変化
―――――――まずい、とシルヴァンは焦っていた。
何がまずいのかと言えば、もちろんレティシアとのことである。
彼女は2週間前、
『お父様が体調を崩されているから、一度家に戻りたい』
と言い出した。
確かにレティシアがシルヴァンの側妃となってから勢いづいていたアリアーデ公爵が、ここ最近げっそりと窶れているのは誰もが気にしていた。
しかもレティシアが帰りたいと言い出したころは、自宅で静養をせざるを得ない状況だった。
それゆえシルヴァンも少し考えた後、後宮から一度出る許可を出した。
だが許可を出しながら、恐らくレティシアが後宮を出たいと言い出したのは、それだけではないだろうと分かっていた。
原因は、まず間違いなく自分にある。
ローザが懐妊したという、あの報せを手に入れてからシルヴァンは自分でもおかしなほど動揺していた。
彼女がイーデンへと嫁いだときから、こうなることは分かっていたはずだった。
だがいざ報せを受ければ、ローザがあの気弱そうな王に抱かれ、子どもを身籠ったのかと思うと胸が苦しくなった。
子どもを身籠るのにまさか一度だけ抱かれたわけではないだろう、と自分が触れることができなかった彼女にあの王が何度も触れたのかと下世話なことまで考えた。
目を背けていた現実を再び眼前に突きつけられたようで、シルヴァンは胸に痛みを覚えるのと同時にひどく何事にも無気力になった。
その所為でレティシアと過ごしていても、上の空になることが多く、何も知らない彼女は自分を心配までしてくれた。
口ではきついことを言いながら、優しく触れてくれる手に申し訳なさと罪悪感が強くなり、足が少し遠のいた。
まさにそのときだった。
若くして未亡人となった、ルディラが自分の元を訪ねてきたのは。
夫を亡くし、間に子もなく相続のことで親族ともめていると彼女は、王太子であるシルヴァンに助力を請いに来たのだ。
結婚前はシルヴァンの有力な妃候補の一人であり、夜会などで何度か時を一緒に過ごしたことはあったため、その僅かな伝手を頼ってきたのだろう。
窮状を涙ながらに訴える彼女の話を聞きながら――――――正直、心惹かれなかったわけではなかった。
未亡人となったルディラは、老いた伯爵に一度の邂逅で見初められただけあって美しく、女性らしい魅力に溢れた身体をしていた。
そして何よりも、どことなく―――――ローザに似ていた。
かつては何も思わなかったが、今目の前にすればローザを思い起こさせる容貌に手を伸ばしたいという欲望に駆られたが、夫を亡くしたばかりの女性に何をと己を叱咤する。
涙を零す彼女からやや目を逸らし、
「力になってやりたいとは思うが、貴女の話だけを聞いて判断を下すことはできない。また本来であれば相続に関しては王家が口出しできないこと。私の一存ではどうすることもできない」
冷たいと取られても仕方がない回答をする。
それに彼女は当然食い下がったが、どうにか宥めると、とにかく今日は王宮に泊まっていくように告げた。
自分の執務が長引き、応接室に彼女を通した時間自体遅かったのもあるが、もうとっくに日が暮れ、深夜に近い時間だった。
「部屋を用意させよう」
彼女と向かい合っていた椅子から立ち上がると、それを追うようにルディラが立ち上がる。
「お待ちください殿下!」
進路を阻まれ、シルヴァンも足を止める。
間近で見下ろした彼女は涙を潤ませ、豊満な胸元を押し付けるようにしてシルヴァンに縋った。
本来であれば無礼を咎めるところであるが、見下ろしたルディラがやはりローザに似ているとシルヴァンは息をのんだ。
それをどうルディラは捉えたのか、甘い声でシルヴァンの名を呼んだ。
声はローザに似ていない、けれどもしも彼女が自分のことをこんな風に呼んでくれればとシルヴァンは思った。
誘われるようにして黙ったまま涙に濡れた頬に手を当てた。
涙を拭うように目元に触れ、頬を撫でる。
一度たりとも触れさせてくれなかった、ローザにするように。
「………」
彼女がシルヴァンの目を見つめ、ゆっくりと目を閉じる。
引き寄せられるように、シルヴァンも顔を寄せていく。
自分の中ではこのときレティシアのことなど頭になく、ただ想いを遂げられなかったローザに触れているつもりになっていた。
だが。
本当に唇に触れる寸前。
―――――――君は本当に勝手だ。
あの日、どん、という胸の痛みとともに叫んだ彼女の顔をはっと思い出した。
どうして急に、こんなにも都合よくそれが思い浮かんだのか分からない。
だがそれが一度頭に思い浮かぶと、次々とレティシアの言葉が、顔が目の前にちらついた。
それだけで我に返った。
自分は何を、しようとしていたのか。
ローザへの想いに未練たらしく縋り、忘れられなかった自分を見捨てず、傍に居ることを選んでくれた彼女を裏切り、何をするつもりだったのか。
「……殿下?」
はっと顔を離すと、ルディラが不思議そうな顔をして目を開けた。
振り払うように身体を離すと、
「すまない」
横をすり抜ける。
「殿下?!」
「――――部屋を用意させる。案内の侍女を寄越すから、ここで待っていてくれ」
呼び止める声を無視して応接室を後にした。
一人廊下を歩きながら、シルヴァンはほんの少し前の自分を殴りつけてやりたいと思った。
安易に流され、ローザに似た女性に手を伸ばそうとするなど。
ローザにも、ルディラにも失礼であり、何よりもレティシアに対して申し訳なかった。
本当に情けないことこの上ない。
その日はレティシアに合わせる顔がますますなく、後宮には入らず、自室で眠った。
翌日からはまた後宮に通い、それまでローザの懐妊で動揺していたことやルディラのことが申し訳なく、あれこれとレティシアに気を遣ったが、逆にそれが不審を抱かせているようだった。
そして3日後に再びルディラが訪れてきたが、相続に関しては3日前と同じだと回答し、すげなく追い返そうとしたが、なかなか納得せず時間がかかった。
ようやく部屋から追い出し、ほっと息をついたところで廊下を歩いてくる足音に気づく。
「……レティス」
何とも間の悪いことに、最も知られたくない相手である彼女の弟だった。
どの辺りから見ていたのか分からないが、彼はシルヴァンの前で立ち止まると、無表情のまま見上げた。
「二度目、かな?」
「……どういう意味だ」
3日前にも彼女が訪ねてきたことを知っているようだった。
そして、シルヴァンと彼女が夜を過ごしたと勘違いしているのだろうことも。
「どういう意味かは、胸に手を当てて考えてみたら」
「レティス」
「あんまり自惚れてると痛い目に遭うよ」
まるでレティシアの言葉を真似しているかのようなことを呟き、シルヴァンの隣をすり抜けてレティスは立ち去った。
とんでもない相手に見られた、と頭を抱えたい気分だった。
まず間違いなく、レティスは見たことを姉のレティシアに伝えるだろう。
それを聞いたレティシアがどういう行動に出るか。
飄々としているけれど、どこか脆さを抱える彼女がどうするかシルヴァンには見当もつかなかった。
それにもしかしたら、レティスがレティシアを気遣って口を噤む可能性もある。
シルヴァンの希望かもしれないが。
自分が招いたこととはいえ、ため息を禁じえなかった。
そして、その2日後のことだったのだ。
レティシアが、実家に一度戻りたいと言い出したのは。
「詳しいことは分からないけど、お父様はかなり身体が弱っているようだし、一度様子を見ておきたいから」
「……確かにここ最近、公爵が体調を崩されているようだと噂にもなっていたな」
ならゆっくりしてくればいい、と後ろめたいことがあるシルヴァンは許可を出しながら、彼女が帰ると言い出した理由はそれだけではないと分かった。
自分に話をする調子や、表情はいつも通りに見える。
だがその目を見つめてみれば、そこに頑ななな色があることが分かる。
心を閉ざしている、と。
それはレティスが自分に向ける瞳とよく似ていた。
信頼を失ったのだと、シルヴァンは息をのんだ。
まず間違いなくレティシアに、ルディラとのことが伝わっている。
それも最悪の形で。
「なら、明日にも後宮を出るよ」
「……ああ」
用意があるから、と踵を返そうとするレティシアを呼び止める。
呼び止めておきながら、シルヴァンは何を言えばいいか戸惑う。
何と言えば、いい。
ルディラとは、何もないと聞かれてもいないのに言うのか。
だがローザのことは。
ローザの懐妊に動揺したことは事実だ。
それを正直に告げるのか、それとも嘘をつくのか。
迷ううちにレティシアが話がないのならと踵を返そうとする。
結局、
「……いつ、戻ってくる」
と尋ねた。
その問いに彼女は踵を返そうとした足を止め、一度目を伏せた。
それから、緩やかに首を振った。
分からない、と。
それから、2週間経つが彼女が戻ってくる気配はない。
一度だけレティシアから手紙で、公爵の体調が思ったほど思わしくないことを書いて送ってきたが、それだけである。
そろそろ王や王妃が戻らないレティシアを不審に思い、それとなくシルヴァンに尋ねてくるが適当に誤魔化していた。
だがもう戻ってくるよう促さなければ、他にも不審に思う人間が現れるだろう。
戻って来い、と手紙に書くのは簡単だ。
だがもし、もしも――――――戻らない、と言われたら。
「………」
考えるだけで、居てもたっても居られなくなりそうだった。
あれほど勝手な振る舞いをしておきながら、レティシアが離れていくことは耐えられなかった。
手放すつもりはないし、彼女以外の妃を迎えるつもりもない。
ただただ早く戻って来てくれることを、願うだけだ。
情けないことだが、もう彼女が居ない生活など考えられなかった。
鬱々と日々を暮らす、シルヴァンは再び齎された報せにより、動揺することになる。
それは、唐突なものだった。
――――――アリアーデ公爵がその地位を退き、代わりにその息子が公爵位を継ぐ、と。