意識
――――――美しい、と思った。
レティシア・アリアーデとレティス・アリアーデ、彼ら姉弟の入れ替わりが発覚してからのシルヴァンは、常に腹立たしさを抱えていた。
自分の側近候補として、常に傍に居た『レティス』。
王族である自分に対する態度はこの上なくぞんざいで、我が道を行く彼に何度も腹を立てたり頭を抱えたりしたが、それでも数居る側近候補の中では誰よりも気を許していた。
自分が王位を継ぐときは、まず間違いなく傍に立つだろうと無意識のうちに思っていた。
だが蓋を開けてみれば、そう思っていたのは自分だけで、『レティス』は本物の『レティス』ではなかった。
これまで『レティス』の数ある仕打ちを広い心で許してきたシルヴァンでも、これは許すことができなかった。
裏切られたような、虚しさと怒り。
苛々と髪を掻き毟り、どうしてやろうかと暗い思いを抱える。
そして同時に思うのだ――――――彼らの目的は一体何だったのかと。
何のために姉と弟で入れ替わり、シルヴァンの傍に居たのか。
何のためにそれをする必要があった。
考えれば考えるほどシルヴァンには分からなかった。
いずれにせよ、『レティシア』と会わなければならないだろう。
彼女に会って、直接本人に聞くしかない。
人を散々振り回した挙句、ここまで虚仮にしてくれたのだ。
誰がそう易々と離れていくことを許すものか。
とにかく彼女と会わなければ、すべては始まらない。
しかしどうやって彼女を王宮へと呼び寄せるかとシルヴァンは思案した。
まず間違いなく、弟から入れ替わりがばれたことを聞かされたであろう彼女が、のこのこと王宮にやってくるとは考えにくい。
ならばどうにかして呼び出さなければならない、と考えたときにふとある催しが頭に浮かんだ。
それは、彼女が再三シルヴァンに開くよう促した―――――夜会。
「皮肉なものだ」
あれほど開くのを忌避していたというのに、彼女を捕えることができると思えば、待ち遠しく思える。
名門公爵家の一人娘である『レティシア』は、王太子妃候補の筆頭に名を連ねる者だ。
まず間違いなく、夜会に出席するはずだ。
事実、夜会が開催されるとなると、出来上がった参加者名簿にきっちりとその名は刻まれていた。
後は、彼女を捕えるのみ、と当日、じりじりと『レティシア』の参加を待ったが―――――彼女はなかなか姿を現さなかった。
すでに父王によるの開催の宣言も成された。
シルヴァンの周囲には美しい着飾り、目をぎらぎらと輝かせる貴族の娘らで人だかりができていた。
如才なく会話をしながら、内心では彼女が来ないつもりではないか、と焦ってもいた。
途中、席を外していた侍従が戻ってくる――――――馬車がついたとの報せを持って。
シルヴァンは、それを聞くと同時に走り出したい気持ちを抑え、自分を取り囲む女性たちに断って席を外した。
向かうのは、広間へと続く階段だ。
それを上がって来る彼女を迎えるつもりだった。
そうしなければ、夜会に参加したとしても途中で抜け出す可能性が高かったからだ。
その考えは、どうやら間違っていなかったらしい。
階段へと向かう途中、ちらりと視線をやった庭園に、人影が見えた。
心臓が音を立ててなる。
その者の髪は、月明かりの下ではっきりと分かる、黒髪。
ほっそりとした背中や小柄な背も、まず間違いない。
「……っ」
考えるまでもなく、追いかけた。
人影はまるで追いかけるシルヴァンをからかうかのようにひらひらとドレスを揺らしながら、先を歩いて行く。
庭園を抜け、するりと人影は『無明宮』に入った。
見失う前に捕まえなければ、と焦るシルヴァンに気づかないのか、それは一つの扉の前で立ち止まると、静かに中に入って行った。
この中に居る――――。
速まる鼓動と息を落ち着かせると、シルヴァンはゆっくりと扉を開けた。
室内は、薄暗かった。
だが闇に慣れたシルヴァンの目には、はっきりとその姿が見えた。
追いかけてきた人影の主は、小癪にも扇で顔を隠している。
間違いない―――――知らず口角が上がった。
「久しぶりだな、レティ」
皮肉を込めてそう声を掛けると、それに対して返って来たのは、
「……人違い、ではありませんか。私はあなたのことなど、知りませんが」
という人を馬鹿にした言葉だった。
それも僅かに震えた、か細い女性を装った声で。
どこまでも人を馬鹿にするのか、と手荒に扇を払いのけたシルヴァンは、息をのんだ。
結い上げられた艶やかな黒髪、そして混じりけないそれを彩る赤い薔薇の髪飾り。
華奢な身体を包む、ドレスは王家の色。
王家の色だから、という建前で、実際は身に着ける者を選ぶ色だからと誰もが避けるそれを隙なく着こなしている。
白い肌の色と黒髪がよく映え、それは本当に彼女にはよく似合っていた。
生まれたときから最高の物に囲まれて育ったシルヴァンですら、手放しで賞賛してしまうほどのもの。
そしてこれほどまでに何かに見惚れたのは久しぶりのことだった。
そう―――――ローザ以来だと言える。
ローザが太陽の女神のような目に眩しい美しさだとすれば、差し詰めレティシアは夜の女神のようなしっとりとした美しさだった。
ただ身に纏うものと化粧だけで、これほど変わるとは思わなかった。
ともすれば、見惚れてしまいそうになる自分を抑え、どうにかしてシルヴァンはレティシアに追及した。
目的は何か、と。
「大した目的じゃない。強いて言うなら弟がうらやましかったからかな」
だがそれは、どこかしっくりと来ないものだった。
憎たらしいが聡明な彼らしくない答えにさらに追及するが、素直に答える気はないようだった。
それどころか、
「何せ僕は『王太子さまの妃選びのための夜会』の参加者だし。そして王太子さまとお近づきになれなくても身分ある殿方とお知り合いにならなければならないからね」
と挑発的に言い放つ始末。
本当にどこまでも自分を馬鹿にしている。
そちらがその気ならシルヴァンにも考えがあった。
人を散々振り回しておきながらあっさりと誰かに嫁ぐなど、シルヴァンにはどうしても許せなかった。
頭に血が上った状態で、シルヴァンはそれなら簡単に嫁げないようにしてやろうと思った。
「何を……っ」
片腕で抱き上げた身体は驚くほど軽く、華奢だった。
ふわりと香る甘い匂いに、とくりと鼓動が速くなる。
散々文句を言い、暴れる体を易々と封じると、シルヴァンは広間へと足を進めた。
途中で彼女を下して手を引くが、彼女はどこへ向かっているのかとは問わなかった。
恐らくは、彼女にもどこへ向かっているのか分かっていて、分かった上で何を言っても無駄だと理解しているのだろう。
広間へと足を踏み入れるときにちらりと見下ろした彼女は、先ほどまでの勢いはどうしたのか、無言だった。
動揺しているに違いない、けれど毅然と顔を上げて前を向く姿はやはり美しい。
もしも、最初に『レティス』としてでなく『レティシア』として出会っていたら―――――ローザよりも先に出会っていれば。
一瞬過ぎった、拉致もない考えを振り払う。
「これが君の考えた罰?」
差し出した手に重なる、白い小さな手。
儚いほど細いそれが誰かのものになる。
そう考えるだけで、腹立たしさが浮かぶ。
側近になると思っていた者が離れていく寂しさから来るものか、それとも違うものか。
シルヴァンにはすぐには分からなかった。
ただ、これだけは言い切れる。
「……少なくともこれの所為で僕は嫁き遅れるだろうね」
憂いを帯びた白い顔を、折れそうなほどに華奢な身体を。
このとき、初めて――――――女性として意識した。
「誰が簡単に手放すものか」
それは本心からの呟きだった。