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母を許せた理由

  ※2007/5/29


 私が結婚したのは24歳。子供を産んだのは25歳です。母は

「子供の面倒はみるから働きなさい」

と言いました。私も家に引っ込んでいて、姑の干渉が強く、両方の母からの攻撃に辟易していたので、働くことにしました。ただし、子供は保育園に預けました。その時点では、私は母に対して反抗心はありませんでした。でも、なんとなく母を疎ましく感じ始めていた時期でした。


 でも、子供を保育園に預けても、病気になれば保育園はみてくれません。病院にも連れて行かなければいけません。最初の一日くらいは仕事を休めても、一日で子供の熱は下がってくれません。となると、どうしても母に援護を頼むことになります。もちろん母は、快く引き受けてくれました。


 でも、最初こそ子供が病気のウチだけ私の家を自由に出入りしていたのですが、そのうち私の家の合い鍵を作り、知らないうちに勝手に家に出入りするようになりました。私が休みの日など、ピンポンもならさないで家に入ってきて、「あら、いたの」などと言います。いくら実母でも、あわてることもありました。でもまあ、親子だからと容認していました。そして、私が仕事に行っている間、私の家の家事をするようになりました。私は自分でできるからと断ったのですが、母は言っても聞かず、ご飯を用意して待っているようになりました。私も楽と言えば楽なので、母に家事料として、月5万円渡しました。すると母は、とうとう私の家のリビングの模様替えまでやりはじめました。さすがに怒ると、

「あんたは人の好意を無視する。人の気持ちがわからない酷い人間だ。私と離れて暮らすようになってから、そんな駄目な人間になってしまった」

と泣き出す始末です。そんな生活が3年ほど続いた後、私は管理職になりました。


 管理職のストレス、姑との関係、母の干渉、夫とのすれ違い、子育て。私は限界に来ていました。そして2年後うつ病を発症します。


 うつ病を発症したあと、まだ軽かったうちは、自分の性格などを分析し始めました。カウンセリングも受けました。そこで初めて母との関係の異常性を指摘されました。そして、両親について、いろいろ聞き始めました。父から母が万引きを繰り返していたこと、虚言癖があることを聞いたのはそのときです。今までは母が不幸なのは、父のせいだと思っていたのに、父の言い分をいろいろ時間をかけて聞くウチに、合点がいくことに気づきました。


 以後、私は母への憎しみの権化と化してしまいました。母を散々罵倒しました。これでもかと言うほど罵りました。私の自由と個性を奪い、自分の思い通りに操作してきたことに対する怒りをぶちまけました。何日も何日も話し合ったけれど、とうとう母は、謝りませんでした。もとより自分が悪いなどと思っていないのです。

「あなたと私は一心同体だった」

を繰り返すだけでした。私は合い鍵を返してもらい、せっかく買った分譲マンションを引き払い、両親から離れるため、一戸建てを買って引っ越しました。夫は理解してくれました。


 それからの3年間、母を憎しみ続けました。夢でも母を罵倒するシーンが出てきたりしました。自分がうつ病になったのは、母のせいだと信じて疑いませんでした。そしてそのことにリンクするかのように、パチンコを覚えました。そこには未だ味わったことのない、快感がありました。パチンコ依存症の本によれば、パチンコなどのギャンブルで得る快感は、「幼児的快楽」と呼ばれ、低次元の快感らしいのです。私は子供の頃快感を味わった記憶はありません。今にして思えば、幼児的願望を、パチンコに求めたのかもしれません。


 うつ病は良くなりませんでした。でも、仕事はできていました。薬でなんとかコントロールできていたのです。母への憎しみも、加藤諦三先生の本を読みあさるウチに、軽減してきました。母は学歴もなく、自分に自信がない。父に認めてもらえず、知らぬ町で姑との関係に苦労しながら暮らさなければならなかった。母の唯一自分を守る武器は、「嘘をつく」こと。理想の自分を子供にすり込み、子供だけが味方だった。父から責められても、嘘を着くのが一番丸くおさまった。長い年月が母を変え、自尊心の低さゆえに、我が子を意のままに操ることに執着した。我が子に頼られることこそ、自分の存在価値の証明だったのです。そのことが理解できるようになり、私は母を許せるようになってきていました。


 ある日、夫の10年の嘘が発覚し、重いうつ病になり、八方ふさがりになり、生きていられないと感じ、睡眠薬を大量投与したあと、首を吊ろうとしました。そこへ夫が入ってきて、自殺未遂に終わりました。でも正確に言えば、死のうとはしたけれど、死にきれなかったのです。怖かったし、娘に会えなくなるのも嫌でした。自殺など、そう簡単にできるものではありません。夫は私の両親を呼び、何日か話し合い、夫の両親とも話し合った結果、私の両親と同居することになりました。


 私はうつが良くなったり悪くなったりを繰り返していました。パチンコにのめり込んでいたけれど、依存症だと気づき、禁ぱちを始めます。これも辞めたりまたやったりを繰り返しています。両親との同居は思いの外、うまくいきました。家事は母が担当していて、生き甲斐を感じているようです。そして一階に両親の部屋、二階が私たちの部屋となりました。私が頑張って働いて建てた、私の城。でもいいのです。私は随分母をいじめました。


 日中母と私は別々の部屋にいます。食事はみんなで食べます。不思議なことに両親は、過去のことが嘘のように仲良くなりました。お互い頼り合っています。良い老後だと思います。5人家族でわいわい団らんを楽しんでいます。ずっと働いてきた私。娘にとっても私にとっても、こんな楽しい家庭の団らんは、経験したことがありません。母は料理が上手だから、いわゆるお袋の味を娘に食べさせてやれます。


 私は今、フラットになりました。人生の折り返し地点にいるのだと思います。私だけがこの世で辛い思いをしてきたわけではありません。これまでの人生は、十分振り返りました。あとは前を向いて歩くのみです。~



 父は、2009年10月、亡くなりました。とたんに母は、私に再び絡むようになってきました。衣服、髪型、行動。何にでも干渉します。母は寂しいのでしょうが、私もときどきキャパシティを越えるときがあります。これからが、本当の意味で、母と真剣に向き合うときなのかもしれません。

 それにしても、父には何の親孝行も出来ませんでした。悔やんでも悔やみきれません。感謝しても、しきれません。


















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