CDO8
マドカの手の中で手形が突然煙を上げる。だが一瞬火の手で手形が包まれたかと思うとすぐに鎮火した。手形の表面が真っ黒になっている。焦げた匂いが辺り一面に漂う。
「何だ?」
光助は目の前で突然上がった黒煙に目をしばたたかせた。
「あら焦げついちゃった。困ったわね。でも、振出人から取り立てられないのなら、やるべきことは一つね。業務連絡しなくっちゃ」
マドカがさして困ったようには思えない口調で言った
「えっ、何? 何が起こったの、蓮華?」
魔優子がマドカの手元と、蓮華を慌てて交互に見る。何が起こったのか分からないようだ。蓮華なら説明してくれると思ったのだろう。
「不良債券化したのよ。魔優子ちゃん。英里奈さんの手形が焦げついたの」
「どういうこと?」
「英里奈さんの思いに、光助くんは応えないってことよ」
「そ、それじゃあ!」
魔優子は驚きと期待に眉を上げて光助を見る。光助も魔優子を見ていた。
「ななな、何だよ!」
「そ、そっちこそ! ななな、何よ!」
耳まで真っ赤な光助に、期待のこもった眼差しの魔優子。二人して言葉に詰まり合った。
「魔優子ちゃん! 皆! 飛ぶよ!」
魔優子に元気が戻ってきた。それを好機と見たのか蓮華が叫ぶ。
蓮華が先頭を切って宙に浮き始めた。少し遅れて千佳の体が浮く。魔優子と柚希菜が続いた。通行人がその様子にどよめいた。
先に宙に浮き始めた千佳をあっという間に追い越し、魔優子は蓮華の高さに追いついた。
「お先ッス!」
反応こそは早かった千佳。だがその飛び方は何処から見ても力ない。なかなか高度の上がらない千佳の横を、柚希菜がニヤニヤしながら追い越した。
「後で、殴ってやる……」
千佳は空中でじたばたしながら拳を握る。
「ホント、千佳ッチはキューピッドの力が苦手ッスね」
「うるさい!」
「恥ずかしいからって、暴力的になるのはどうかと思うッスよ!」
「黙れ!」
「さて。振出人からは回収不能と…… 割引依頼人――苅田英里奈から回収しないとね」
マドカが不敵に笑う。それはそれで楽しそうだった。
キューピッドがマドカ達と同じ高さまで上がってくる。
「な、何よ! もとより間違いなんでしょ? 無効よ! あきらめなさいよ!」
魔優子が叫ぶ。少し調子が戻ってきたようだ。
「何言ってんの眉毛ちゃん? 私達は間違いで発行されたなんて知らない『善意の第三者』なのよ。こういう時の為にちゃんと『裏書き』してもらってるんだから。『焦げついた場合は買い戻します』っていう定約書もあるしね。『買戻しの義務』を履行してもらうわ」
「『善意の第三者』? 『裏書き』? 『買戻しの義務』? て、言うか…… さっきから『眉毛ちゃん』って何よ!」
「私達はこれが間違いで発行されたなんて知らなかった。あくまで正当なものとして譲り受けた。悪意のない『善意の第三者』ってことよ。手形の形式が整っていれば、それはどんなに間に不正があっても有効なの。不正を知らずに手に入れた第三者には、正当なものとして扱う権利があるのよ。手形を振り出した人に、義務を履行してもらうようにする権利があるの。そうしとかないと、手形というシステムが成り立たないもの! 善意の第三者が損するもの!」
マドカは『眉毛ちゃん』への抗議をあっさり無視し、はしゃぐように説明を続ける。
「悪意がないというだけで『善意の第三者』。それも私達魔族に適用されるのよ! 皮肉よね! 楽しいわ!」
「蓮華……」
魔優子は困ったように眉を寄せ蓮華を見た。
「……」
蓮華が黙っている。否定できないのだろう。
「そして手形が焦げついたら、裏書きをしている割引依頼人に買い戻してもらうのよ。裏書きはこの場合、保証の為の一筆みたいなものね。保証の為の一筆を入れて約束しているから、買い戻しの義務があるのよ。だから割引依頼人の苅田英里奈に買い戻してもらえさえすれば、私達は困らないわ。まあ、先に手に入れた幸せを使ってなければね――」
マドカは得意げにキューピッドを見回す。そして一度言葉を区切った。
「少しでも使っていて買い戻し切れないなら…… 楽しみだわ……」
マドカは一転して邪悪な笑顔を浮かべて言った。
「私達魔族は経験上知っているわ。実現まで待ち切れなくて、多少損をしてでも幸せを手に入れるのが手形割引よ。依頼人は切羽詰まっていたり、自分の欲に負けた人間。手に入れた幸せを味わっていないはずがない。だから買い戻しできる人間は少ないの」
マドカはその経験上のことを思い出しているのか嗜虐的な笑みを隠しもせずに続ける。
「取り立てって楽しいのよ。泣いて許しを請う時の顔ったらありゃしないのよ。どんなに日頃いい娘ちゃんぶっててもダメ。人間の弱さが出るの。醜いのよ。汚いのよ。浅ましいのよ……」
マドカは身震いした。歓喜の身震いだ。
「悲壮。絶望。負の感情…… あぁ、魔族稼業様々だわ。ゾクゾクしてきちゃった。ねぇキューピッドなんか辞めて、私達と一緒に追い込みにいかない? はまること請け合いよ。人間の壊れるところ見てみたくない?」
マドカは恍惚として続ける。
「ななな……」
その様を間近で見ている光助は、そのあまりに邪悪な笑みに身震いを禁じ得ない。
「黙れ!」
千佳が不快感も露に叫んだ。
「何で? 人間の弱さこそ魔族の喜びよ。その喜びに浸って何が悪いの? まぁ、もう別働隊が彼女の下にいってるんだけどね。残念だわ。女の子からの取り立てって格別なのよね。ああ、思念送っとかなくっちゃ。回収よろしく!」
「そんな。苅田さんが……」
「人のこと心配している余裕があるの? 眉毛ちゃん?」
「そんなことさせないわ!」
魔優子が力を込めて弓を握る。
女魔族は蔑んだ笑みでそんな魔優子を見た。
「人間が憎悪を私達に向ける。それ自体が私達魔族にとっては喜びよ。憎しみで世を覆うのが魔族の使命だもの。憎しみの対象自体が、私達魔族でもまるで構わないわ。むしろ嬉しい程よ。ありがとう眉毛ちゃん」
「な……」
「大丈夫。落ち着いて、魔優子ちゃん。あの魔族が話しているのは、支払えなった時の話よ。英里奈さんはまだまだ若いわ。いくらでも幸せを掴むことができるわ」
熱くなりかけた魔優子に、蓮華が諭すように言った。
「それに向こうには加奈子と唯がいるわ。大丈夫よ」
蓮華が力強く続ける。
「蓮華? あたしよ。加奈子よ。苅田英里奈さんは無事保護したわ」
その加奈子の思念が魔優子達の脳裏に届く。
「間に合った?」
魔優子が訊いた。自分の脳裏で思い浮かべるだけで、那奈が中継してくれて相手に届くと聞いていたが、慣れないので思わず声にも出してしまうようだ。
「間一髪よ…… あたしのムチの方が速かったわ…… たまには女の子を縛るのも、いいものね……」
思念の中だというのに加奈子の声は息が荒いようだ。それだけ余裕がなかったのだろう。
「歓喜! 魔族は撤退した! 歓喜!」
唯が思念に割り込んでくる。普段からは想像もつかない、嬉しそうな思念だった。
「男の魔族が一人そっちにいったわ。あたし達はもう少しこっちで様子を見るから」
加奈子の思念が落ち着いた。当面の危機は去ったと、やっと安堵できたのだろう。
「英里奈さんはどう? 状況を説明してあげてね。魔族の追い込みを追い払っても、債務そのものは消えていないわ。英里奈さん自身の環境はまだ予断を許さないからね」
蓮華が思念だけで加奈子に呼びかける。目の前の女魔族に情報を渡さない為にか、思念の中だけで話し口には出さなかった。
「……」
マドカは魔優子の『間に合った?』の言葉の意味を考えているようだ。
「確信! この人モテモテ! 取り立てられても問題ない! 確信!」
唯の思念から喜びが漏れて伝わってくる。日頃は出てこないだけで、込めているはずの『!』『?』が溢れ出る。それは思いを直接つなぐ思念が直に感情を伝えるからだ。
唯は本当は日頃から全力で感情を込めて話している。それでも顔や仕草に出ないのだ。そのことが、唯の内面の感情が、不器用と言うタガが外された思念ではよく分かった。
「債務分は持っていかれちゃったけど、本人は大丈夫よ。安心して」
「そう…… 気をつけてね」
蓮華がマドカを見た。後はこちらの問題だけだ。
「チッ……」
マドカが舌打ちをした。魔優子の言葉と蓮華の視線。別動部隊は失敗した――それを悟ったのだろう。
「キャーッ!」
思念を終わらせようとする蓮華と魔優子の頭の中で、加奈子の悲鳴が響いた。
「何?」
魔優子はやっぱり声に出して問いかけてしまう。
「ゴメン驚かして…… この娘…… 英里奈さがん急に抱きついてきて」
「へっ? 何で? 何で苅田さんが抱きつくの?」
魔優子がこれでもかと眉をひそめた。
「興奮! 『お姉様』とか言ってる! 懐かれた! 興奮!」
「そう…… 気をつけてね。まあ、色々な意味で……」
蓮華が最後にもう一度思念でそう伝えた。