竜の墓守
竜が一頭死ぬたびに、この世から言葉がひとつ消える。
そう教わって育った。
わたしは墓守。死にゆく竜の最期の言葉を聞き、石に刻む者だ。大陸でただひとり残った、最後の墓守。
竜の言葉は人の耳には風の音にしか聞こえない。
けれど墓守の血を引く者だけは、それを言葉として聞き取れる。竜が死の床でこぼす「真言」を。生涯ためこんだ記憶と祈りと、たったひとつの真実を。
その声を聞き分ける力は、女から女へ、血とともに受け継がれてきた。
わたしの一族は何百年ものあいだ竜の最期に立ち会い、一頭が死ぬごとにひとつの碑を建ててきた。〈竜碑〉と呼ばれるそれを、北の谷に並べて。
けれどもう長いあいだ、新しい碑は建っていない。
竜が、いなくなったからだ。
「枯れ」と人が呼ぶものが、この世から少しずつ竜を消していった。
わたしが物心ついたころには、空に竜の影を見ることなど、もうなかった。空はただ青いだけのものになり、墓守の役目は半分、伝説になりかけていた。
わたしの住む村には、もう誰もいない。
墓守はひとり、またひとりと老いて死に、村を出ていった。最後まで残った祖母も、わたしが十二の年に逝った。それからの五年、わたしはひとりで暮らしてきた。
暮らしは、楽ではなかった。
村はずれの痩せた畑で芋と豆を育て、井戸の水を汲み、冬の前に薪を割る。雪に閉ざされる半年は、誰の顔も見ない。年に一度、麓から塩と鉄を売りにくる行商人だけが、外の世界とつながるほそい糸だった。
空き家は少しずつ傾き、屋根が落ち、わたしひとりの手ではどうにもならなかった。村は、わたしと一緒に、ゆっくり朽ちていった。
聞き取りの力は、その祖母がわたしに遺したものだった。
幼いころ祖母はわたしを膝に乗せ、古い竜碑の写しの文字をひとつずつ読ませた。耳の奥で響くものに、ただ素直に従いなさい。それが竜の声だから。そう繰り返した。
祖母自身は生涯で三頭の竜を看取ったという。
わたしにはひとつも回ってこなかった。竜はわたしが育つあいだに、もうほとんど残っていなかったから。
祖母が死ぬとき、わたしはそのかたわらにいた。
人の最期に墓守の力は要らない。ただ手を握っていた。祖母は最後にこう言った。すまないね。お前には看取るべき竜も、お前を看取る者も、遺してやれなかった、と。その言葉だけが、五年たったいまも胸の底に残っている。
ノア、という名も、祖母がつけてくれたものだった。
古い言葉で「新しい」とか「始まり」とかいう意味だと、幼いころに聞いた。墓守の子に、終わりではなく始まりの名を、となぜ不思議に思っても、祖母はただ笑うだけで、訳は教えてくれなかった。
することは、いつも同じだった。
古い竜碑の写しを読み返し、何も刻まれていない石を相手に、ありもしない竜の言葉を彫る練習をする。来るはずのない死を、ずっと待っている。
竜のいない世で竜を看取る者として生きるのは、奇妙なことだった。役目だけが残って、相手がいない。わたしは空っぽの器のようなものだった。
だからその報せが届いたとき、わたしは石彫りの手を止めて、長いこと動けなかった。
報せを運んできたのは、年に一度、塩と鉄を売りに来るあの行商人だった。
「北の谷の奥に、まだ一頭、生きてるみたいだぞ」
行商人は、北の峠を越える途中で見たのだという。
谷のほうから地を這うような低い唸りが聞こえ、風に乗って焦げた土のような匂いが流れてきた。崖際から覗くと、谷の底に山ほどもある灰色の影が、息をするように、かすかに上下していた。あれは竜だろう、と行商人は声をひそめた。
「それが、ひどく弱ってるように見えた。あんたの“おつとめ”ってのは、ああいうときのためにあるんだろう。間に合ううちに、行ってやりな」
最後の一頭。
わたしは、すぐに悟った。空から竜の影が消えて、もう久しい。いま一頭でも生きているなら、それはこの世にただ一頭の、最後の竜にちがいなかった。
わたしは生きた竜を一度も見たことがなかった。碑に刻まれた古い言葉を通して、文字としての竜を知っているだけだった。
その最後の一頭が、もしわたしが間に合えば、わたしが看取る最初の竜になる。そして、最後の竜になる。
わたしは彫り道具をひとそろい布に包んだ。鑿と、槌と、小刀。
祖母から受け継いだ、使い込まれた道具だ。柄の木は手の脂で黒く光り、握ると祖母の手の温度を思い出した。
それを背に負って、わたしは生まれて初めて村を出た。
北へ。竜がいる谷へ。誰もいない村が、背後で少しずつ小さくなっていった。
*
三日かけて、わたしは谷の入り口に立った。
道は険しく、夜は岩陰で身を縮めて眠った。
ひとりきりの旅は心細かった。けれど不思議と、引き返そうとは思わなかった。最後の竜が、わたしを待っている。その一事だけが、足を前に進ませた。
谷は、切り立った岩壁に挟まれた細長い窪地だった。
その底に、無数の石柱が並んでいる。背の高いもの、低いもの、苔むしたもの、傾いたもの。どれも死んだ竜の数だけ建てられた、竜碑だった。
わたしは谷を歩いた。
碑のひとつひとつに、竜の名とその最期の言葉が刻まれている。先祖たちの手が何百年もかけて刻んできた文字だ。風と砂に削られながら、それでも消えずに残っていた。
いちばん古い碑は、もう文字も読めないほど風化していた。
その隣の碑には、こう刻まれていた。
「我、東の海を二度見たり。二度目は、水が血の色をしていた」
古い戦の時代を生きた竜の言葉だろうか。海を血の色に染めた戦を、この竜は空から見ていたのかもしれない。
さらに歩くと、別の碑があった。
「人の子よ、火を恐れるな。我らはみな、いずれ灰になる」
それを読んだとき、わたしは少し胸が痛んだ。竜は人の子に、何かを遺そうとしていた。叱るのでも嘆くのでもなく、慰めるように。
また別の碑には、こうあった。
「我が名を呼ぶ者は、もう誰もおらぬ。それでも我は、我であった」
名を呼ばれなくなった竜の、最後の矜持だった。忘れられても、自分は自分であったと。その一行は、どこかさびしげで、けれど凛としていた。
その先の小さな碑には、ただ一行だけ刻まれていた。
「さびしかった」
わたしはその碑の前で立ち止まった。
名も、来歴も刻まれていない。ただ、さびしかった、とだけ。これを刻んだ墓守は、どんな気持ちでこの一行を石に残したのだろう。死にゆく竜の最後の声が、それだけだったのだろうか。
わたしはしばらくその碑に手を当てて、それから歩きだした。
歩くほどに、碑は新しくなっていった。
けれど新しいといっても、いちばん最近のもので、もう五十年は前のものだった。そこから先、谷の奥に向かって、碑のない空白がずっと続いていた。
空白の谷底を、わたしはゆっくりと進んだ。
ここには、誰にも看取られなかった竜が眠っているのかもしれない。墓守が間に合わなかった死。聞かれることのなかった最期の言葉。石に刻まれることなく、ただ風に散っていった声。
そう思うと、足が重くなった。
同時に、急がなければとも思った。せめてこの最後の一頭だけは、間に合わせたい。わたしは谷の奥へと足を速めた。
*
谷のいちばん奥に、それはいた。
最初、わたしはそれを岩山だと思った。
灰色の、苔と砂にまみれた、巨大な岩の連なり。けれど近づくにつれて、それがゆっくりと脈打っていることに気づいた。ひどく緩やかに、山のような体が上下している。
息をしているのだ。
竜だった。
わたしが想像していたよりもずっと大きく、ずっと古かった。鱗はとうに色を失い、ところどころ剥がれて、下の灰色の肌がのぞいている。
翼は破れた帆のように地に垂れていた。もう二度と、この翼が空を抱くことはないのだと知れた。
近づくと、乾いた土と、消えかけた焚き火のような匂いがした。
竜のにおいだ、と思った。生きものというより、長い時間そのもののにおいだった。
体の表面を、薄い熱がゆらいでいた。
炉のそばに立ったときのような、かすかな温もり。これが、世界じゅうから飲み干した魔素の、最後の残り火なのかもしれない。
手をかざすと、その熱が指先に届いた。何百年もかけて細っていった命の、いちばん端のところに、わたしは触れていた。
わたしはその頭のかたわらに膝をついた。
巨大なまぶたは岩のように厚く、固く閉じられている。
その縁から、乾いた筋のようなものが幾本も流れていた。涙の跡だろうか。誰も看取りに来ない長い夜を、この竜はどれだけ待っていたのだろう。
「……墓守か」
声が、頭の中に直接響いた。
風の音ではなかった。はっきりとした、言葉だった。
竜の真言を、わたしは生まれて初めて自分の力で聞き取った。体じゅうの血が、その声に応えるように熱くなった。これだ。このために、わたしの一族は生まれてきたのだ。
「はい」
わたしはこみあげるものをこらえて答えた。
「最後の墓守、ノアと申します。あなたの最期の言葉を聞き、刻むために参りました」
竜の岩のようなまぶたが、わずかに持ち上がった。
その奥にあったのは、金色の、底の見えない目だった。何百年もの時を見てきた目。星が生まれて、燃えて、消えていくのを、いくつも見届けてきたような目だった。
「ノア」
竜はわたしの名を、確かめるように繰り返した。
「いい名だ。新しい、という意味の、古い言葉だな」
「……ご存じなのですか」
「我はセフィラ。長く生きすぎた竜だ。たいていのことは、知っている」
セフィラの声は、どこか笑っているようだった。
わたしは戸惑った。竜の真言とは、もっと荘厳で一方的なものだと教わってきた。死にゆく竜がためこんだ真実を吐き出し、墓守はそれをただ黙って書きとる。それが作法のはずだった。
けれどセフィラは、まるでわたしと話そうとしていた。
「驚いているな」
セフィラは言った。
「竜は死の床で、語りたいことを語る。壮大な予言を遺す者もいた。世を呪って逝く者もいた。……だが我は、お前と少し話がしたい。それが我の最期の望みだ。聞いてくれるか、最後の墓守よ」
わたしは彫り道具を包んだ布を、膝の上にそっと置いた。
刻むのは、あとでいい。竜が話したいと望むなら、まず聞こう。それもまた墓守のつとめだと思った。
「はい。お聞かせください」
*
「お前は、なぜ竜が滅びたか、知っているか」
セフィラはゆっくりと問うた。
「枯れ、と人は呼びます。世界から魔素が薄れ、竜は生きられなくなった。そう伝えられています」
「半分は正しい。だが順序が逆だ」
セフィラの金色の目が、谷の上の細い空を見た。
「魔素が薄れたから竜が死んだのではない。竜が魔素を飲んだから、薄れたのだ」
わたしは言葉の意味をつかみかねた。
「遠い昔、この世には魔素が溢れていた。川のように、霧のように、どこにでも満ちていた。だがそれは、人には毒だった」
セフィラの声は、静かに続いた。
「濃すぎる魔素は人の子を内側から焼く。お前たちの祖先は、生まれてすぐ死ぬ子のほうが、生き延びる子よりも多かった」
覚えているはずがなかった。
けれど谷の古い碑の言葉が、ふいに胸をよぎった。人の子よ、火を恐れるな。我らはみな、いずれ灰になる。
「あの碑」
わたしは思わずつぶやいた。
「火を恐れるな、と刻まれた碑がありました。あれは、もしかして」
「魔素のことだ。竜は人の子が魔素に焼かれて死ぬのを、長いあいだ空の高みから見ていた。……やがて我らは、決めたのだ」
セフィラの声が、低く深くなった。
「この世から余分な魔素を飲み干そう、と。人の子が毒に焼かれず生きられるように。竜は魔素を糧とする生きものだ。世界中の魔素を体に取り込むことなど、わけもない」
「……でも、それは」
「そうだ。それは、終わりのはじまりでもあった」
セフィラは、わたしの言いかけた言葉を引き取った。
「魔素は、竜にとっては命そのものだ。それを世界から取り除けば、我らもまた、ゆっくりと痩せ衰えていく。飲めば飲むほど世から魔素が消え、同じだけ我らの命も細っていく。我らはそれを、すべて承知のうえで飲んだ。何百年もかけて、この世界を人の子に明け渡すために」
わたしは声が出なかった。
枯れ。竜が滅びゆくこの現象を、わたしはずっと、避けようのない自然の理だと思っていた。
竜は古いものだから、いつか消える。それは雨が降るのと同じ、ただの理だと。
違った。竜は選んだのだ。人を生かすために、何百年もかけて、自分たちが消えていくことを。一頭ずつ、痩せて、翼を畳んで、谷の底に横たわって。
「むろん、皆が皆、安らかに逝けたわけではない」
セフィラの声に、かすかな影がさした。
「世を恨んで死んだ竜もいた。怖くなって北の果てへ逃げ、ひとりで朽ちた竜もいた。最期に、ただ『さびしかった』とだけ遺した竜もな。……我とて、いまも、ほんとうにこれでよかったのかは分からぬ。ただ、お前のような人の子が生きて、こうして看取りに来てくれた。それを見れば、悪い選びではなかったと、そう思えるだけだ」
「竜碑の谷は」
わたしは震える声で言った。
「では、ここは」
「そうだ。ここは墓場だ。人の世を生かすために死んでいった、竜たちの墓場だ」
セフィラは優しく言った。
「だがただ静かに死ぬのは、さびしい。誰にも知られず、何のために消えたのかも告げられず、ただ風になるのは、つらい。……だから始まりの竜は、ひとりの人の子に頼んだのだ」
「我らの最期の言葉を聞いてくれ。石に刻んで、覚えていてくれ。我らがいたことを、忘れないでくれ、と。……その人の子が、お前の一族のはじまりだ。最初の墓守だ」
「始まりの竜は、なんと言って死んだのですか」
わたしは思わず尋ねた。最初の墓守に、最初の竜が遺した言葉を。
「『わたしを、覚えていて』。それだけだ」
セフィラの目が、わずかに細くなった。
「大層な真実でも、予言でもない。ただ、覚えていてほしい。それが最初の竜の、最初の願いだった。以来、墓守はその願いだけを継いできた。何百年も。お前まで」
わたしは、自分の立っている場所の重さを初めて感じた。
わたしの後ろには、何百人もの墓守がいる。そのさらに後ろには、何百頭もの竜がいる。みな、覚えていて、と願いながら消えていった。そしてその願いの最後の受け手が、いま、わたしひとりだった。
さびしかった。
あの名もない碑の一行が、胸の奥でもう一度鳴った。
墓守とは、竜の遺言を書きとるだけの役人ではなかった。
消えていく者のかたわらに膝をつき、その声を聞き、忘れないと約束する者だった。何百年ものあいだ、わたしの一族は、ただそれだけのために生まれ、それだけのために生きてきたのだ。
わたしは自分の手のひらを見た。
鑿を握りすぎて硬くなった、墓守の手。この手の意味を、わたしはいま、初めて知った。
*
「ノア」
セフィラの声が、少し弱くなっていた。
「我はもう、長くない。最後にひとつだけ、教えてくれるか」
「なんでしょう」
「お前は、さびしいか」
わたしはすぐには答えられなかった。
さびしくないと言えば、嘘になる。
墓守の村は、とうに無人になっていた。竜が消え、役目が忘れられ、わたしの一族も、ひとり、またひとりと減っていった。最後に残ったのは、わたしだけ。
竜を看取る者が、自分の番が来たとき、いったい誰に看取られるのだろう。そんなことを、わたしは長い夜のたびに考えていた。わたしの最期の言葉を聞いてくれる者は、どこにもいない。
「……はい」
わたしは正直に答えた。
「さびしいです。あなたが死んだら、竜はいなくなる。墓守の役目も終わります。わたしは最後のひとりです。わたしが死んだら、もう、誰も」
言葉が、続かなかった。
「そうか」
セフィラは長いこと黙っていた。それからこう言った。
「ならば、ひとつ、まちがいを正しておこう。お前は、最後の墓守ではない」
「……どういう、意味ですか」
「墓守とは、死んだ竜を石に刻む者。たしかにその役目は、我とともに終わる。もう、看取るべき竜はどこにもいないのだから」
セフィラの金色の目が、まっすぐにわたしを見た。
その目の奥に、谷の上の空が映っていた。竜が人に明け渡した、ただ青いだけの空が。
「だが谷の外には、人の子がいる。竜を見たこともない子らが、たくさんいる。その子らに語ってやってくれ。むかし、竜という生きものがいた、と。人を生かすために、自ら消えていった者たちがいた、と」
わたしは息を止めた。
「石は谷の奥で朽ちていくだけだ。文字はいつか風が消す。だがお前が語れば、竜は人の口から口へと渡っていく。聞いた子が、また別の子に話す。そうして我らは、物語のなかで生き続ける。……ノア。お前は、最後の墓守ではない。最初の、語り部だ」
最初の、語り部。
その言葉が胸に落ちた瞬間、わたしの目から涙がこぼれた。
終わりだと思っていた。わたしの役目も、わたし自身も、この谷でひとり、ひからびて消えていくのだと。
違った。これは終わりではなかった。始まりだった。新しい、という意味の古い名を、わたしは生まれたときから持っていたのだ。
「セフィラ」
わたしはその大きな鼻先に、そっと手を当てた。
乾いて、冷たい鱗だった。けれどほんのわずかに、まだ温かかった。
「あなたの言葉を、刻みます。それから語ります。あなたのことを。竜のことを。あなたたちが何をしてくれたのかを。ぜんぶ、人の子に伝えます」
「ああ。頼んだぞ」
セフィラの声は、もう、ささやくほどに小さかった。
「我はよい時に死ぬ。最期に聞く声が、お前の声で、よかった。……ありがとう、ノア」
金色の目が、ゆっくりと閉じていった。
山のような体の脈打ちが、少しずつ間遠になっていく。一度、長い息が吐かれ、しばらくして、もう一度。そして最後の、ひときわ長い息が、谷の風にゆっくりと溶けていった。
それきり、セフィラは動かなかった。
あれほど大きな体が、ただの、静かな岩になった。
世界から、最後の竜が消えた。
*
わたしはしばらく動けなかった。
谷はしんとしていた。
風が、破れた翼のあいだを抜けていく音だけが聞こえた。それはもう、真言ではなかった。ただの、ほんとうの風の音だった。わたしの耳は、もう二度とその音から言葉を聞き取ることはないのだ。
わたしは冷たくなっていく鼻先に額を寄せて、声を殺して泣いた。
会ったばかりの竜だった。たった半日、言葉を交わしただけの。それなのに、長いあいだ連れ添った誰かを送るように、胸が裂けた。
たぶん、これが墓守という生き方なのだ。
ほんの短いあいだ、消えゆく者のかたわらにいて、その最後の声を受け取り、見送る。そして、忘れない。何百年も、わたしの一族はこの痛みごと、役目を継いできたのだ。
わたしはその夜のうちに、最後の碑を彫りはじめた。
谷の奥、碑のない空白の続く場所に、平たい石を立てた。
月明かりの下で鑿をふるった。冷たい夜気のなか、石を打つ音だけが谷に響いた。セフィラの名を刻み、その長い長い来歴を刻み、それから、最期の言葉を刻んだ。
何を刻むか、わたしは迷った。
竜の世界の真実を刻むこともできた。人を生かすために竜が滅びたという、誰も知らない真実を。けれど、わたしが最後に石に残したのは、予言でも、真実でもなかった。
「ありがとう、ノア」
その一行だけを、わたしは刻んだ。
何百年も人を生かし、誰にも知られず消えていった種族の、最後のひとことが、それだった。
恨みでも、嘆きでも、立派な教えでもなく。ただ、自分を看取りに来たひとりの娘への、感謝だった。それでいいのだと思った。それが、いちばん竜らしいと。
彫り終えたとき、空が白みはじめていた。
わたしは道具を布に包んで立ち上がった。
谷には、無数の碑が並んでいる。血の色の海を見た竜の碑。火を恐れるなと遺した竜の碑。さびしかった、とだけ刻まれた碑。そして、ありがとう、と刻まれた最後の碑。
もう、新しい碑が建つことはない。竜は、いなくなったのだから。
けれど、とわたしは思った。
石はいつか朽ちる。文字はいつか風が消す。
けれど、語れば、言葉はわたしひとりのものではなくなる。聞いた誰かの胸へ渡り、その誰かが、また別の胸へ渡していく。
消えていくものの声を、わたしは石ではなく、人の胸に刻もう。
わたしは竜碑の谷に背を向けた。
最後の墓守としてではなく、最初の語り部として、最初の一歩を踏み出した。
朝の光が谷を抜けて、歩きだしたわたしの背を、まっすぐに照らしていた。




