SIV3
「ところでCDSが、も一つ私にはよく分からないんだけど?」
一通り修羅場に関する意見を根掘り葉掘り訊かれ、魔優子はやっと話題をそらすことができた。
愛由美は世間一般の興味からか。蓮華はどうにも魔優子自身に対する興味からか。執拗なまでに浮気や三角関係に関して魔優子を質問攻めにした。
元より狭い事務所内。魔優子は真っ赤になって答え、ようやく次の話題を持ち出すことができたのだ。
「マユはこれだから」
愛由美がSIV案件の話題の興奮冷めやらぬ様子で呆れてみせる。
「愛由美も分かってて言ってるっての?」
魔優子の眉が疑問の為か中央に寄る。はやり魔優子の感情は眉がよく表すようだ。
「ギャンブルみたいなもんでしょ? 愛由美ちゃんの取材メモには、そう記されているわ」
「そうね。ただのギャンブルだって言う人もいるわね」
蓮華はそこまで言うと魔優子と愛由美と那奈を交互に見た。
「ちゃんとした、恋愛工学に基づいて計算してるって前に聞いたけど。CDSは数学の確率論に基づいてるんでしょ?」
魔優子が眉間に皺を寄せて己の記憶と格闘するように口を開いた。
「そうだよ――」
その様子に満足げに頷いて、蓮華は大きく息を吸って話を続ける。
「それがCDSだよ。破綻リスクに備える為に、そのリスクを計算しておくんだよ。そしてこれを証券化して販売するの。生命保険とか損害保険とかを思い出してね。かけ金を払っておけば、万が一の場合損害が補償されるでしょ? 損害が出て困る人は、その保険にかけ金を支払って万一に備えるじゃない? あんな感じだよね。生命保険なら怪我とか入院とかのリスクに対してかけ金を払う。損害保険なら事故とか火事などのリスクに備えてかけ金を払う。そして万が一の場合は保険会社が補償してくれる。安心を買うっていう感じだよね」
蓮華はここまで一息に説明して魔優子達を見た。
魔優子は分からないといった感じで眉間に皺を寄せていた。愛由美は分からないけどそれが何といった感じで不敵な笑みを浮かべている。那奈は本気で困った顔をしていた。
「で、CDSの場合は破綻がリスク対象なんだよ。でね、破綻するかもしれないから一種の保証金。この場合はお金とはちょっと違うんだけど、まぁ保証金――かけ金みたいなものだと思っていてね。その保証金を支払って万が一破綻した場合に、支払っていた分だけ補償が受けられるように備えるって訳だよ」
「でも蓮華さん。保証金って、感情だって聞きましたけど?」
黙って聞いていた那奈が遠慮がちに口を開いた。
「そうだよ、那奈。人々の持ついい感情。即ちの正の心を少し分けてもらうんだよ。そして恋に破れた人の為に、いざという時にその優しい思いを分けて上げるの。保険っぽいでしよ? でね。その保険が今、大変なことになっているの」
魔優子達三人の頭上にはてなマークが浮かんでいる。そんな風に見える顔に満足げに笑みを向け蓮華は説明を続けた。
「本来恋愛している本人が、万が一の為にかける保険だったんだけど、実は証券化されているから、本人以外も買えるんだよね。この保険」
「本人以外?」
「そうだよ、魔優子ちゃん」
「証券化って、株とかの話よね? 失恋の保険でしょ? 何で他人が買えるのよ? てか、買ってどうするのよ?」
「いい質問だね、魔優子ちゃん。でも金融だって証券化は、お金に換えることができる権利を書面化したものでしょ? 言わば行為を書面化したものじゃない。だから感情のやり取りも行為である以上、恋愛債券が証券化されていても何の不思議もないでしょ? キューピッドデリバティブの場合はね、愛情とか思いやりとか、人の感情に換えることを権利にするの。書面化されているが故に、いくらでも刷ることが可能だから、保証金を支払う人と補償金目当てで保証を請け負う人がいれば契約が成り立つわ。それは本人でなくてもいいの。証券化は流動化とも言うぐらいだしね。こうやって権利が人の間を流動するのよ」
「他人の恋愛でしょ? やっぱ何か変だよ」
魔優子の眉がこれでもかと中央に寄った。
「競馬もトトカルチョも、馬や選手がお金をやり取りする訳ではないでしょ? 馬が一着になるかどうか、その試合にどちらが勝つか、そういう賭けは第三者でも成り立つ。そう考えれば第三者による保険契約の成立は、それほど不思議なことでもないよ」
「分かんないわ。てか、分かりたくないわ」
「そう、魔優子ちゃん? でもこれだけは覚えていてね。破綻に備えた保険とはいえ、バタバタ一度に破綻されても困るんだよ。システムの一カ所に想定以上に一度に負荷がかかったら、どんなシステムでも耐えられないでしょ? システマティックリスクってやつだよ。それに本来は、少なくとも一定数以上は破綻しないことを前提に、設計された保険だったしね。だけど、最近のサブブライドローン問題ってのを端に発した、全世界規模の『信愛収縮』――キューピッドクランチって問題が発生していてね。どんな小さな案件でも簡単に破綻してもらっては困るんだよね。だからキューピッドの仕事がとても重要なの。分かった? 魔優子ちゃん」
「はぁ…… 分かる? 愛由美」
「ぐう……」
「寝た振りしてんじゃないわよ! 那奈は?」
「分かんないです……」
「だよね。でも、蓮華。これって対象は恋の破綻なんだよね? そんな不確実なものを保険の対象にしていいの?」
「いいことに気づいたわね、魔優子ちゃん。そうなんだよ。最初は上手くいっていたんだよ。そして他人がかけることもできたら、実体恋愛の何倍にも虚業とでも言うべきこの恋愛工学上の市場が形成されてしまったの」
「むむ。他人の恋愛に保険をかけるとは、寝起きの愛由美ちゃんでもびっくりよ」
「寝た振りしてただけでしょ?」
「あはは。でも、計算高い人達には大人気だったわ。それでね、キューピッドデリバティブ市場はバブルとでも言うべき状況になったの。特にサブブライドローン――」
蓮華はそこまで説明すると近くにあったホワイトボードに何やら書き込んだ。
サブ =一層下の(つまりできなさそうな)
ブライド=結婚願望(がそれでもある人向けの)
ローン =感情融資
「こんな感じの意味ね。これは誰でもお気軽に感情を借りられるシステムでね。これが立ちゆかなくなった時、世界を巻き込む程の大問題になったわ」
「感情を借りるって、何よ?」
「文字通り勢いや、気持ちの高ぶりのような、正の感情を借りて自分の力にするんだよ、魔優子ちゃん」
「はぁ?」
魔優子の眉がこれでもかと疑問に曲げられた。
「CDSが破綻時の補償なら、サブブライドローンは高嶺の花を落とす為の借り入れ資金」
「ええっ!」
「憧れのあの娘を落としたい。この気持ちは本物なのに、だけど僕には勇気や自信がない。誰か僕に力を――ってのは昔からあるでしょ?」
「そうだけど」
「だから、貸してあげるのよ。勇気を! 自信を! 勢いを!」
「何嬉しそうに話してるのよ?」
「だって、人間って可愛いわ。『何処までも幸せになれる』なんて夢見ちゃって。それが人間のいいところでもあるんだけどね。でも、今回は分不相応な幸せを求める人間にも、考えなしに貸しちゃったの。たいして調べもせずにね。それでね、結局問題化。サブブライドローン問題って言われる程、世界が右往左往したわ。この先々ローンが返せない人が増えちゃってね。バカよね。ホント、バカ。ああ、やっぱり人間って可愛いわ。バカな子程可愛いって本当ね。いつの時代も人間からは目が離せないわ」
「どうしたのよ? 蓮華、何だか変よ?」
「へっ?」
「人間人間って、蓮華だって人間じゃない? バカな子程可愛いって、何、神様みたいな目線で語ってるのよ?」
「えっ? ああ、そうね。私も人間ね。ちょっと調子に乗って、忘れてしまうところだったわ」
「何で忘れるのよ?」
「いいじゃない。それでね、一時は恋愛工学が世界を回しているような勢いだったわ。実体恋愛よりも、CDSの様な実体を何倍も膨らませた虚像とでも言うべき市場だけが膨らんでいったわ。で、サブブライドローン問題――サブプラ問題の爆発に端を発して、ついに恋愛工学のバブルは崩壊したの」
「何とかショックとか、世界同時不信とかニュースでやっていたやつですか? 確か恋愛工学の会社が潰れて、債券の連鎖的不良債権化が心配されたんですよね?」
那奈が遠慮がちに手を挙げた。
「そうよ、那奈」
「ハチ! この愛由美ちゃんより、ニュースに詳しいとは!」
「えっ? それ程でも…… てか、那奈です」
「愛由美は、ゴシックばかり追ってるからでしょ?」
「何を! 反論できないじゃない!」
「あはは、それでね。安易な借り入れは、安直な将来予想によって成り立っていたの。これはバブルではない。幸せは右肩上がりに増えるはずだ。だから将来返すべきローンがどんなに大きくても、何とか返せるはずだ。そんな風に誰もが考えてね。結局恋愛工学のバブルは弾け、世界はその緊急対策に走り回っているわ」
「ふぅーん。でも、やっぱりよく分からない。愛由美は?」
「ぐう……」
「また?」
「あはは。――ッ!」
笑っていた蓮華が不意に顔を曇らせた。
「さて、おしゃべりはそのぐらいにして。出かけるよ、魔優子ちゃん」
蓮華がにこやかに立ち上がる。
「えっ、何処に?」
「決まっているわ――修羅場よ」
蓮華はとてもいい笑顔で魔優子に答えた。