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王と王妃  作者: くま
2章
11/19

傍に

『10年前―――――僕は、この王宮で初めて君に会った』


 10年前、ということは自分が7歳のころだとシルヴァンは自室の椅子に腰をかけて、目を閉じた。

 すでにレティシアとは、あの庭園で別れている。

 あの後、突然の告白に固まったシルヴァンは、踵を返したレティシアを呼び止めることも追うこともできなかった。

 それだけ混乱がひどかった。

 幼い頃、確かに母親が茶会を開くとき、招いた貴族に連れてこられたその子どもに会ったことは何度かあった。

 あの頃は何も思わなかったが、今思えば連れてこられたのは、自分と同じくらいの小さな女の子が多かったように思う。

 思い返していく中で、一人だけレティシアだったのではないかと思い当たる子が居た。

 その子は、その頃出会った子どもの中で特に可愛らしい女の子で、シルヴァンが絵本を読んでやると嬉しそうに微笑んだ。

 それが嬉しくて、何冊も読んであげたのは覚えているが、それからどれほど思い出そうとしてもそれだけしかもう思い出せなかった。

 だが、もう一つ思い出せたのは、あの頃あの子にもう一度会いたいと母親に何度も頼んだことだった。

『またいつかね』

 と母親はそう言ったが、それは叶わなかった。

 それ以降に何人かの子どもたちと会って遊んだが、あの子と遊んだときほど楽しくなくて、やっぱりあの子がいいと思った。

 けれどそれも時が経つにつれ、シルヴァンはあの子と遊んだことはもちろん、あの子の存在自体を次第に忘れていった。


『僕は、君に会いたかった』


 だが、レティシアは覚えていた。

 あのとき、自分よりも幼かった彼女は自分のことを覚えていて、そして会いたいとずっと望んでいてくれたのだ。

 『レティス』として傍に居たとき、彼女はまさか過去に会っていたなどと口を滑らせることはなかったし、ましてや『会いたかった』と思っていたことなど微塵も感じさせなかった。

 いつだって自由で、我が道を行く彼女は、あのとき心の中で何を思っていたのだろうか。

「………」

 レティシアと別れてから、いや、『レティス』が『レティシア』だと分かったときから、シルヴァンの頭の中を占めるのは彼女のことばかりだった。

 今、あの夜会で初めて公に姿を現したとされている彼女には、見合いの話や求婚する者が後を絶たないという。

 中には念願叶い、一緒に公爵家で彼女と時を過ごしたと吹聴する者も現れ、知らず知らずのうちに焦りを覚えた。

 レティシアは、自分に想いを抱く男とどんな時を過ごしたのだろうか。

 微笑みを浮かべ、相手の話に相槌を打ち、時には手を握ることも。

 もしかしたらそれ以上も、と想像してシルヴァンはどうしようもないほどに焦燥を掻き立てられた。

 取り繕わない心で、そう思った。



 あの庭園での別れから一か月。

 シルヴァンは、三度、レティシアに手紙を送っていた。

 そのいずれも普通に届けたのでは、あの自分に敵愾心を抱く弟に握りつぶされるかもしれないと思い、二人の父親である公爵を通じて渡してもらっていた。

 最初の二通については色よい返事をもらえず、三通目にしてようやく承諾の答えが返ってきた。

 その内容は、ただ『会いたい』から王太子が私的に招くというもの。

 こんなものを送れば、まず間違いなくシルヴァンはレティシアを妃に迎えたがっていると噂になる。

 それでも構わない、とシルヴァンは思っていた。

 迎えた当日、シルヴァンはレティシアを自身の執務室の隣にある、応接室に案内した。


「―――――それで、僕に何の用?」


 冷めた第一声だった。

 この部屋に入るまでは侍従たちの手前、大人しく微笑んでいたが、二人になった途端これである。

 今日、レティシアが身に纏っているのは薄い水色のドレスで、黙っていれば彼女の清楚な美しさを引き立てるものだった。


「用がないと呼んではいけないのか?」


 返ってきたのは、沈黙であり、そして冴え冴えとした冷笑だった。

 嘆息し、シルヴァンは向かいに座るレティシアを見つめた。

 彼女は目も合わせたくないのか、その眼差しはシルヴァンではなくテーブルに置かれた茶器に注がれている。

 それでもシルヴァンは彼女から目を逸らすことなく、唇を開いた。


「今まで悪かったな、レティ」


 意識したわけではないが、それは何の気負いも嘘偽りもない、静かな謝罪だった。

 レティシアの耳に必ず届いただろうが、それでも目線を上げることはなかった。

 だが気にせず、シルヴァンは続けた。

「お前に言われるまで、俺は昔お前と会ったことを思い出しもしなかった。というか、『レチ』がお前だと気付きもしなかった」

 『レチ』――――――幼いころ『レティシア』とうまく言えなかったシルヴァンは、彼女のことをそう呼んだ。

 その名を思い出すと同時に、『レチに会いたい』と母に縋ったことも思い出していた。


「すまなかった」


 目線を落としていたレティシアは、『レチ』という言葉にぴくりと反応し、そして二度目の謝罪に小さくため息をつくと、首を振った。

「……別に君が謝ることじゃない。僕が勝手に覚えていただけ」

「それでも俺は……自分は忘れていたくせに、お前が覚えていてくれて、嬉しいと思ったよ」

 シルヴァンの言葉にようやくレティシアは顔を上げた。

 白い顔には何の感情も浮かんでいないように見えたが、黒い瞳がふと和らぐと、一瞬だけ微笑が浮かんだ。

 それはやはり美しくてシルヴァンは見惚れた。

 同時に次に自分が考えている言葉を言えば、怒りに歪むだろうとも思った。

 だが言わないという選択肢は、レティシアを招待したときからなかった。 

「―――――それで、今日お前を呼んだ理由だが………」 

 それを切り出すまで少し時間があった。

 シルヴァンの中ではもう決定していることだが、それでもまだ迷いがあったのだ。

 花茶で一息ついていたレティシアは、黙ったままシルヴァンを見つめてきていた。

 それを見返しながら、じっとりと汗を掻く手を握りしめた。


「側妃に、ならないか」


 それを口にした瞬間、レティシアは何を言われたのか分からなかったらしく、黒い瞳を瞬かせる。

 だが徐々に理解したのだろう、白い頬が怒りのためか僅かに紅潮し、黒い瞳が細められた。


「馬鹿にしているの?」


 声は低く、抑えられたようなものだった。

 そして話がそれならば、すぐにでも帰るという雰囲気だった。

 シルヴァンは、予想通りの反応に内心顔を歪めながら、首を振った。

「馬鹿にしているわけじゃない。この前のお前の言葉を……俺なりに考えた結果だ」

 へえ、と小首を傾げる顔には嘲笑が浮かんでいた。

「君を好きだって言った答えがこれ?」

「レティ」

「何それ。同情? お情けで側妃にしてやろうって?」

「違う、そんなことはない。俺は……」

「僕はそんなことは望んでなんかいない!」

 とうとう我慢できないとレティシアが声を上げた。

 かつてこんな風に声を上げて怒りを表すレティシアを見たことがなかったシルヴァンは、動きを止めた。

 怒り――――いや悲しみかもしれない。

 レティシアの黒い瞳からは、気が付いたときには涙が零れていた。

 白い頬を伝う、一筋の涙ははっと胸を打たれるほど美しく、そんなときではないのに見惚れてしまう。

 レティシアは、流れる涙をそのままにシルヴァンを睨みつけた。


「僕は確かに君が好きだ。だけどローザを忘れる気がない君と一緒に居たって嬉しくもなんともない。僕を見ない君なんていらない」


 手痛い言葉だった。

 口を閉ざすシルヴァンの目の前でレティシアはぐいっと涙を手で拭うと、立ち上がった。

「僕は君なんて忘れて、別の人を選ぶ。君はいつまでもローザ姫への恋心に縋っていればいい」

 未練も何もなく目の前で踵を返す身体。

 ――――――このまま行かせれば、その身体も、心も何もかもあれがすべて他人のものになる。

 一瞬で頭を過ぎった考えにシルヴァンは他に何を思う間もなく、立ち上がり追いかけていた。

 扉に手を伸ばしている体を両腕を伸ばし、背後から抱きしめる。

「な……っ」

 驚いたレティシアが暴れようとするのを力で押さえた。

 細い身体を抱きしめ、

「人の話は最後まで聞け!」

 と言うが、嫌だと叫びますます暴れる。

 最初は彼女を傷つけないように手加減していたシルヴァンも次第に頭にきて、力ずくで身体を自分と向き合わせると、


「レティ!」


 と怒鳴った。

 両肩に手を置いたまま、

「自分が馬鹿なことを言っていることも、勝手なことを言っているのも分かっている! けどな、お前も大概勝手だからな!」

「それは分かってるよ!」

「分かってない、全然分かっていない! 俺は今までずっとお前のことを男だと思っていたんだぞ?! 男だと思っていたのに、実は女だったなんて言われても簡単に頭も心も切り替えられるわけがないだろうが! その上俺を好きだとか自分は言うだけ言って逃げやがって!」

 ふざけるなよ、というシルヴァンの剣幕にさすがにレティシアも黙った。

 暴れていた身体が大人しくなったのを見ると、両肩に置いていた手のうち片方を離して、自身の赤髪をがりがりと掻いた。

 気が昂ぶる自分を宥めるように何度か息をつくと、

「……あの日、お前の弟からお前が実は女だったと聞いても、頭ではなかなか信じられなかったけどな、それでもあの夜会では、ドレスを着たレティを綺麗だと思った」

 まだ半信半疑だったシルヴァンの心に大きな衝撃を与えた、あの姿。

 今、彼女を目の前にしてもそれは変わらない。

 けれど同時にシルヴァンの頭には今まで一緒に過ごしてきた『レティス』の姿も過ぎるのだ。

 頭では『彼女』と『彼』が同じだと分かっているのだが、心がそれに追いつかない。

 『レティス』であったときは、口では何と言っても彼をまず間違いなく第一の『友人』であり将来の『片腕』だと思っていた。

 だが『レティシア』で分かった瞬間から、彼女のことをどう思っていいか分からなくなっていた。

 それでも、今のシルヴァンでも分かっていることはあった。


「お前が、誰かのものになるのかと思うと―――――嫌だと思ったよ」


 『友人』に対する独占欲か、それとも恋愛に起因するものなのか、それは分からない。

 それでも彼女が自分にしたように誰かに寄り添い、微笑むのを心底嫌だと思う。

 だが一方で、


「確かに、ローザのことは忘れられない。今でも……ローザのことが好きだ」


 最愛だと、妃にと望んだ彼女のこともまだ振り切ることはできない。

 身勝手なことを言っている自覚は嫌と言うほどある。

 愛した女性を忘れることができないのに、一方で気になる女性が離れていくのを嫌だ、と自分が以外の人間が言っているのを見れば、シルヴァンでも腹を立てる。

「勝手なことを言っているのは、十分承知している。それでも……」

 レティシアを正妃にして、自分から離れられなくするのは、簡単だ。

 正妃の立場に縛り付けてしまえば、彼女は二度と自分から離れていくことはできないだろう。

 だが、それでは駄目だとどうにか踏み留まる。

 勝手なことを言っている、勝手なことを言うのだからこそせめて、少しでも彼女に選択肢を残してやりたかった。

 これも勝手極まりない考えなのだろうが。

 それでも、目の前の彼女を手放せないと強く想う。


「傍に居てくれないか」


 ローザを忘れられるか分からないのに。 

 今ですらレティシアを苦しめているのに、さらにそれを強いる。

 最低だと分かっていながら、それでも言わずには居られない。


「誰かのものにならないで欲しい」


 黒い瞳を見つめたまま、紡いだ言葉は果たしてどれほど目の前の彼女に届いただろうか。

 レティシアは、先ほどからずっと沈黙したままだったが、次第に瞳を歪ませる。

 潤んだ瞳に動揺するシルヴァンへと、右手を振り上げると胸をどん、と叩いた。


「君は本当に勝手だ!」


 手加減ない力に、さすがにシルヴァンも呻いた。

「ローザ姫を忘れられないくせにっ」

 思わず胸を押さえるシルヴァンの頭にさらに扇が叩き付けられる。

「ローザ姫がまだ好きなくせにっ」

 ばしばし頭を扇で叩かれ、シルヴァンの髪は無残にも乱れた。

「それなのにっ、それなのに傍に居ろだなんて!」

 結構な力で叩かれてかなり頭が痛むが、それでも当然たとシルヴァンは受け入れた。

 彼女の扇は折れはしなかったが、骨が歪んでいた。

「嫌なのに、もう嫌なのに……っ」

 歪んだ扇を最後には床に叩き付けると、レティシアは両手で顔を覆った。


「……期待なんてしたくないのに」


 小さな両手の隙間から漏れた声は、本当に小さなものだった。

 だがその言葉に込められた悲痛な想いは、何よりも大きい。

 殴られた頭を押さえていたシルヴァンは、どうするべきかしばし迷う。

 両手で顔を覆ってしまった彼女に、何と言えばいい。

 期待していい、と言えばいいのか。

 ――――――ローザを忘れてみせると言えばいいのか。

 だがそんな嘘はつけないし、きっと、レティシアも望んでいないだろう。

「………」

 結局、迷った末にシルヴァンは手を伸ばして彼女を抱きしめた。

 すっぽりと収まる小さな身体は、今度は抵抗せずに大人しかった。

 あたたかい身体を抱きしめながら、目を閉じる。

 何と言えばいいのか思い浮かばない、というのもあるが、今はこのままで居たかった。

 彼女を女性として愛しているか分からない、離れていく友人を惜しいと思っているだけかもしれない。

 それでも今、この腕に抱いている身体が離れていくのは許せないし、抱いているだけでもう何もかもどうでもよくなっていくようだった。

 レティシアも大人しく腕に収まり、シルヴァンに身体を預けている。

 お互いの鼓動と息遣いしか聞こえないような、静かな時間だった。

 このままずっとこの時間が続くかと思われた。

 たが、やがてレティシアが一つため息をつくと、聞こえるか聞こえないかぐらいの小さな声で、ぽつりと呟いた。


「……君ね、あんまり自惚れてるといつか痛い目に遭うんだから」


 彼女の顔を覆っていた手が外れ、それはゆっくりとシルヴァンの背中に回った。

 ぎゅっと抱きしめるものではなく、ただ掴むだけのような仕草だった。

 それでも、レティシアの意図が伝わるには十分だった。

 じわりとシルヴァンの胸に期待と喜びが浮かぶ。

 果たして、彼女はシルヴァンが欲していた言葉をくれた。

 諦めたような微笑みとともに。


「―――――いいよ。君の側妃になってあげる」


 

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