知らなければよかった
――――――期待なんて、したくない。
ふとまだ外が暗いうちに目を覚ましたレティシアは、隣に眠る彼の顔を見つめた。
長い睫を伏せ、穏やかな、けれどなぜか時折苦しげに眉を寄せる彼にくすりと笑う。
手を伸ばして眉間を突くと、嫌そうに顔が動く。
でも指を離すとまた元に戻って寝息を立てて、そしてもぞもぞと片腕が動いた。
その腕は隣に横たわるレティシアの身体を自分の方に引き寄せると、止まる。
ぐっと近くなった距離にレティシアは、目を瞬かせた。
自分の黒髪に顔を埋めるようにしている彼の寝息がくすぐったくて、身をよじって笑いたいのに。
彼の腕が許してくれない。
その事実にどうしてか、本当に分からないけれど、涙が一筋零れた。
「………」
目の前の胸に顔を埋め、目を閉じる。
彼の側妃となることを受け入れてから、半年。
『レティシア』
と誰に憚る必要もなく、彼に名前を呼ばれ。
まるで当然の権利のように彼の隣に立つことができて。
それは、とても―――――幸せなことだった。
けれど。
自分と過ごしながら、ふとした瞬間に彼がローザを思い出しているのは分かった。
たとえば二人で何気なく庭園を散策しているとき、彼は無意識なのかある場所で立ち止まり、遠くを見て目を眇めることがあった。
その先にあるのは、いつも同じ花が咲く場所。
イーデンに嫁いだ彼女がフェイアンに滞在したときに、好んで眺めていた花。
花を楽しむ彼女を見つめていた場所に立ち、だがすぐに顔を逸らすと再び歩き出す。
そのときの彼には、レティシアですら声を掛けるのを躊躇う。
だからレティシアはいつも黙って別の花を眺めている振りをする。
胸の痛みも無視して。
彼の心がまだ彼女にあって、忘れていないことは最初から分かっていたこと。
それでも隣に居ることを選んだのは自分だと言い聞かせてレティシアは目を瞑っていた。
――――――期待なんて、したくない。
だけどこのまま傍に居ればいつか、いつかは自分を見てくれるかもしれない。
相反する心を抱えるのは苦しく、重かった。
―――――それは、唐突なことではなかった。
どう考えてもおかしい、とレティシアは思っていた。
何がおかしいかと言うと、彼、シルヴァンの様子だ。
レティシアと過ごしていてもどこか上の空で、話をしていてもいきなり黙り込むことが何度かあった。
もしや体調が悪いのかと尋ねてもみたがそんな様子はなく、熱もない。
何かレティシアに対して隠し事をしているというよりは、思い悩んでいるようにも見える。
政務でうまくいかないことがあるのか、とそれとなく探ってみたがそんな様子もない。
ならばとレティシアは、弟に何かレティシアの耳にまだ届いていない情報がないかと手紙を書いた。
側妃となってからなかなか会うことができない弟は、すぐさまレティシアに返事を寄越した。
弟は正しくレティシアの求める情報を選び抜いていた。
―――――イーデン王妃の懐妊。
レティシアは目を見開き、その文字を凝視した。
後宮から側妃が手紙を出すときや、家族が後宮に宛てて手紙を出すときは必ず検閲を受けなければならない。
それゆえ、アリアーデ公爵家が代々使う符号を用いてそれは書かれていたが、レティシアが見逃したり誤った解釈をするはずはなかった。
イーデン王妃、ローザ姫の懐妊。
恐らくはまだ正式にイーデンから発表は成されていないのだろうが、まず間違いないのだろう。
同時にここ数日彼の様子がおかしかったのは、これの所為だと確信した。
愛していた女性が別の男性の子どもを身籠る、それを彼はどう受け止めたのだろうか。
すでに婚姻が交わされている男女の間のことだから、彼らに子どもができるのは当然のこと。
だがそれが彼にとってはそれほど衝撃だったのか、とレティシアはため息をついた。
弟からの手紙を折り畳もうとして、だがまだ続きがあることに気づき、目を走らせる。
それは、さらにレティシアを驚かせるものだった。
「……っ」
―――――――シルヴァンが、とある伯爵夫人と夜を共に過ごしたというものだった。
数年前に親子ほどの年の差のある伯爵と結婚した彼女は、女性の魅力をたっぷりと兼ね備えており、何よりもつい先日夫に先立たれて未亡人となっている。
手紙に書かれていた日付を思い出してみれば、その日はレティシアと過ごしていない日であることも分かる。
レティシアは、思わず手紙を握ったまま近くの椅子に腰を下ろした。
真っ白になった頭を無意識のうちに手で押さえ、詰めていた息を吐き出す。
動揺する自分に落ち着けと何度も言い聞かせ、くったりと椅子の背に体を預ける。
予想できない、事態ではないはずだった。
彼が王太子であり、自分が側妃でしかない以上、いつか自分以外の正妃を立てることも新しく側妃を迎え入れることも考えられる。
そうなる、覚悟もしているはずだった。
だが実際は、激しい動揺と落胆を抑えきれなかった。
自分の身体をまるで大切なもののように触れる、優しい手。
その手であの女性にも触れたのだろうか。
肌を合わせる喜びを、分かち合ったのだろうか。
考えれば考えるほどレティシアは落ち込み、悲しみを覚えた。
「どうして……」
覆っていた掌の下で息を吐き出すように嗤った。
自分に彼の心がないことは分かっていて、分かっていながら受け入れた。
いつか、いつか自分を見てくれるのではないかと、期待して。
今はそれを後悔し始めている。
側妃になることなど受け入れなければよかった、と。
――――――期待なんて、しなければよかった。
「……君なんて知らなければよかった」