誰?
『レティス・アリアーデ』が姿を見せない。
彼を最後に見た日から今日まで、指折り数えてみればもう3週間も経っていることに驚く。
いつだって気まぐれ、我が道を行く彼だったが、それでも王宮に上がることがあれば、シルヴァンに顔を見せに来ていたというのに。
やはり最後に言った、
『だから今後は夜会のことや彼女のことに口出ししないで欲しい―――――レティには関係ないのだから』
あれが悪かったのか。
彼が出て行った後、さすがに言い過ぎたかと思ったが、もう後の祭りである。
次に会うときにでも謝ればいい、とそのときは思ったが、あれ以降彼が姿を現さないのでそれは叶っていなかった。
あれ以降、宰相による勉強会も開かれていたというし、何よりも登用試験があったのだから王宮に来ていないということはない。
何せ前評判通り、レティスは誰よりも優秀な成績で試験に受かったと言われているのだ。
今後は間違いなく国の中枢を担うだろうと囁かれている。
それを周囲から聞かされ、謝罪とともに何か祝いを与えたほうがいいだろうと思っていたが、肝心のレティスが現れないのだからどうにもならない。
以前はもう来るなと言っても来ていたぐらいなので、逆に来なければ来ないで落ち着かないものだった。
そろそろ呼び出しでも掛けようかとも思うが、側近候補とはいえ側近でもない彼をどんな理由で呼び出すか、それがなかなか思いつかない。
何となく気分が沈み、足取りも重い。
あれこれ考えているうちに、いつもは使わない回廊に迷い込んだシルヴァンは、そこで自分を悩ませる人物の後ろ姿が見えた。
一瞬、驚きに心臓が跳ねる。
だがすぐに好機だと足早に近づいた。
「レティ」
追いついたところで背中に声をかけると、目の前の相手が立ち止まり、ゆっくりと振り返る。
だがなぜ、だろう。
どうしてかその姿に違和感を覚えた。
彼は振り返った後、ああ、とでも言うようにシルヴァンを見上げた。
「何か用?」
小首を傾げる姿はいつもと同じであり、間違いなくレティスである。
最後の気まずい会話など気にもかけていない様子に胸を撫で下ろしながらも、
「いや……最近姿を見せないから何かあったのかと思ってな」
どうしてか、違和感が消えない。
頭ではレティスだと分かっているのに、シルヴァンの中の感情が何かおかしいと訴えている。
「何、僕に会えなくてそんなに寂しかったの」
「違うわ」
相変わらず己をからかうような、小馬鹿にしたような態度に眉をひそめながら、目の前の彼をまるで見定めるかのように見つめた。
存在を疑われているとも知らず、彼は肩をすくめた。
「僕も暇じゃないからね、悪いけど君に構ってばかりいられないよ」
「……誰が構ってくれと言った」
相変わらずの態度だった。
やはり思い違いだろうか。
だが会話を続ければ続けるほど違和感が強くなる。
試すようではあったが、自分を納得させるため、
「―――――レティ、そういえばこの前貸した初代王レイビアの伝記をそろそろ返してくれないか」
「レイビアの?」
「貸しただろう、定説じゃない方」
何気ない風を装って尋ねた。
試されているとも知らないで、レティスは不思議そうに首を傾げた。
「あれ、返して欲しいの?」
「ああ」
「でもあれ、『もう5回読んだし、実は2冊持ってたからいらない』ってくれたんじゃなかった?」
「……そう、だったか?」
「そうだよ。本当君って気まぐれで困るなぁ」
どちらが気まぐれだと心の中で突っ込みながら、拍子抜けした。
二人しか知らないはずの会話をレティスはあっさりと答えた。
それもシルヴァンが言った言葉をそのままに。
彼でなければ答えられないことだ。
「じゃあ次にでも持ってくるよ」
軽く肩をすくめ、レティスが踵を返そうとする。
どこまでも、いつもと同じ、変わらない光景。
だが。
頼む、と言いながらシルヴァンは、
「――――ところでお前は誰だ?」
と呼び止めた。
その言葉にぴたりと踵を返そうとしていたレティスの足が止まる。
何を言われたのか分からない、という顔つきをする彼をシルヴァンは見下ろした。
「お前は、俺の知っている『レティス・アリアーデ』ではない」
「何言って……」
「俺が知っている『レティス・アリアーデ』はどこだ?」
鋭い詰問するような声に、目の前の少年は沈黙した。
だがすぐに口元に笑みを浮かべ、
「何を言っているか分からないよ。僕が『レティス・アリアーデ』でないなんて。意味が分からないことを言わないでくれる」
「……白を切るか」
「だって意味が分からないもの。僕が僕ではないなんて。何か証拠でもあるの?」
あくまで強気なレティスに比べ、シルヴァンは軽く首を振った。
「証拠はない」
「なら、」
「だが一つだけ。さっきのレイビアの伝記だが、確かに俺がレティスにやった。だがレティスは、その伝記を後日俺の執務室に持ってきて読んでいたが、忘れて帰った。だからあれを返すことなんて不可能なんだよ」
なぜわざわざ俺の部屋まで持ってきて忘れて帰るのか、と呆れたが、彼は気が向いたら持って帰るよと相変わらず我が道を行く返事をくれた。
だから執務室に忘れて帰ったことに気づいていなかった、ということは有り得ない。
「どうやらお前はそれを知らなかったようだな」
「………」
「それに、お前を見てると何か違和感を覚える。はっきりとした違いは分からないが、何かが俺の知っている『レティス』と違うと感じる」
見た目、歩き方、声の調子、口調まで彼は完璧だった。
むしろよくここまで似せたものだと思う。
だがシルヴァンの中の何かが違うと訴えかけ、そして鎌をかけてみればやはり一部だけであるが引っかかった。
それだけで十分だ。
シルヴァンは確信した。
これは『レティス・アリアーデ』ではない。
そう思って見つめた目の前の少年は、相変わらずにっこりとほほ笑んだまま。
「……なるほど。じゃあ仮に僕が『レティス・アリアーデ』ではないとしたら、僕は一体誰だというの」
それも考えた。
ではこの目の前の少年は誰かと。
アリアーデ公爵家の特徴である黒髪、黒色の瞳を持つ彼。
確かに髪や瞳は薬を用いれば染めることは可能だが、この黒色は人為的なものではない。
それに彼の顔、体つきは『レティス』そのもので、シルヴァン以外の誰も彼を見て『レティス』ではないと疑わないだろう。
ならば、二人が血縁者である可能性が高い。
まず最初に双子かと考えたが、そんな話は聞いたことがないし、わざわざ生まれたときに双子である事実を隠す必要もない。
ならば兄弟と考えて、一人だけ思い当たる人物がいた。
「レティシア・アリアーデ」
「………」
その名を口にすると、一瞬だけ目の前の少年の肩が震えた。
『レティシア・アリアーデ』は、レティスの半年だけ早くに生まれた、アリアーデ公爵家の長女だ。
病弱である、ということを理由に公爵家から隠され、公爵家の者以外でその姿を見た者は誰一人としていない。
レティスもまた一度たりとも彼女の話題を口にしたことはなく、異母であるから仲が悪いのかと勝手にシルヴァンは思っていた。
「姉と弟、それも異母でどの程度まで顔が似るのか分からないが、それ以外に思いつかない。お前はレティシア・アリアーデか?」
半ば確信を持って問うたシルヴァンの言葉を、だが次の瞬間レティスは笑い飛ばした。
「僕がレティシア姉様だって? 女だと疑うのならここで服を脱いで見せようか」
それはどこまでも強気な態度だった。
実際に脱げと言えばすぐにでも脱ぎだしそうな様子である。
そして、脱がせた後に男であることが分かったとき、シルヴァンは手痛い目に遭うだろう。
彼の声には、公爵家の跡取りにそこまでさせてただでは済ませないという不穏な色を纏っていた。
「さあどうする?」
挑発的な彼に、シルヴァンは黙する。
己の考えが間違っているとは思えない。
ならば考えられるのは、一つの可能性。
だがそれを認めてしまうと、今までの自分がどれほど愚かで何も見ていなかったかを思い知らされるので、認めるのはなかなかに嫌なものだった。
「……だがそれしかないのだろうな」
「何?」
「いや……どうやら俺の目は節穴だったらしい。お前は『レティス』だな?」
「だから最初からそう言ってるでしょ」
「そして、俺が今まで『レティス』だと思って過ごしてきた相手が、『レティシア』だな?」
口にしれみてば、それしか考えられなかった。
あれほど一緒に居ながら、そして時にはふざけて触れ合うこともあったというのに、気づかなかった自分は本当に間抜けだった。
あれが少年ではなく、少女だったとは。
目の前に彼が居なければ盛大に頭を抱えていたことだろう。
「………」
そして、目の前の彼はそうだとも違うとも言わなかった。
だが謎めいた笑みを浮かべているだけだ。
「何も言わないなら、肯定と取るぞ」
脅してみせても、彼は頷くことも首を振ることもしなかった。
ただ彼らの癖のように小首を傾げてみせた。
「ねえ、もしもそれが正しかったとして、どうするの? 罰するつもりがあるの」
確かに、自分を、周囲の者を騙していたことは許しがたい。
王家に対する侮辱であると取られてもおかしくはない。
だが、それを証明する手立ては何一つないのだ。
自分が今、騒ぎ立てたところで相手にする者はおらず、ただシルヴァンの評判を下げるだけに成りかねない。
「罰するのは……難しいだろうな」
「ならどうでもいいじゃない。今までに入れ替わりがあったとしても」
あっけらかんと言い放つさまは、いっそ見事である。
姉弟そろって自分勝手なところは同じらしい。
「僕は試験に受かったから今後は真面目に文官として働くつもり。姉様だって15歳だし……僕にとっては死ぬほど嫌だけど、いずれはどこかに嫁がなきゃいけない。あなたと遊んでる暇はない」
その言葉には、怒りよりも衝撃の方が強かった。
別に自分は暇ではないし、誰が遊んでくれと言った。
それよりも、『レティシアが嫁ぐ』という言葉が衝撃だった。
シルヴァンの中では、まだ『レティス』と思っていた『レティシア』は少年なのだ。
それが嫁ぐ、というのが信じられなかった。
側近候補で、傍にいるのが多かった彼が離れていくことなど、今まで一度も考えたことはなかった。
だがあれが『レティシア』であった以上、もう傍にいることはないし、シルヴァンの前に姿を現すこともないのだ。
『君ね、あんまり自惚れてるといつか痛い目に遭うよ』
ふとあの呆れたような声が耳に蘇る。
いつだったか、あの言葉が頭をぐるぐると廻った。
もうあの声を聞くこともないかもしれない。
そう思ったとき、沸き起こったのは―――――怒りだった。
「だからもういいでしょ」
「――――いい訳あるか」
「え」
「散々人を虚仮にしてくれて、なかったことにするだと? 謝罪も何もなしで済ませられるか」
人を振り回しておきながら、自分はあっさりと他家に嫁いで幸せになるつもりか。
そう考えるだけで、妙に腹立たしかった。
「レティ、いやレティシアを呼び出す。呼び出して根限り叱ってやる」
「ちょ、やめてよ!」
「五月蠅い。もう決めた。人を馬鹿にした報いを受けさせる」
言い切ると、シルヴァンはくるりとレティスから背を向けた。
逆にそれを今度はレティスが呼び止める。
「待ってよ! 姉様を呼び出すなんて、王太子がそんなことをしたら!」
公爵家の長女を王太子が呼び出すなど、理由はどうであれ誰もが思うに違いない。
王太子がとうとう妃を決めたのだと。
周囲だけでなく、まず間違いなく父王も母王妃も、何よりもアリアーデ公爵が黙ってはいない。
さすがにそれは避けたいが、
「どんな手を使ってでも呼び出す。レティシアに伝えろ、覚悟を決めておけと」
この腹立ちはすぐにはおさまらない。
好き放題するだけして、言うだけ言って逃げるなど、許さない。
そちらが好きにするなら、こちらも権力を行使してでも好きにする、と決意を新たにしてシルヴァンは足早に歩き去った。
その足取りは、最初に比べれば格段に力強いものとなっていたのだった。