05
それ以降の日々も、私は“被害者面”を欠かさなかった。
マリーベルが小声で嫌味を囁いてきたときには、わざと大げさに眉尻を下げ、すぐさま「ごめんなさい」と張り上げる。
あるいは、ジュリアンが婚約者としての優しげな顔をつくり、何気ない仕草で私の肩に触れようとするとき。わざと怯えたように身を縮め、咄嗟に頭を庇うように両腕を上げて後ずさる仕草を見せた。彼の表情が一瞬引きつるのを私は見逃さなかった。
そうした小さな積み重ねは確実に効果を表し、学園には今や「ヴァルトハイム公爵子息とその従妹が、彼の婚約者を虐げているらしい」という噂がまことしやかに囁かれている。
時折、私に直接確認しにくる人もいる。そんな時は怯えたように周囲に視線を走らせ、眉尻を下げて「……そんなことは」と形ばかりの否定を口にした。
もちろん、ふたりを熱心に崇拝するファンたちは「まさか、そんなはずは」と否定的な顔をする。だが、私が彼らと一緒にいるときの尋常でない様子──過剰に怯える挙動、声を荒げて必死に謝る姿──を何度も見せつけられれば、次第に「もしかして」という疑念を抱かずにはいられない。
完全な信用には至らずとも、半信半疑で人々が囁きあう空気こそ、私が望んだものだった。
そんなある日。昼休みを終えて教室へ戻ろうとしていたとき、不意に腕を掴まれた。
掴んだのはマリーベルだ。力任せに引っ張られ、私は校舎脇の陰へと連れ込まれた。
扉も窓もなく、ほとんど人通りのない一角。引きずり込むや否や、彼女は私の腕を乱暴に振りほどき、突き飛ばすようにして離す。
私はよろめき、そのまま地面に膝をついた。スカート越しに砂の感触。
「いい加減になさい! どういうつもり!?」
マリーベルの甲高い声が響いた。彼女の頬は紅潮し、口元には抑えきれぬ苛立ちがにじみ出ている。
どうしようか、と私は一瞬逡巡した。
周囲へと視線を走らせる。──人影はない。
マリーベルが取り繕いもせずヒステリックに声を張り上げていることからも、それは明らかだった。彼女の声音からは、抑制も気取りも抜け落ちていた。普段なら必ず取り繕うはずの彼女が、いまは素の苛立ちをそのままぶつけている。
視線をほんのわずかに上げる。
ここは確かに校舎の陰で、生徒がわざわざ通ることは少ない。だが、少し離れた向かい側に別の棟がある。その窓の奥には、ちらちらと人影が揺れているのが見えた。
彼女は背を向けているため気づいていないようだ。
声が届くことはないが、少なくとも、この場でマリーベルが一方的に私を追い詰めている姿を誰かが目にする可能性はある。
ならば、無駄にはならないだろう。
私は頭を抱えるようにして、地面に身を縮めた。
「ッその態度! "可哀想な私"だとでも思っているの!? 勘違いも甚だしい! 貴女はただ惨めな存在なだけ! 立場を弁えて大人しくしていればいいものを!」
言葉と共に、彼女の手に握られた扇が宙を舞った。
ひゅっと空気を切る音がし、私の頭のすぐ横を掠めて地面に落ちる。
だが怯える素振り以上の反応は見せなかった。謝罪を叫ぶ必要もない。
けれど、身に迫る危うさは十分に演出された。もし校舎の窓からこちらを窺っている者がいたなら、彼女の罵声とこの光景だけで十分だ。
私が無抵抗でいることに気を良くしたのかはたまた苛立ったのか、マリーベルはなおも言葉を浴びせてくる。
「それでジュール様の気を惹くつもり!? 哀れな芝居を打てば、あの方が振り向くとでも思っているの!? 滑稽だわ! 貴女みたいな地味で取るに足らない女、誰の目にも留まらないのよ!」
彼女の罵倒は刺々しく、だがその焦燥が滲み出ていた。噂が広まり始めたことを、敏感に察しているのだろう。自分が不利になるのではないかという恐れが、怒りに転じている。
そのとき、校舎の方で複数の足音が響いた。
マリーベルがハッとしたように振り返る。次の瞬間、ギリッと私を睨みつけると、踵を返し、早足で去っていった。残されたのは、私と落ちた扇だけ。
校舎の廊下を歩む足音はそのまま遠くなり、消えていく。人々が去るのを確かめるまで、私はうずくまったまま動かなかった。
──やがて、ゆっくりと立ち上がる。
私はひとつ長い息を吐き出しながら、乱れた髪を肩越しに払い落とした。
「チッ、ボケカスクソ女が……」
吐き捨てるように小声で悪態を吐く。
心の奥に溜め込んでいた澱のような言葉。だが、誰にも届かないはずの呟きだった。
──はず、だった。
「ワァ……」
不意に小さな声が返ってきて、私は反射的に振り返った。
校舎の石壁の陰から、男子生徒がそっと顔をのぞかせている。
目が合った瞬間、彼は肩をビクンと震わせ、まるで怯えた小動物のように固まった。
……しまった、という思いが一瞬頭をよぎる。だが、表情には出さない。
「ご機嫌よう!」
私は明るく、元気よく声を掛けた。
「ごっ、ごきげんよう……」
彼は再びビクッと体を震わせ、慌てた様子で言葉を返した。その仕草に、私の方が面白さを覚える。
怯えと戸惑いを同時に抱え込んだような顔つきは、いかにも目立たぬ生徒らしい。
私は彼の顔を観察する。
私が言うのもなんだが、目立たない生徒だ。鉛色の髪に親近感を抱く。
線は細く、背丈も目立って高くはない。華やかさには欠けるが、誠実で真面目そうな、柔和な顔立ち。武を競う場には似合わず、文官として机に向かう姿が容易に想像できる。
歳上には見えず、学年で三つある低位クラスで見かけた覚えはない。となると、高位クラスの生徒なのだろう。ただ侯爵や公爵位ほどの華やかさはなく、装いも控えめだ。伯爵家あたりの出か。
少し間を置いてから、彼は恐る恐るといった様子でこちらに歩み寄ってきた。懐から取り出したのは、清潔な白いハンカチ。ためらいがちに差し出してくる。
「あの、ダイジョウブデスカ……」
たどたどしい口調で心配の言葉をかけてくる。だが気遣う様子は本物で、虚飾めいた色はない。
私は軽く首を振り、そっと手を添えて彼の好意を遠慮した。
「あ、お気遣いなく」
それだけでは素っ気ないかと思い、胸の前で両手を重ねて一礼する。
「お心遣い、感謝いたします」
礼儀正しく答えると、彼は一瞬ほっとしたように息を吐いた。だが、私の姿を見直すうちに、再び眉根を寄せる。
「けど、その格好では……。医務室で替えの制服を」
制服の裾は膝から下にかけて砂で薄汚れ、袖にも擦れた痕が残っている。髪も乱れており、確かにこのまま人前に出るのは憚られる様相だ。
「いえ、このまま授業に出ますのでお気になさらず」
「え、でも……」
その戸惑いに、私は応じるようにスカートの裾を軽やかに摘み上げ、くるりと踊るように回ってみせた。
砂埃にまみれた裾が空気を払い、灰色の粒子が光に散った。裾が翻り、汚れが改めて露わになる。
「実に憐憫を誘う姿でしょう?」
芝居がかった口調で告げると、彼の顔は凍りついた。
その瞳には、目の前で繰り広げられている奇妙な光景をどう受け止めればいいのか分からない、という戸惑いがありありと浮かんでいる。「えぇ……」と小さく漏れた声は、困惑と同情の入り混じった響きだった。
彼は困惑を隠せない顔でしばらく黙り込む。けれど、私の姿を見つめる瞳の奥には、ほんのわずかながらも確信のようなものが宿っているのを感じた。
彼は唇を湿らせるようにしてから、意を決したように口を開く。
「……君なら、彼らと正面から話し合えるのではない?」
声はまだ弱々しかったが、それでも真剣さがにじんでいた。
先ほどまでの気弱な態度からすれば、意外なほど真っ直ぐな声音だった。細い体つきに似合わず、意外な芯の強さを感じさせる。
すでに私の気の強さを感じ取ったらしい。ジュリアンらとの関係についても把握しているが、私が表面だけの弱々しい被害者ではないことを、少なくとも彼は察している。
私はわずかに肩を竦めて、首を横に振った。
「彼らとは爵位の差がありますから。私が何か言っても、それは"生意気"で"無礼"になるだけです」
唇から零れる言葉は冷たくも淡々とした響きを帯びていた。
事実、相手は公爵家。私の立場からすれば、声を荒げるどころか意見を述べることすら許されない。すべては身の程知らずという烙印で片付けられてしまう。正義を語ろうとも、身分差という重い石が真実を押し潰してしまう。
彼は眉を寄せて反論を探すように口を開いた。
「だけど……。だからと言って、自分からこのような立場になることはないのでは」
その声色には、心配の色が見え隠れしていた。憂慮の響きを含んだ声。
真面目で、善良で、きっとどこか愚直な青年なのだろう。彼なりに私を案じている。その真っ直ぐな気持ちが、ほんの少し可笑しくもあり、胸の奥を微かに温めた。
私は彼の心配を受け止めながら、視線を少し伏せた。
「初めて会った時、言われたんです」
私は目を細め、過去を振り返るように言葉を紡ぐ。
微笑みを浮かべながら、ゆっくりと続ける。
「『私に睨まれた、怖い』『言い訳は聞かない』って」
「それは……」
脳裏に蘇るのは、あの高飛車な声色。理屈など最初から存在せず、ただ彼女が感じた「不快」を理由に、私を悪と断じた。
彼の声には、戸惑いと、そしてわずかな怒りが混じっていた。理不尽だと感じたのだろう。
彼の瞳に宿る同情の色を見て、私は小さく吐息をこぼす。
「許せない……」
ぽつりと、心の奥に沈殿した言葉が唇をすり抜けた。自分でも驚くほどに冷えた声音。
青年は思わず息を呑み、私を見つめ返してくる。その眼差しには、やはり同情がにじんでいた。
「私は睨んでなんかない。ただ……彼女の言動が異常すぎて、得体の知れないものを見るような視線になってしまっただけで、睨んでなんか……」
そこまで言った時、青年が首を傾げ、わずかに「ん?」と声を漏らした。
「やったことを怒られるなら、いいんです。でも、やってもいないことで怒られるのは……濡れ衣は、許せない」
拳を握りしめるわけでもなく、ただ静かに言葉を紡いだ。
けれど、声に熱がこもる。胸の内側には未だ消えぬ怒りが赤々と燃えているのを自覚していた。胸の奥に溜め込んできた憤りが、言葉となってあふれ出る。
「お、おぉ……」
青年は戸惑いを隠せず、けれどどこか納得したように呟いた。
最初に"被害者面"を振り翳してきたのは、ジュリアンとマリーベルだ。
私に罪を擦り付け、声を封じようとしたのもあちら。だから。
私は胸元でそっと手を握り、微笑んだ。
「だから──煙のあるところを、山火事にしてやるんです」
私の唇から洩れたその言葉に、彼は硬直した。視線が私を映し、理解が追いつかぬままの戸惑いを見せる。
「そっ、かぁ……」
納得したのか、それともただ相槌を打つしかなかったのか。彼の返事は曖昧だった。
非があるのは向こう。真に傷つけられたのは私。
ならば、私が"被害者面"を続けることはむしろ当然のことなのだ。
大げさに、徹底的に、そして誰もが無視できないほどに。
彼らが蒔いた小さな火種を、私の手で大きな炎に変えてやるのだ。
その炎に彼らが焼かれるのなら、それは当然の報いでしかない。




