SIV7
「天使の輪の使い方は分かった? 魔優子ちゃん?」
事務所への帰り道に蓮華が魔優子に訊いた。
人通りもそれなりにある街路を、四人のキューピッドが連なって歩く。
小百合とは公園を出てすぐ別れた。高次が公園に一人取り残された。
小百合は何の未練もないかのように、後ろを振り向きもせずに帰っていってしまった。仕方がないので魔優子達も会社に戻ることにしたのだ。
「だいたいかな? この輪で魔族を縛るんでしょ?」
魔優子が自分の頭の上に浮く天使の輪を触りながら言った。
「宙に浮いてるのも、何の仕かけもなさそうなのに光っているのも、不思議で仕方がないけど」
「天使の矢も、輪も、羽も、人の正の感情でできているわ。これが魔族にとっては嫌なの」
「ふーん」
「矢は人の感情の真っ直ぐさを象徴しているの。永遠性の象徴が輪ね。羽は可能性ね。矢に込められた力は、その特性からして瞬間的な力として現れるわ。力の強い分、一瞬の力としてね。輪に込められた力は永続的な力として現れるの。力の弱い分、持続する力としてね」
「弱いって…… それで魔族が縛れるの?」
「矢に比べれば弱いってだけだよ。それに輪は囲んじゃうからね。弱くても持久力のある方がいいの。まあ、絶対的な力の差があったら負けちゃうけど、それは仕方がないよ」
「あら蓮華。私は絶対的に縛りつけてみせるわ」
加奈子が上機嫌で割って入る。ハスキーな声と甘い香りが、皆の耳と鼻孔をくすぐった。
「期待してるわ加奈子。魔優子ちゃんも相手を縛りつける強い意志を持ってね。『ちゃんとつかまえていたい』って思わないと、逃げられちゃうからね。例えば――」
蓮華は天使の輪を外して右手の人差し指でくるくると回してみせた。一匹の鳩に目が止まる。電線に止まっていた。
「えいっ!」
蓮華が軽く気勢を上げると鳩めがけて輪を放った。
驚いて飛び上がる鳩の後を追うように弧を描いて光の輪が飛ぶ。輪が鳩に当たる瞬間、輪は光り輝いて輪郭がぼやけ、鳩を取り囲んだ。
輪は鳩をその内側に捉えると一気に縮まる。鳩は空中で羽ごと胴体を捕らえられた。
天使の輪で締めつけられ、鳩は身動きも取れずに落ちてくる。
「きゃっ!」
魔優子が悲鳴を上げ、蓮華が左手の指を鳴らした。
その瞬間光の輪はその場で消えて、蓮華の右手に現れた。
「もう! いたずらしちゃだめでしょ……」
魔優子が地面すれすれで自由を取り戻し、羽ばたき始めた鳩を見て安堵のため息をついた。
「いいのよ『いつでも好きな時に飛べる』――なんてことないって、知っておくべきだよ」
「あのね……」
「あと、輪は継続して力を保持しているから、これを頭の上に乗せておくことで、魔族はうかつにキューピッドに手を出せなくなるんだよ。頭の上につけたまま、全身をまんべんなく守るもよし。腕につけ替えて、ピンポイントで守るもよし。状況次第ね。そして輪の力で身を守りつつ、羽で敵の攻撃を避けるの。それから矢で敵の力を削いで身の危険を減らし、最後に輪で縛りつけるって感じだね」
「ふーん。できればそんな大活劇はしなくて済みたいわ」
「自信。魔優子なら大丈夫。自信」
「え? そう? あ、ありがとう…… でも根拠は?」
「確信。ない。確信」
「はは。適当なのね」
「私も期待しているわ」
蓮華がクスクス笑いながら魔優子と唯の会話に割って入る。
「てか、そもそも魔族ってのは何がしたいのよ? 名前からして、もっとおどろおどろしい存在じゃないの? 何か想像していたのと、違うんだけど。何で人の恋愛に口出してくるのよ?」
キューピッドの姿で四人が街を歩く。道行く人が時折――特にいき違ってから振り返った。
その恥ずかしさをごまかす為にか、魔優子は疑問に思ったことを次々と口に出しているようだ。話し続けていないと自分の姿を必要以上に意識してしまうのだろう。
「魔族の目的は人の感情を害することだよ。いい感情が人の世を覆うのを嫌うんだよね。そうだね。まずはデビレを狙ってくることが多いかな」
蓮華が軽くスキップを踏みながら答える。
「こういうステップでスキップを踏むと、背中の羽が一番可愛く揺れるのよね」
「羨望。私もやる。羨望」
後ろからついて歩いていた唯が、その蓮華に対抗心を燃やしたのかスキップを踏んだ。
だが本人はスキップのつもりのようだが、一定時間ごとに飛び上がっているようにしか見えない。
「あはは! 可愛い! 唯!」
唯の様子を見て、加奈子がおかしそうに笑った。
「デビレ? 何かこのバイトにかかわってから、知らない単語ばかり聞かされるんだけど? 何か違う世界に迷い込んだみたいよ」
「デビレは、デビレーションのことだよ。人の間にいい感情が交わされなくなる状態だよ」
蓮華が一度クルリと振り返った。
「?」
「予想通りだね。分からないって顔しているわ、魔優子ちゃん。眉間にシワが寄りまくりだよ」
「眉は放っときなさいよ。今はデビレの話」
「そうね、こう考えて。どんなものでも、出回っている量が少なくなれば、人間は自分の手持ちを使いたくなくなる。一度出ていって次に手に入らないと思えば、なかなか手放したくなる。お小遣いが少なくなれば節約するし、期間限定のお菓子が最後の一袋なら大事に食べるでしょ? あの状態。人間の悲しい習性だよね。でね、これが感情面で起こった状態が『デビレ』。愛情でも何でもそうだよね? 皆がいい感情を心の奥底に閉まってしまい、人の間をいききしなくなる状態ってあるよね。いわゆる空気が悪いっての? あれが近いかな? 愛情の出し惜しみ。少しの感情で物事を済ませようする冷えきった関係って嫌でしょ? 私達はその状態をデビレーション――デビレって呼んでるんだよ」
「ふーん。蓮華って、何でも知ってるね」
「あはは、そう? それ程でもないよ。それでね、デビレの話。少しの愛情でより多くの見返りがもらえるようになったら、次はもっと元手をかけずにいい思いができるかもしれない――人間って、そう思うようになるでしょ? 少し待てばそれだけ、少ない愛情で同じ見返りが手に入るからね。そうなれば見返りの価値を下げてでも、愛情を手に入れたくなる。少なくなる一方の出回る愛情。下がる一方の見返りの価値。こうなるとお互いがお互いを、スパイラル状に下げあうようになる。これがデビレが更に進んだ状態。デビレスパイラルよ」
「分かんないわ」
魔優子の眉間のシワは、ますます深くなる。
「デビレスパイラルは一度なると厄介なんだよ。一度始まるとなかなか抜け出せないの。魔族が狙っているのはこれなんだよね。そう、愛情の出し惜しみによる信愛収縮に、デビレーション――魔族はあなた達人間。もとい私達人間に仇なすことを願い、実現しようとしているんだよ」
蓮華はチラッと振り返って魔優子を見た。魔優子は眉間にシワを寄せてうつむき、何やら考えているようだ。
「で、その魔族から皆を守るのが、私達キューピッドの仕事って訳ね、蓮華――キャーッ! 可愛い!」
不意に顔を上げた魔優子が自身の言葉の途中で喚声を上げる。
「何? 魔優子ちゃん?」
「蓮華! 見て見て! このアクセ! 可愛い!」
蓮華が振りかえると、魔優子は通りがかったお店のショーウインドウにかぶりついてしまう。
「同感。可愛い。同感」
「あら、確かに。可愛いわね」
唯と加奈子が魔優子に続いた。そこはアクセサリーを扱う小物のお店だった。キラリと光るアクセサリー類が魔優子達の瞳を輝かせた。
「キャーッ! 何これ! 可愛さも、値段も、反則級よ! 誰か買って!」
喚声とも悲鳴ともつかない嬌声をあげて、魔優子はお店ショーウインドウを覗きながら横に移動する。
「誰かって? 何言ってるの、魔優子ちゃん? 買って欲しい人がいるくせに!」
「――ッ! ななな、何を言って! 蓮華はいつもいつも、何の根拠があって! それにあいつがこんなおしゃれなお店に入れる訳ないじゃない! 似合わないし、気後れして、店に近づくだけで至難の業よ! あのヘタレには!」
「私は誰とは言ってないのに、随分と具体的だね、魔優子ちゃん」
「ななな! わ、私だって、誰とは言って――キャーッ!」
魔優子が何かにぶつかり更なる悲鳴を上げた。
「忙しいわね、魔優子ちゃん」
「ごめんなさい! あっ、この間の猫の着ぐるみさん」
そう、ぶつかったのはいつぞやの猫の着ぐるみだった。猫の着ぐるみはやはりチラシを手に通行人に愛想を振りまいていた。
「……」
その猫の着ぐるみが驚いたように身を退いた。愛想のいい巨大な顔をのけぞらし、我が身を隠すように肩肘を前に出して半歩後ろにしりぞいた。
「?」
魔優子はそんな反応をされる理由がよく分からないのだろう。小首を傾げてその着ぐるみに視線を送った。
着ぐるみは宣伝が仕事のようだ。アイスクリームからアクセサリーのチラシに持ち替え、今日も猫の着ぐるみは愛想を振りまいていたようだ。
「ごめんなさい。痛かったですか? この間の方ですよね? 今日はこのお店の宣伝なんですか?」
「……」
猫の着ぐるみが慌てたように何度も頷いた。何かを誤魔化すかのように、猫の着ぐるみは魔優子の手にチラシを押しつけた。
「へぇ。少しはお安くなってるんですね。でも、私じゃバイト代が出ても、なかなか手が出ないです。でも見てるだけで楽しいんで、見てていいですか?」
魔優子はそう告げると、加奈子と唯の隣に戻りショーウインドウに釘づけになる仕事に戻ってしまう。
「あはは、皆で占拠してたら、お店の迷惑だよ、魔優子ちゃん」
そんな三人に参加せず、蓮華がその後ろで笑った。
そして蓮華の笑みは無邪気なものから、すっと深刻なものにと変わっていく。
その様はショーウインドウを覗く少女三人には気づかれなかった。
「……デビレに信愛収縮。それにそれが更に進んだ信愛危機――キューピッドクライシス…… いろいろと心配事はあるけど、難しく考える必要なんてないよね」
蓮華がショーウインドウのアクセサリーに魅入る魔優子達の横顔を眺めた。その声は何処か大人びている。
「そうよ、何て言うか――」
キューピッドの格好をした少女達を見守る蓮華。それは同級生の視線というよりは、その保護者のような温かい視線だった。
「恋せよ乙女! ってことかな!」
蓮華が嬉しそうに一人でそう頷くと、
「……」
猫の着ぐるみが魔優子の横顔だけをジッと見つめた。