報せ
『――――――一つだけ約束して。僕に君以外の好きな人ができたときに、解放してくれるって』
彼女を側妃に迎えることを決めた日。
毅然と顔を上げた彼女は、シルヴァンに言った。
それ以外は望まない、と決意を滲ませた彼女にシルヴァンは否とは言えず、ただ頷いたのだった。
どん、という衝撃の後、息を詰まらせたシルヴァンは、小さく呻いた。
心地よい眠りから強制的に目を覚まさせられた衝撃と痛みに苦しみながら薄らと目を開けると、すぐ傍に黒髪が目に入る。
「レティ……」
呻きながら上半身を起こして隣を見ると、見慣れた艶やかな黒髪を持つ彼女は、シルヴァンの恨めしい気持ちなど露知らず、すやすやと穏やかな寝息を立てている。
つい先ほど、シルヴァンに暴行を加えたとは思えないほど穏やかな寝姿である。
これまでにも何度か衝撃と痛みで起こされ、わざとかと何度も問い詰めたが当のレティシアはきょとんとした顔をするだけである。
要するに、彼女は無自覚に寝相が悪いらしい。
今日も隣に寝ていた彼女の肘を腹部に叩き付けられたシルヴァンは、まだ痛む腹部を撫でながらもう一度寝台に横たわると、ため息をついた。
両腕を伸ばして隣ですやすやと眠る身体を抱きしめる。
花の香りがする黒髪に頬を寄せると、もう一度目を閉じた。
――――――レティシアを側妃として迎えてから、半年が経つ。
レティシアには、後宮の中で最も寵愛の深い側妃が与えられる質の良い部屋を宛がった。
とは言ってもシルヴァンの母である王妃は中央宮に居を構えているし、現在のところレティシア以外に側妃が居ないため、当然のことだった。
彼女を側妃として迎えることに、シルヴァンの両親は特に賛成も反対も唱えなかった。
本人たちに任せるという立場を取り、二人の関係を精悍しているようだった。
レティシアの父親は、側妃という立場にやや難色を示したが、最終的には受け入れた。
そしてただ一人、反対をすると思われたレティスは、予想を違えて反対することはなかった。
ただシルヴァンとレティシアをじっと見つめた後、ふっと姉に向かって微笑み、
『……姉様が決めたなら、僕は何も言わない。だけど忘れないで―――――いつでも僕は迎えに行くから』
と意味深な言葉を言い放った。
それに対してレティシアは小さく、ありがとうと呟いていた。
シルヴァンにはわからない絆で結ばれた二人を自分はただ見つめた。
そうして側妃として迎え入れたレティシアとの関係は――――――この半年で変わったと思う。
相変わらず彼女は自由に動き、我が道を歩いていたし、シルヴァンに対する扱いも変わらない。
だが、今までは二人で同じ部屋に居たとしてもそれぞれ好きに過ごしていたが、側妃として迎えてからは隣に寄り添って一つの本を眺めたり、空いた時間に庭園を散策する機会が増えた。
そういうときのレティシアは、『レティス』のときに見慣れた冷めた表情ではなく、穏やかで優しい表情をする。
ふっとしたときに零れる笑顔には、未だ慣れない。
あの穏やかな笑みを見るたびに、どうしてか胸の奥がむず痒いような気持ちを味わった。
思わずその笑みに手を伸ばそうとして、はっと我に返って引っ込めるということが何度か続いた。
そして何よりも彼らの関係を変えた原因は―――――肌を重ね合わせたことだろう。
「お前が嫌なら、指一本触れない」
後宮に迎え入れた、最初の夜。
当然彼女の部屋を訪れたシルヴァンは、開口一番そう告げた。
ローザを忘れることができない自分には、その権利はない。
それに迎え入れるときに彼女自身、別に好きな人ができればその者のところに行くと宣言しているのだから、もしも訪れるかもしれないそのときを思えば、まだ清いままで居た方がいいと思えた。
だがそんなシルヴァンの考えをレティシアはあっさりと嗤った。
「何それ。僕を言い訳にしないでよ」
ただ君は覚悟がないだけでしょう、と。
本当の意味で二人の関係が変わってしまうことを、彼女が自分に抱かれたことを後悔することを恐れているだけだと、見透かされたシルヴァンは、言葉に詰まった。
臆病者だと目で挑発され、手を伸ばすことを止めることはできなかった。
「……途中で嫌だと言われても、やめてやらないぞ」
「しつこい」
ばっさりと切り捨てる彼女の寝衣を剥ぎ、肌を暴いていく。
薄明りの中、露わになっていく身体に、鼓動が速まる。
分かってはいたが、本当に『女性』だったレティシアの身体は―――――やわらかであたたかいものだった。
滑らかな肌をたどるだけで反応する身体に手荒なことはしないよう穏やかに触るには、かなりの忍耐と理性が必要で。
それまで女性と夜を共にしたときにはそれほど理性を無くすことはなかったというのに、と暴走しそうになる自分を抑えながら、ゆっくりと破瓜を済ませた。
終わった後、ぐったりと横たわる彼女を大切に腕に抱きしめると、少しでも痛みや疲れが安らぐように撫でた。
それは本当に、すっぽりと腕に収まる小さな身体だった。
これまでどれほどこの身体に我慢を強いて、支えてもらってきただろうか。
「……ありがとう、レティシア」
黒髪に頬を寄せて、思わず言葉が漏れた。
未だ想いを返せないけれど、それでも誰よりも大事にしたいと、守りたいと想った。
きっと、――――――もう手放すことはできないと思いながら目を閉じた。
あの初夜から半年。
シルヴァンがあのとき抱いた、想いは変わらない。
むしろあのころよりも強く、深まったと思う。
王太子として数ある儀礼や夜会に参加するとき、隣に立つレティシアを見ながら、王となった自分の隣に立つレティシアを簡単に思い描けるようになった。
両親やアリアーデ公爵は何も言わないが、彼らも将来レティシアが正妃の座に就くと思っている。
それならば早いうちに式を執り行ったほうが良いとそれとなく言われるし、シルヴァン自身もそれは考えている。
だがどうしてか、まだ二の足を踏んでしまう。
最早、シルヴァンの中で彼女を手放すことは考えられないし、彼女以外の誰かを妃として迎え入れる気持ちは湧き起らない。
愛しい、とも想う。
だが彼女への想いを自覚しながらも、ふとした瞬間に―――――ローザへの想いが顔を出す。
イーデンに嫁いだ彼女が、今どうしているか考えたり、何気なく見やった庭園に、彼女の面影を探すように無意識に目を眇めたりするたびに、はっと我に返った。
そんなとき、シルヴァンは何とも言えない罪悪感のような、後味の悪い気持ちを抱いた。
確かに『レティス』が『レティシア』であることを知り、彼女を側妃として迎えたときから格段にローザを思い出したり、想う機会は減ったように思う。
どうしようもない衝動は鳴りを潜め、虚しさや苦しさもシルヴァンの胸から遠ざかった。
それはこれからレティシアを想えば想うほど、なくなっていくに間違いない。
レティシアが居れば、ローザへの想いもやがては消えていくはずだった。
シルヴァンはそう思っていたし、信じてもいた。
だがそれは、思わぬ形で崩れ去る。
――――――イーデン王妃の懐妊。
その報せにシルヴァンは、レティシアの前で動揺を隠すことができなかった。