CDS9
「で、結局バイトって何だったんだ? 今日一日潰して何やってたんだ?」
その男子はカフェで何げなく口を開いた。おしゃれな店内のシックなテーブルの上に、これでもかとノート類が拡げられていた。
土曜の夕方。学校以外でわざわざ会ったカフェ。二人きりテーブル。
テーブルを囲んだ一方の女子――突抜魔優子はその状況に少々赤面しながら席に着いていた。
「何って…… ちょっと素敵な仕事かな……」
「素敵?」
「ま、ちょっとだけね……」
「ふーん」
男子が口を開く度に漂ってくるコーヒーの香り。それが魔優子の周囲を漂う。
「――ッ!」
魔優子の心臓が大きく一拍した。
一度相手の肺に入ったその香りが、今度は魔優子を包んでいるのだ。魔優子は鼻だけで大きく息を吸いながらも、それを悟られまいとするかのように視線をそらせた。
魔優子もその男子も鞄を脇に置き、向かい合うようにカフェのテーブルに着いていた。
「こ……」
「こ?」
言い淀んだ魔優子に男子は軽く身を乗り出す。
また香りが揺れた。勿論周囲の空気もだ。香りと軽い空気の流れが、確かにそこにその男子が居ることを魔優子に教える。
「ご、五條のバイトと変わらないわよ。上の言うこと聞いて、指示通りに仕事するだけよ」
「いや、まあ。このバイトマスター五條光助に、今更バイトの基本を教えて貰わなくってもいいけど」
五條光助と名乗った男子は、いたずらっ子のような笑みを浮かべる。
「五條は今、何のバイトしてるんだっけ?」
「えっ? 今? 今はあれだ、その。人々に夢を与える仕事だ」
「何よ、それ?」
「何でもいいだろ? 暑いけど、割のいいバイトだとだけ言っておこう。いろんなバイトをしたけどな、今のバイトは一番気に入ってるよ」
「ふーん。ま、家庭教師のバイトは、絶対にできないでしょうけどね」
魔優子はノート類で散らかしたテーブルの上に、僅かに隙間を作って己のカップを置いた。光助から漂ってくる香りと、全く同じ香りがそこから立ち上ってくる。
一言も触れないの――
魔優子はそうとでも言いたげに、揺れるカップの水面を見つめた。
カフェモカだ。しかもホット。七月も近いというのに、それは熱い湯気を立てている。
「そりゃそうだ。俺に家庭教師のバイトは無理だな」
「たく。いい加減、宿題ぐらい自分でしなさいよ」
魔優子はブツブツ言いながら、光助にノートを一つ差し出した。
「いいだろ? 小学校の時からの、恒例の行事じゃないか?」
「何で、恒例になってんのよ? 蓮華とかいつもからかうんだからね。ただの幼なじみなのに」
「何をからかわれるんだ?」
「――ッ! な、何でもないわよ!」
魔優子が一瞬で真っ赤になる。
「そうか? そうそう。そう言えばバイトって、クラスの吉祥院の紹介だよな?」
「そうよ…… 吉祥院蓮華さん……」
魔優子は赤くなった頬を誤魔化そうとしてか、小さくうつむいて光助に答えた。
「他のクラスの女子も誘って、何だか女子だけの怪しいバイトって。男子の噂になってるぞ」
光助は魔優子のノートを写し出した。
まるで写経だ。ノートを参考に問題を解いているのではなく、内容をそのまま移し替えている。この様子では誤字や間違いがあっても、そのまま写してしまうだろう。
「何で怪しいのよ? ラクシュミ株式会社っていう、蓮華の従姉さんの会社よ」
「内容は教えてくれないじゃないか? クラスの佐倉の奴も、眉っ娘に訊けばって教えてくれないし」
「誰が眉っ娘よ」
「はは。この程度で不機嫌とは。眉間に皺を寄せてると、早く老けるぞ」
「うるさい」
「怒るなよ。眉目秀麗な顔が台無しだぞ」
「――ッ! うるさい!」
「眉目秀麗は褒め言葉だ?」
「うるさい! 眉がどうのって言いたいだけでしょ?」
「この程度の揺さぶりに動揺するとは。もっと眉一つ動かさない落ち着きを――」
「う・る・さ・い」
魔優子はプイッと横向く。その動きにやはり空気が揺れた。魔優子の鼻孔を、辺りを漂う芳香がくすぐる。
いつものなんだけど――
と魔優子は小さく呟いた。
「何だって?」
「何でもない!」
「何怒ってんだよ」
「知らないわよ!」
魔優子が更に体を捻って、光助の視線から逃れようとする。
再度揺れた空気にあわせて鼻孔をくすぐるカフェモカの香り。それは五條光助と突抜魔優子の両方のカップから同時に漂ってくる。
魔優子はチラリと視線を戻した。これ程あからさまに同じ香りが漂ってくるのだ。この選択の意味を理解して欲しいのだろう。
少し悲しくなってきたのか、魔優子の顔に影が差す。憂いを帯びた表情だ。
そんな魔優子が視線を戻すと、光助は窓の外を眺めていた。
そしてその頬はかなり赤い。
えっ――
と呟き魔優子はその表情の意味を探ろうとする。二人きりのテーブル。自分から顔をそらす男子。その少々赤い横顔。
「――ッ!」
魔優子の心臓がもう一度大きく脈打った。
意識されているのかもしれない。やっと気づいたのかもしれない。
だが――
「どっち見てんのよ?」
そう、だが魔優子は光助の視線の先に、ある女子生徒を見つけてしまう。
「えっ? どっちって、左側かな?」
光助は顔の向きを戻さずに答える。
「へぇ? じゃあ、誰を見てんのよ?」
「えっ? 何の話だ?」
光助はまだ顔を正面に戻そうとしない。窓の向こうを眺めたまま、魔優子に生返事めいた返答をする。
「とぼけて。あれ、クラスの苅田英里奈さんよね?」
長い髪を左右に振りながら、見るからにスタイルのいい少女が背中を見せて去っていく。
「えっ? ああ、そうだな。苅田だな。どうしたんだろうな、こっちに家あんのかな。あいつもバイトか何かかな? はは」
光助が慌てたように口を開いた。乾いた笑いすら漏らす。
その頬はまだ赤い――
「顔真っ赤じゃない? 苅田さん、美人だものね」
魔優子はその赤い頬をムッとしながら睨みつけた。一度は自分の為に赤らめたと思ってしまった頬だ。
何のことはない。外をいくクラスメートに鼻の下を伸ばしていたのだ。その去りゆく背中からすら、スタイルのよさが分かる学校でも屈指の美人に見とれていたのだ。この幼なじみは。
「何言ってんだよ!」
「知らないの? 苅田さん、美人だって他のクラスでも話題なんだからね」
「し、知らねえよ! そんな赤い顔してるか、俺?」
「真っ赤よ」
「空調効いてないんじゃないのか? それか照明のせいだろ? 俺はいつも通りだって!」
「慌てちゃって。何かやましいことでもあるの?」
「別に! 何でもねえよ!」
「ホントに?」
「本当だって! 強いて言えば、この宿題! 急がないとな! まさに眉を焦がさんばかりの急ぎの課題! そう! 人それを焦眉の急と呼――」
「うるさい! 眉眉言うな!」
魔優子が怒りに任せて席を立ち、拡げていたノート類を己のカバンに放り込んだ。
「おい! まだ写してないって! 眉っ娘! どうしたんだよ!」
「知らない!」
魔優子はくるりと背を向ける。
「まだ訊きたいことがあるんだけど!」
「うるさい! 自分で考えなさいよ! じゃあね! また来週ね!」
「こら! 来週じゃ、宿題が間に合わないだろ? それに、訊きたいことがあるって――」
「自業自得よ!」
魔優子はそれこそ眉尻を吊り上げてカフェを一人後にした。
魔優子の背中がガラスのドアの向こうでどんどん小さくなっていく。怒りのあまりにか早足になっているのだろう。
「おいおい、何怒ってんだよ…… てか、聞き損ねたな……」
一人残された光助はイスに深く座り直した。やれやれと言わんばかりに、去っていく魔優子の背中をガラス越しに見送った。
「ま、いっか……」
光助は懐から一枚のチラシを取り出すと、そう呟いた。