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親子の役割逆転

 ※2007/5/29


 私の両親は、私が物心ついたころから既に不仲でした。


 父はブルーカラー。決して裕福な暮らしぶりではなかったです。短気で酒を飲んでは仕事のつらさを母に八つ当たりします。食事ののったテーブルを、本当にひっくり返す父でした。でも、私をそりゃあかわいがってくれました。


 母は、父の住む、知らぬ町に嫁いできました。

短気な父の相手をし、姑が毎日遊びに来ては、何かともてなさなくてはいけませんでした。

母自身は裕福な家の出で、父と結婚し、少ない給料でやりくりするのは辛かったに違いありません。今にして思えば、母は孤独で、ストレスのはけ口がなかったのでしょう。


 両親の喧嘩は派手でした。たいがいお金のことでもめます。

毎夜大声で罵りあい、父は母を殴ったりしました。

喧嘩の無い日は、お互い口をききませんでした。母は父を無視し、そんなだから父はますます酒を飲んでは独り言でぶつぶつ文句を言っていました。


 私は幼い頃から両親が仲良く笑い合っている姿を見たことがありません。そして、よく腹痛と嘔吐を繰り返しました。当時からストレスに耐えきれなかったのだと思います。


 母は、「あなたは体が弱い子なのよ」と言い、よく学校を休ませました。友達と遊んだり、外に行くことも禁止されました。ひたすら母のそばにいることを求められていたように思います。


 両親の喧嘩の次の日、よく母から愚痴をきかされました。ちなみに私は幼稚園も保育園も行っていません。理由は「貧乏だから」だそうです。でも、どうやら母が私を自分のそばにおいておきたかったようです。


 母は、父がいかに酷い人間かを泣きながら私に訴えました。私は遊びに行きたくても母がかわいそうで行けませんでした。第一母自身、

「あなたはこんな不幸なお母さんをおいて、一人だけ楽しむつもりなんて、酷い子だ」

と言います。そして父の悪口を私に聞かせているうちにエスカレートし、

「あなたはお父さんとそっくりね。あなたはお父さんの方が好きなんだから、二人で暮らしなさい。お母さんは出て行く」

「離婚したくても出来ないのは、あなたがいるから。お母さんは犠牲になるしかないのよ」

この二つが決まり文句でした。


 私は毎晩、父が帰宅するたびに喧嘩にならないか、びくびくして暮らしていました。

喧嘩も恐ろしかったけれど、喧嘩のあと、母から責められることの方が辛かったのです。

何度も言いますが、母は私を「体の弱い子」と称し、友達と遊びに行くことを、ほとんど禁じていました。そうして父の悪口を延々聞かせ、なぜだか

「そもそも喧嘩の原因は、あなたなのよ」

と言いだし、にもかかわらず

「お母さんほどあなたを大事に育てている人はいない。あなたとお母さんは、一心同体なのよ」

と、言っていました。


 母は手こそあげなかったけれど、私を脅して操作していました。

私が父と楽しげに話をすると、次の日は無視をされました。責められることが辛いなら、無視はもっと辛いのです。何せ私は一人っ子です。家の中で母と二人きりの状態で無視をされたら、どれほど気まずいか。だから何度も

「お母さんごめんね。私はこの世でお母さんが一番好き」

と言わなければいけせんでした。それでもなかなか母の機嫌は治らず、

「お母さんは出て行く。あなたが学校に行っている間、いなくなっているかもしれない」

と良く言いました。私はその都度

「お母さん、どこにも行かないで。私も一緒に連れて行って」

と懇願していました。そのときの母は、どこか嬉しそうに見えました。

ちなみに母が家から出て行った試しはまったくありません。


 母は、私の細かいところも思い通りにしたがりました。髪型、服装、行動、成績。特に髪型は

「色気づいて、男とつきあっても困る」

と言い、刈り上げにさせられました。服装も母が買ってきた物しか着てはいけないことになっていました。部活動は禁止。成績は良くなければ責められました。

 思春期の私にとって、見た目は重要で、髪型のことでは学校でよくからかわれました。髪を伸ばして良くなったのは、高校生からです。


 部活に関しては、私は演劇部に入りたかったのですが、却下されました。学校帰り、男女一緒に学生が集まって帰ると、ろくなことをしない、不良になるというのです。また、成績にも影響するというのも理由の一つでした。けれど、ほとんど毎晩夫婦喧嘩をしていて、貧乏な我が家には自分の部屋など無く、茶の間に勉強机の置いてある環境で、どう勉強に集中しろと言うのでしょう。それでも成績が下がると怒られるので、喧嘩の合間に必死になって勉強はしました。結果、高校は地域で2番目のレベルのところになんとか入ることが出来ました。それでも母は、1番の高校じゃなかったことを、私に酷く責めました。


 それでも私は母が好きだと自分で信じていました。母が私にいろいろ干渉するのは、私のことを考えてくれているからだと思っていました。


 私が中3の頃から母は、生命保険会社で働き始めました。そうなると、急に干渉しなくなりました。お金も増え、社会に出ることで、母は生き生きとし、夫婦喧嘩も減りました。私が父と仲良く会話しても、母は焼きもちをやかないから、父との会話も増え、父も機嫌が良くなりました。夫婦喧嘩は激減したおかげで私は勉強に集中出来たので、なんとかそれなりのレベルの高校に入学できたんだと思います。それでも母にとっては不満でしたが。けれど、それはつかの間の幸せでした。


 事態が急展開したのは私が高1の中くらいの頃。母は父が寝たあと、夜に出かけるようになりました。さらに「お母さんはいますか」という電話が頻繁にかかってくるようになりました。母に訳を聞いたところ、同僚の借金の保証人になり、同僚は逃げたと言います。母は父に黙っていて欲しいと言います。夜出かけるのは、借金の工面の話し合いに行くのだと言います。私は母の言うとおりにし、夜は電話線を抜きました。母の布団の中に座布団を丸めて入れてふくらませ、頭のところにボールを置き、かつらをかぶせました。酒に酔っている父には、何とかばれずにずみました。それでもいつばれるかと思うと、びくびくしていました。

 

 忘れもしない、ロサンゼルスオリンピックのマラソン中継を父と見ていたとき、電報が届きました。父が受け取り、中を開けてしまいました。借金の督促状です。この時点で借金は500万円になっていました。一年隠していただけで、3倍までふくれあがっていたらしいのです。この時初めて母が父に土下座して謝る姿を見ました。私は泣きながら一緒に父に謝りました。


 その後、父は会社の上司に相談し、借金の一括化をはかったようでした。母は何十社からも借金していたのです。そして父は、当時募集していた季節労働者として、名古屋に出稼ぎに行きました。その方がお金になるのと、父が言うには母の顔を見ると、責めたくなってしまうからだと言いました。


 ところが、母の借金はこれだけではなかったのです。個人の高利貸しから、いくつも借りていたのです。なぜわかったかというと、私が学校帰り、不振な男にあとをつけられたり、夜、金を払えと、いかにもな男達が、家まで押しかけてくるようになったからです。なので夜は電気を消し、押し入れに入って懐中電灯で食事をとったりしました。食事と言っても塩おにぎり一個。父から生活費として送られてくるお金は、借金返済に使われていました。また、トイレに行くときなど、窓に人影がうつらないよう、窓に毛布を貼り付けたりしました。高校へはバスで通っていたのですが、定期を買うお金が無く、2時間の徒歩通学になりました。昼食の弁当は、100円の菓子パンになりました。


 父が名古屋から一時帰宅しました。その日、母はいませんでした。父は私に母がどこへ行ったか問いましたがわからないと答えました。実際本当に知りませんでしたが、てっきり借金の工面に走り回っているかと思っていました。それでも父は、久しぶりの北海道に帰ってきたので機嫌が良く、夜ご飯の支度をしようと私に言い、鍋の用意を始め、母の帰りを待ちました。けれど、いくら待っても母は帰ってきません。


 電話がかかってきました。もしかすると借金取りかもしれないと思いましたが、私はもうこれ以上父に隠したくなかったので、父が電話に出るのを黙って見ていました。電話に出た父は、みるみる形相が変わり、「出かけてくる」と言って、駈けだしていきました。


 3時間くらいたった頃、鬼のような形相の父と、しょんぼりした母が帰ってきました。二人とも無言でした。一言も会話をかわすこともなく、食事を終えました。私は母に、何があったのかきいたのですが、教えてくれませんでした。


 私は成績ががっくり落ちました。入学時300人中7番の成績だったのが、280番くらいまで落ちました。それでも私はなんとしても進学したかったので、学費の安い、看護学校を選び、父に相談しました。父は考えたあげく、長年勤めた会社を退職し、その退職金で私の3年間の学費と生活費をまかなうことにしてくれました。そして両親は別の町に引っ越し、二人で新たに働き始めました。


 時は流れ、私は就職、結婚、出産を経て、うつ病になりました。このときは仕事が原因だと思っていたのですが、なかなか症状が良くならず、原因を突き止めそれを解決すれば、うつは良くなるのではないかと考えた私は、過去の記憶をたどりました。ふと、そういえば父が名古屋から帰ってきたあの日、何があったのか気になりました。それで父を家に呼び、あの日、何があったのか、尋ねました。


 母は・・・万引きの常習犯でした。あの日、店から警察に引き渡された母を、父が迎えに行ったのだそうです。この話を聞いたとき、私は32歳でしたが、その年でもまだ母の言いなりだったのです。母の気に入った人と見合い結婚をし、母の家の近所に住み、私が働いている間、孫である私の娘を母に預け・・・すべて母の思い通りに事は進んでいました。ですが、母が万引きをしていた話を聞いた瞬間、私の心はがらがら崩れ落ちました。母を信じていたのです。それはまるで新興宗教の教祖のような信じ方でした。


 この日から、私は母を激しく憎みました。母を罵倒し、それでも憎しみは消えず、夫に頼み、引っ越しました。以後3年間、母との接触を避けることになりました。~



 この日も長いブログですね。おそらくこの日、39歳になった時点でも、うつ病になった原因探しをしていたんでしょう。

 久々に昔のことを思い出して、落ち込んでしまいました。


 

















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