04
昼休みの鐘が鳴ると同時に、学園の廊下は一気に活気づいた。
窓の外から射し込む真昼の光は磨かれた床に映り込み、行き交う生徒たちの影を引き延ばしている。春先の光はどこか柔らかく、それでいて校舎の中に熱を孕ませるには十分な強さを持っていた。
扉が開くたびに、椅子の引かれる音や話し声が一斉に漏れ出し、廊下は賑やかな流れへと変わっていく。華やかな制服姿の群れが川のように合流し、目的地である食堂を目指して歩みを速める。そのざわめきと熱気に押し流されるようにして、私もまた足早に食堂へと向かっていた。
できることなら、人目につかずに静かに昼食をとって終わらせたい。けれど──そんなささやかな願いすら、この状況では叶わないのだと、朝から嫌というほど思い知らされていた。
「セリーヌ嬢」
不意に名を呼ばれ、私は立ち止まる。背後からではない。前方、数歩先の廊下に、柔らかな笑みを浮かべて佇む人影があった。
ジュリアン様──整った顔立ちに上品な立ち居振る舞い、そのどれもが絵画のように美しい。生徒たちが憧れを抱くのも無理はない。
「もしよければ、昼食をご一緒しませんか」
その声音は穏やかで、誰が聞いても好青年と感じるだろう。けれど、私は胸の奥に冷たいものが広がっていくのを抑えられなかった。
「……ええ、もちろんです、ジュリアン様」
断れるはずもなく、小さく頭を下げる。するとジュリアンは微笑を深め、歩みを合わせてくれた。
二人並んで食堂へと向かう足取りは、周囲の注目を引き寄せずにはいられない。廊下にいた生徒たちが、ひそひそと声を交わすのが耳に届く。
食堂へ足を踏み入れた瞬間、ざわめきが増した。
広々としたホールには長机が整然と並び、磨かれた窓から降り注ぐ光が床を照らしている。空間いっぱいに弾む会話や食器の音が満ちていたが、私たちが姿を見せた途端、その空気は目に見えぬほど微細に変わった。
「ジュリアンお兄様!」
その時、弾むような声が食堂の入口から響いた。振り返らずとも分かる。マリーベルだ。
軽やかな靴音とともに、彼女が駆け寄ってくるのが気配で分かる。
私の傍に立つジュリアンに向かって、すれ違うようにして目の前を横切ったマリーベルの肩が、私の身体にかすかに触れた──ように見えた。
その瞬間。
ぐらりと体が傾き、足元が崩れる。慌ててバランスを取ろうとしながら、結局そのまま床に尻もちをついた。
「っ……!」
食堂のざわめきが俄かに止み、視線が一斉に集中する。
「も、申し訳ありません……!」
私は反射的に声を上げ、必死に頭を下げた。自分が悪い、自分の不注意だったと示さなければならない。
周囲の生徒たちから「えっ……」「今、突き飛ばした?」と囁き声が上がる。視線が突き刺さり、マリーベルの表情が一瞬冷たく凍り付く。
「ま、まぁ! セリーヌ様、ごめんなさい! わざとじゃないのよ!」
甲高い声が響いた。マリーベルが私を覗き込み、両手で私の腕を掴んで強引に引き起こしてくる。
痛みに顔を歪める間もなく、彼女は顔を近づけてきた。その表情は、周囲に向ける無垢な笑顔とはまるで違う。瞳の奥に鋭い光を宿し、私にだけ聞こえる声で囁いてくる。
「ふざけないでちょうだい」
その声音は刃のように冷たく、皮膚を切り裂くかのように突き刺さった。私は喉の奥が凍りつき、息が詰まる。
「ひっ……!」
か細い悲鳴が零れる。
私は必死に首を振りながら声を絞り出した。
「ご、ごめんなさい、私が悪いんです、ごめんなさい……!」
必死に繰り返しながら、震える声は食堂全体に響き、空気を揺らした。
生徒たちの視線が一斉に注がれる。誰もが言葉を失い、ただその異様なやり取りを見守るばかりだった。
「待って、落ち着いて」
間に入ってきたのはジュリアンだった。彼は私とマリーベルの間に立ち、静かな声で言う。
「セリーヌ嬢、そんなに思いつめなくていい。君が怪我をしなかったならそれで良いんだよ」
その声音は柔らかく、決して強く咎めるものではなかった。ただ場を取り繕うための調停の響きにすぎない。
「さ、皆さんも行きましょう。昼休みは限られているのですから」
様子を窺っていた生徒たちに声をかけ、あえて平然と歩みを進めていく。
けれど、空気はもはや取り繕えなかった。
周囲の生徒たちの視線が一斉に突き刺さる。ざわざわとした囁きが波紋のように広がり、私の鼓膜を叩いた。
こうして、昼休みの食堂へ向かう一幕は、微妙どころか、息苦しい沈黙を残したまま幕を下ろしたのだった。
午後の授業は別棟の教室で行われる。
私は教科書とノートを抱え、渡り廊下へと足を進めていた。先の授業を終えた生徒たちのざわめきはまだ遠くに残っており、この廊下は比較的静かだ。
窓の外に広がる空は淡い青で、春の陽射しを含んだ風が吹き込んでくる。頬を撫でるその風はひんやりとしていて、昼食後の微かな倦怠感を冷ますにはちょうどよかった。
けれど、その安らぎは長くは続かなかった。
「セリーヌ」
低く押し殺した声が、背後から私を呼び止めた。
振り返れば、渡り廊下の中央にジュリアンが立っている。逆光に包まれたその姿は、彫像のように整っていながらも近寄り難い。
陽光を背にした顔は影に沈み、表情は判別しづらかったが、その眼差しに宿る鋭さと怒気は、距離を隔てても容易に伝わってきた。
「どういうつもりだ」
足を止めた私の耳に、その声は冷たく響いた。
「……何が、でしょう」
努めて表情を整え、問い返す。自分でも驚くほど冷ややかな声が出た。
「あのような振る舞い……。マリーベルを悪役にするつもりか?」
彼の双眸は苛立ちに揺れ、私を射抜く。
昼食の場で、私が床に尻もちをついたあの瞬間のこと。周囲の視線と囁きが、マリーベルを糾弾しかけたこと。それが彼には許せなかったのだろう。
ジュリアンは一歩踏み込み、吐き捨てるように言った。
「立場を弁えろ」
その一言に喉の奥がひくりと震える。けれど、視線だけは逸らさなかった。
「あら……心外ですね」
自分でも驚くほど静かな声が、唇から零れた。
「あなた方が望んだ姿でしょう?」
唇に浮かべたのは、白けた薄笑い。
渡り廊下に、風の音が一瞬強く吹き抜ける。ジュリアンが眉を寄せるのを、私は淡々と見上げた。
「……何?」
「大人しくて、従順で、惨めな"婚約者"が欲しかったのでしょう?」
鼻で笑う。
「最初に"被害者面"を振り翳してきたのはそちらでしょうに」
「貴様……ッ」
ジュリアンの顔が怒りに染まった。握り締めた拳が小さく震え、今にも感情を爆発させそうに見える。
彼の手がわずかに動き、今にも私を掴み上げようとしたのかもしれない。
その時だった。
渡り廊下の向こうから生徒たちの話し声が聞こえてきた。明るい笑い声、足音。数人の生徒がこちらへ近づいてくる。
私はハッと息を呑み、咄嗟に顔を俯けた。
「申し訳ありません……っ!」
震える声で叫ぶように言い、深く腰を折った。謝罪の言葉が喉の奥から迸るように溢れ出す。
「っ……」
ジュリアンが息を呑む気配がした。
渡り廊下を通り過ぎる生徒たちの視線がこちらに注がれる。驚き、戸惑い、そして興味。その誰もが、頭を深々と下げる私の姿を目にし、口を閉ざした。
「私が至らないばかりに、ご無礼を……本当に申し訳ありません……!」
両手でスカートの裾を握り締め、頭を下げたまま必死に声を絞り出す。震えは全身を駆け抜け、背筋を強張らせる。
渡り廊下の空気がざわついた。遠巻きに見ていた生徒たちが驚いたように互いに顔を見合わせ、何事かと囁き合っているのが耳に届く。
ジュリアンの表情が、一瞬だけ歪んだ。怒りなのか、狼狽なのか、あるいは苛立ちか。だが彼はすぐにそれを抑え込み、咳払いをひとつして取り繕う。
「……気にしなくていい。セリーヌ嬢は、少し思い詰めているようだ」
彼の声は柔らかさを装っていた。だがその裏に隠された緊張は隠しきれない。先ほどまでの怒気を押し殺し、周囲の耳目を誤魔化そうとする言葉だった。
「僕も移動があるから。……では」
短く言い捨てると、彼は背を向けた。金色の髪が渡り廊下の風に揺れ、背中が遠ざかる。
私は深々と頭を下げたまま、その背中を視界の隅で追った。




