潮時
『アリアーデ』
それは、貴族の中でも筆頭と呼ばれる家の名である。
フェイアンでは、小さな子供でも知っている国の始まりの物語。
それには王と一人の騎士が登場する。
国を興した王に忠誠を誓い、終生王に仕えた騎士。
そしてその騎士を前にすれば霞むけれど、もう一人、初代王に仕えた家臣が物語には登場する。
王の片腕となり、宰相となって国政を担った彼は、死後に騎士と同じく公爵位を与えられた。
それが、『アリアーデ』公爵家だった。
『レティシア・アリアーデ』
それは、由緒正しきアリアーデの当主を父に、公爵家には劣るが名門と言われる伯爵家の長女を母に持った、アリアーデ公爵家の第一子の名。
二人の第一子として生を受けた彼女の将来は約束されたものだと誰もが思っていた。
けれどそれが覆るのは、誰も予想にしないほど早かった。
始まりは、生後僅か1か月後に公爵夫人であった母親を亡くしたことによる。
産後の肥立ちが悪いわけでもなく、大病を患っていたわけでもない。
まだ若かった彼女の死因は、『病死』ただその一言で片づけられ、葬られた。
その後に新しく公爵家に迎えられたのは、夫人の2歳年下の妹。
亡くなった姉の代わりに妹が義兄の元に嫁ぐ、そのこと自体は決して珍しくはない。
けれど、その後の出来事に誰もが眉をひそめた。
第一子である長女誕生から半年後に後継となる、第二子の誕生。
どう考えても早過ぎる第二子の誕生に誰もが眉をひそめるが、公爵家の権力の前では沈黙を保った。
そのため、誰もが生後間もなく母を亡くした第一子を気に掛けることはなく。
彼女は、生家では居ないものとして扱われてきた。
公爵、夫人、長男が屋敷の東翼を生活拠点としている中、彼女はただ一人西翼に自室を与えられ、乳母の手で育てられた。
公爵も彼女から見れば叔母に当たる夫人も、別に彼女のことを疎んじたわけではない。
ただ『興味がないだけ』その一言に尽きる。
娘は年頃になれば駒として有力者に嫁がせることができるが、それまでは使えないから屋敷で養育しなければならない、それだけだった。
だから彼女の世界は、乳母と数人の侍女、彼女を淑女として躾けるための教師でつくられていた。
小さくて脆い彼女の世界を壊したのは、一度きりの邂逅。
それが彼女の世界と彼女を変え、後の彼女をつくった。
今でもそれは目を閉じれば、鮮明に思い出すことができる。
『セツ―――――母上しか知らない、ひみつの名前』
彼女の中で最も大切で、何にも代えがたい記憶。
たとえ最早、それを彼女しか覚えていないとしても関係ない。
彼女の中でその思い出が生きている。
それだけで構わない。
あの記憶が現在も彼女の力となり、行動を起こさせた。
他の者が見れば、愚かだと言われるやり方であっても。
彼女は、それを何度でも選ぶだろう。
だが、それももう―――――終わらせなければらないときがきた。
「姉様? どうかした?」
その声に閉じていた瞼を開ける。
目の前には、自分を心配そうに見る弟の姿があった。
伸ばされた手は、幼い頃病弱で長くは生きられないかもしれない、と言われていたものとは思えないほど力強い、男の手だった。
「何でもない」
振り払うように首を振ると、まだ不安そうな顔をしていたが、弟は手を引っ込めた。
代わりに、
「姉様、明日の勉強会どうするの?」
問われた。
いつもなら「行く」と答えただろう。
だが今日は、そうではない話をしに弟の部屋にやってきたのだ。
「行かない」
「……そう。なら僕が明日は行ってくるよ」
レティシアの返事に特に弟は何も思わなかったのか、その次はどうする、と軽く聞いてきた。
一つ息をつくと、真っ直ぐに弟を見つめて軽く首を振った。
「もう、行かない」
「え?」
「勉強会はつまらないし、王宮にも飽きた。だからもう行かない」
「姉様……」
突然のことに弟は驚いたように目を瞬かせた。
何か言おうと唇を開きかける、それを遮るようにテーブルの上に茶器に手を伸ばした。
冷めたそれを一口味わうと、物言いたげな弟の視線から逃げるように茶器を置いて立ち上がった。
すぐにそれに追うように弟も腰を上げる。
「――――王太子の所為だね?」
問いかけではあったが、確信を持っているようだった。
無言を肯定と取ったのか、忌々しそうに顔をしかめた。
「王太子に何か言われたんでしょ」
「……別に関係ない。さっきも言ったけど、王宮に飽きただけ」
「嘘つき」
「……それからそろそろ潮時だと思ったんだ」
疑いの目を向ける弟に、真実の理由の一つを口にする。
まだ同じ高さにある顔を見つめると、弟も同じ瞳で見返してきた。
「男と女、そろそろ体格の違いが目立つようになってきた。誰かに気づかれる前に止めるべきだろ」
今のところ、二人の入れ替わりに気づいた者はいない。
レティシアが『レティス』として親しくしている相手には、レティスは近寄らない。
逆も然りで、レティシアはレティスが友人として仲良くする者には極力、『レティシア』としても『レティス』としても近づかないようにしていた。
それのお蔭で二人の入れ替わりは明るみには出ていないが、限界を感じていた。
15歳になり、レティシアが女性としてやわらかい体つきになるのと同じく、レティスも男性としての力強さを身に着けつつあった。
入れ替わりに気づかれなくとも、レティシアが『レティス』として振る舞っているときに女だとばれる可能性が高くなってきた。
「それは確かにそうだけど……」
「それに試験ももう近い。今後は文官として登城するようになるし、遊んでいる暇はないだろ」
言い切り、まだ何か言いたげな弟を振り切るように踵を返す。
「姉様、本当にそれでいいの?」
追うように背にかけられた言葉には返事をしなかった。
いいも悪いもない、もう決めたことだ。
答えずともレティシアの決意が伝わったのだろう、弟はそれ以上は聞き返さない。
本当に物分りのいい弟だった。
そうさせたのは、他でもないレティシアだった。
弟の想いを知りながら、それを利用してきた。
そのことに罪悪感を抱くことは、今後もない。
けれど部屋を出るために、扉に手をかけたところで立ち止まる。
「レティス」
何、といつもと変わりない返事をする弟を振り返りはしなかった。
「今までごめん」
自分とは違い、すべてを持っていた弟。
たった半年、そして男女の違いだけで。
すべてを持っていることを幼いレティシアは許せなかった。
病弱で自分の半分も勉強ができないくせに。
なぜ己より劣る者にすべてを奪われるのか。
だから弟を嫌い、近寄らなかった。
だが。
『姉様、姉様』
代わりに弟は自分を慕い、後を追ってきた。
それすら疎ましく、相手にしていなかったが、弟は弟なりにレティシアが自分を嫌っていることに気づき、
『欲しい物なら全部あげるから、何でもするから僕を嫌わないで』
必死に縋ってきた。
最初は相手にもしていなかったが、弟のしつこさに負けた。
できもしないくせに、と口にした望みはけれどたやすく弟によって叶えられた。
『レティス・アリアーデ』として振る舞うこと。
皆から大切にされ、口にした望みがすべて叶えられる。
自分を存在するものとして扱い、見てもらえる。
そして何よりも、公爵家の跡継ぎとして―――――王宮に上がることができる。
最初の数年は、それだけで幸せだった。
たとえそれが弟の犠牲の上に成り立っているものだとしても。
何を失ってでもその幸せを守りたかった。
「ごめん」
けれどそれももう終わりだ。
自分が抱いていた幸せが独りよがりで、空っぽなものだと直視させられた以上、諦めるしかなかった。
もう、夢を見て生きられる歳ではない。
自分が始めたことは、自分で終わらせる。
だが、
「受け取らないよ姉様。謝罪なんて」
弟はあっさりとレティシアの感傷を跳ね返してきた。
「………」
「だって僕が受け取ったら、姉様はまた僕から遠ざかろうとする。だから僕は受け取らない」
彼女が目を背けてきた罪悪感など軽く笑い飛ばして。
弟もまた自分の望みを叶えたに過ぎないと。
「……嫌なやつ」
罪悪感を抱くことも、一人で身軽になることも許してくれない、誰よりも憎くて――――愛しい弟。
思わず吐息すると、弟は楽しげに笑った。
だって、と。
「僕はレティ姉様の弟だもの」
それは胸を張って言うことではない。
そう思ったがレティシアは扉に向かったまま小さく笑って、部屋を後にした。