二つの師弟関係
時遡ること開幕前。その日を一週間後に控えた二部練習の後、猪口は松本コーチから呼び出しを受けた。
「どうしたんですか松本さん」
「おお来たか。着替えてはないな」
「宮脇さんに言われて、そのまま。シャワー直前でした」
「はは。じゃあ、個人レッスンで、もう一汗かくか」
「え?」
突然の練習の指示に、猪口は呆気に取られる。松本コーチは、その意図を伝えた。
「監督からの厳命だ。今シーズン、お前にはパスの精度を徹底して磨いてもらう」
この頃のバドマン監督は、メディアに対して口を開けば「我がチームの看板は剣崎と友成です」の一点張り。だがその本心は、中盤の要として猪口の一本立ちを画策していたのだ。
「すでに耳にタコができるほど聞かされたと思うが、うちはことしのJ1昇格を至上命題としている。だが、昇格をした場合には戦力不足であることは明白。そこで個々のレベルアップを図ろうと言う訳さ」
「なるほど…。でも、どうして僕が。俊也とか大森とかを鍛えたほうがもっとプラスになるんじゃ…」
猪口の戸惑いはもっともであった。本心は指揮官直々の指名を光栄に感じていた。だが、ユースの頃から抜きん出ていた竹内や、昨シーズン終盤にセンターバックでコンビを組んだ大森のほうが、自分よりも戦力になっていると考えたからだ。
「いやな。監督曰く『竹内と大森は既に完成の域にあって新しい味付けは不可能。君のほうが伸びしろがある』だと。まあ、俺もその意見には賛成さ」
「僕のほうが?」
「ああ。だってそうだろ。170もタッパがないお前が堂々とプロでプレーできてるのは、間違いなく才能があるってことさ。俺も現役ん時はチビってよく言われたしな」
その日から、猪口は松本コーチとマンツーマンでトレーニングを続けた。
走りながらのパスやその強弱、長短、精度、さらには状況に応じたワンツーパスのタイミング…それはボールの正しい蹴り方に始まり、疲労度を考慮してメニューを調整しながら、1時間ほど練習はほぼ休みなしに続いた。
「松本さん、現役のときに苦労したことって何かあります?」
ある日の練習の際、猪口はふと聞いた。
「まあな・・・。俺はまあ浦和から青田買いされたからな。まあ、いろいろあったぜ。レギュラー争いは半端なかったし、何よりフィジカルコンタクトが全然違った。突っ立っててもパスさえ出せばOKだった地域リーグあがりにゃきつい世界だった・・・」
「浦和ってすごい人気で、今は日本のビッグクラブですからね」
「人気に関しちゃ、俺が行ったときからそうだった。ま、そうはいっても、俺がいたときにはJ2に落ちたし、強さは伴ってなかった。浦和がそう呼ばれはじめたのも、アジアで戦うようになったここ数年さ」
「・・・J1、やっぱり厳しいですか」
「そうだな。実力はJ2で相手した連中とは比べ物にならん。それに歯車次第で強豪がこけることもざらな、世界有数のアンビリーバブルな世界さ。そこで生き延びるにゃ、もっとお前は才能を引き出さんとな」
「はいっ!!」
(…少しは恩返し、できたかな)
猪口はふぅと一つ息を吐いて、また試合に集中し直した。
猪口のフォローを受け、栗栖は一気に駆け上がる。ちらりと栗栖はゴール前を見やる。ニヤサイドから剣崎、矢神、竹内が走り込んでいる。遠くの二人はほぼフリーだが、目の前の剣崎には愛媛のセンターバックが二人がかりで挟み込んでいる。だが、栗栖に迷いはなかった。
(ちっ。さすがに固まってるか。けど、それを決めてのエースだろっ)
栗栖は剣崎に向かってセンタリングを出した。
(さすがクリっ!トドメは任せなっ!)
ディフェンダーにサンドされた状態だったが、剣崎は迷わす左足を振り上げ、ダイレクトボレーを試みる。ボールを捉えた瞬間、剣崎の脳裏にある人物とのやり取りがフラッシュバックした。
「剣崎」
「おっ、オヤジ。今帰りか?ずいぶん遅えんだな」
「お互い様だ。てめえも相変わらずシュート練習に明け暮れてんだな」
剣崎がオヤジと呼ぶのは今石GMだ。まだろくに見向きもされず、「旧式」と酷評だらけだった剣崎を、拾い上げたのは当時ユースチームの監督だった今石だ。他のコーチの反対を押し切り、鶴の一声で入団させた今石を、剣崎は感謝の意を込めながら父親の様に慕った。
「お前、もう二十歳になったろ。どうだ、一杯付き合え」
「ええ?いいのか?車どうすんだよ」
「タクシー拾えばいい。おごってやるから付き合え。昇格の前祝だ」
今石につれられて訪れたのは、紀ノ川市内の寿司屋だった。いわゆるカウンターの回らない寿司屋である。席に着いた二人は、生ビールのジョッキをガツンと合わせて飲み干した。
「ぷはあ、これやってみたかったんだよなあ。結構うめえんだな、ビールって」
「ハハハ。お前はまだ現役だからな。楽しむのは結構だが、ほどほどにしとけよ」
それからは寿司をつまみながら、これまでの思い出を語り合った。ユース時代をあわせて昨年までの4年間、監督と選手と言う立場だった師弟。今は現場を離れた今石だが、自分が手塩にかけて育てた選手の動向は、傘下においても気になる。自分のごり押しで入団させた剣崎ならなおさらだ。だが、下手の代名詞的存在だった愛弟子は、今やJ2の歴史に燦然と輝くストライカーとなっている。ほろ酔い気分でいつも以上に饒舌な剣崎の話を聞きながら、今石は満足げに笑って3杯目のジョッキを置いた。
「ようやく、1つの通過点が見えたな」
「通過点?」
「J1昇格だよ。キョトンとするない」
「昇格か…。こんなこと言っちまうのもあれだけどよ、ぶっちゃけ実感ねえんだよなぁ」
意外なことを口にし、ビールを飲んだ後に剣崎はさらに続けた。
「…今は昇格とか優勝とかあんまねえんだわ。今年のうちにJ2のゴール記録塗り替えれるかどうか…。それだけなんだよなあ」
「ほう」
「やっぱJ1でやるんだったらずっとやりてえし、残すのもやなんだ。すっきりと塗り替えてからJ1行きてえんだよなぁ…」
ため息をつく剣崎を、今石は鼻で笑った。
「…ははは。相変わらずだな。世間での大一番の真っ最中だってのに、自分の記録に没頭とはな。ははは」
「…笑いすぎじゃねえか。いいじゃん別に」
「まあな。ま、お前がいつもどおり自然体で安心したな。そのままの気持ちでいてりゃ、J2どころかJ1の記録も塗り替えちまうだろうな」
「おうよ。そんで日本代表の記録もな。目指すはJ通算400ゴールだ」
「でけえ目標だな。ま、なんにせよ、J1にさっさと上がることだな。・・・頼んだぜ」
(J1への扉、いまこじ開けてやらあっ!!!)
剣崎渾身のボレーシュートは、ゴールネットを三度揺らす。
昇格を告げるホイッスルが鳴ったのは、これから15分後のことだった。
大願は・・・成った。




