!」
「もちろんですわ! 必ず行かせて頂きますから!」
「うんうん、ほらちょっと落ち着いて。そろそろ時間だよ」
興奮してしまったレイラを落ち着かせると、私は準備ができているか先に祭壇の方を覗いて確認した。
「こっちはOKだよ」
元仲間の一人が親指を立てて準備万端を知らせた。
今日のために集まった人々の中には、忘れてしまっていた懐かしい顔が勢ぞろいだった。
ゼストがやっとレイラを迎えに来たのを、感動しながら見ていた。始めから寄り添うと定められたみたいに、二人は絵になった。
「マージュ、今日はありがとう。それから……すまなかった」
こちらに向き直って深く頭を下げたゼストに、私は顔を上げるよう軽く肩を叩いた。
「いやいや、ゼストの尻拭いは慣れたもんだからー? 今度は夫婦喧嘩に巻き込んでくれるんでしょ? もう気にしなさんなって。おめでたい日なんだから、あんたは笑ってりゃ良いの!」
「ああ、わかったよ。ありがとう、マージュリア」
タキシードを着て笑ったゼストはいつもの三割増し男前だ。でも今は、モンディオの方がずっとかっこよく見える。
「お幸せにね!」
心からこの言葉を告げると、ゼストもレイラも頷いた。
「ジュリア、もう始まるぞ」
「うん、すぐ行くよ!」
ドアから顔を出したモンディオに元気よく返事をした。
ハーレムの一員をやめてから。お気に入りのマグカップは割れ、新しいものに代わった。
そして私は人生の伴侶と、得難い親友を二人も手に入れることができたのだった。
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<おわり>