03
学園の正門前は、いつも以上に騒がしかった。
登校の時間帯は、令嬢と令息が華やかに行き交うひとときである。絹のリボンや金糸の刺繍をあしらった制服が朝日にきらめき、甘やかな香水の匂いとともに、笑い声や挨拶の声が石畳に反響していた。
学園の石畳に、公爵家の紋章を掲げた馬車の車輪が止まった瞬間、周囲の視線が一斉にこちらへと吸い寄せられた。
最初に姿を現したのはジュリアン。流れるような動作で馬車を降り立ち、朝陽を背に立つ姿はまるで舞台の主役のようだった。金の髪が光を受けて輝き、微笑を浮かべたその顔に、周囲から溜め息が漏れる。
人々の視線をさらった彼の隣に続いたのは、マリーベル。柔らかな笑みを浮かべ、裾を優雅に揺らして降り立つ。ペールブラウンの髪を指先で払う彼女の仕草一つにも、洗練された優美さを纏っていた。
二人が並んで立つ姿は、まるで絵画の中から抜け出してきたように整っていて、周囲の誰もが思わず息を呑んだ。
──そして。
二人の後から従者に手を借りて私が馬車から降り立った瞬間。ざわめきの方向が一変した。
「えっ……? どなたかしら……」
「あの方、どうして一緒に?」
「確か、子爵令嬢の……」
驚きと戸惑いが混じった声が次々と飛び交い、耳を刺した。私に注がれるのは戸惑いと疑念の色を帯びた好奇の視線。
「ご紹介しますわ!」
その時。まるでこの瞬間を待っていたかのように、マリーベルが弾むような声で言った。
「こちらはフロルベルク子爵家のセリーヌ様! ジュリアンお兄様と、ご婚約されたの!」
驚きと羨望の声が重なり合い、周囲の視線は一層鋭さを増す。
ジュリアン・ヴァルトハイムの婚約者。その言葉が人々の心を刺激するのを肌で感じた。注がれる好奇の光は容赦がない。その光景は、私を品定めする舞台の観客席にも似ていた。
マリーベルはぱっと私のもとに歩み寄り、ためらいもなく肩を抱き寄せる。
わずかに力を込められたその腕に引き寄せられ、私は咄嗟に身体を硬直させた。
「……っ」
ビクッと肩が跳ねる。喉から小さく「あ」と声が零れた。けれど言葉にはならない。
私は視線を泳がせた。周囲を、必死に逃げ場を探す小動物のように。
耐えきれず、私は小さく首を竦め、痛みに堪えるように顔を伏せた。長い睫毛の影に隠しながら、悲痛な表情を作り──そっと、唇を噛む。
「……」
声にならない。
けれど、誰もが"怖がっている""無理をしている"と受け取る仕草。
マリーベルの手は、相変わらず甘やかに肩を抱いたまま。だが、私が怯える姿に気づいた周囲の数名が、ひそひそとささやきを漏らす。
「……あの子、嫌がっているように見えないか?」
「公爵家から婚約を請われたんでしょう? 堂々となさればいいのに」
肩を抱かれたまま、周囲の生徒たちの視線を浴びて立ち尽くす。視界の端で誰も彼もがこちらを窺っているのが分かる。
「セリーヌ様って、あまり目立つ方じゃなかったわよね……」
「あんなに怯えた顔を……」
「公爵家に嫁ぐのに、ずいぶん自信なさげだわ」
「でもあれ、周囲というより……マリーベル嬢の様子を窺っていません?」
好奇と憐憫が混じった囁きが流れていき、少しずつ色を変えていく。私はその気配を感じながら、俯いたまま瞳を震わせた。
──ここで必要なのは、言葉ではない。
マリーベルの腕に抱かれたまま、私は俯きかすかに震え続け、唇の端に哀しみの影を残した。
その仕草に気づいたのか、マリーベルは少し大げさに肩を揺すって、甘やかすような声を上げた。
「や、やだ……セリーヌ様ったら。そんなに緊張しなくて良いのよ。私たち、いずれ家族になるんですもの」
わざとらしい声色。周囲に聞こえるように響く柔らかさ。
柔らかく、親しげで、まるで「仲の良い姉妹」を演じているかのよう。
けれど次の瞬間、彼女は唇だけを動かして私の耳元へと顔を寄せた。
花のように甘い微笑みを浮かべながら、吐息が耳朶に触れる距離で囁く。
「──ちょっと。変な態度取るんじゃないわよ」
低く鋭い囁き。
親しげに寄り添うふりをして、耳元へ突き刺す刃。
「ここで泣き顔を見せても誰も同情なんてしないわ。余計みっともないだけ。お分かり?」
わざと指先で肩をぎゅ、と掴まれる。ぞわりと背筋を走る痛みと、彼女の圧の強さに、私はわずかに息を呑んだ。
──その瞬間。
「ひっ──!」
堪え切れず、小さな悲鳴が喉から零れた。
周囲のざわめきが一瞬にして止まる。視線が一斉にこちらへ集中し、空気が張り詰める。
「……っ、ご、ごめんなさい! も、申し訳ありません……!」
胸の前で両手を重ね、肩を縮めて震える。
何に謝っているのか分からない。けれど怯えた私の姿が、周囲には確かに映っただろう。空気が一瞬にして揺らぐのが分かる。
「なに、どうしたの……?」
「今、マリーベル様に何か言われていたように見えたが……」
広場にざわざわとした不穏が走る。
訝しむ声、同情めいた視線。不穏な気配がじわじわと広がっていく。
マリーベルは一瞬、表情を凍らせた。だが、すぐに困った顔を作ってみせ、周囲に向けて心配している仮面を取り戻す。
「セリーヌ様……そんな、謝らなくても……」
その演技が空々しいことに、気づいた者はいただろうか。少なくとも、私には彼女の声がわずかに震えているのが分かった。焦りの色を隠し切れていない。
そのとき、ジュリアン様が咳払いをして沈んだ空気を押し戻そうと口を開いた。
「どうやらセリーヌ嬢は緊張しているようだ。皆も、彼女を責めないでやってほしい」
取り繕う声音。けれど、その言葉はどこか一方的で、私の怯えを否定することはできなかった。
事実、周囲には「緊張であんな風になるだろうか?」という疑問の色が漂っている。
私は相変わらず小さく震えながら、俯いたまま囁いた。
「……ご、ごめんなさい……」
あえて震えを混ぜ、声を掠れさせながら、それだけを繰り返す。
「謝らなければならない立場なのだ」と、周囲に示すために。
好奇心はやがて憐憫に変わり、空気を微妙に歪めていく。
誰かの呟きが共鳴し、同情の眼差しが確かに芽生え始める。
公爵家の威光の下で無条件に持ち上げられるはずの婚約者に、別の色が塗り重ねられていく瞬間だった。
そのとき──学園の塔から、朝の予鈴が響いた。始業を告げる荘厳な音色が、緊張に満ちた空気を切り裂く。
澄んだ鐘の音が校庭に広がり、群がっていた生徒たちは名残惜しげに、それでも散っていく。
けれど空気に残されたものは、まだ消えてはいなかった。
マリーベルが私の肩から腕を放したとき、彼女の笑顔はひどく引きつって見えた。
「さあ、行きましょう、お兄様。授業に遅れてしまうわ」
「……ああ」
ジュリアンは短く答え、先を歩き出す。
私はその背を追いかける形となった。
残されたのは、未だに微妙な雰囲気の中に置かれた生徒たち。
何人かは首を傾げ、何人かは怪訝そうに、また何人かは私にちらりと同情の目を向けていた。
ひそひそと交わされる声が、背後から追いかけてくる。
「婚約って、やっぱり政略なのね」
「……本当に仲が良いのかしら」
「でも、フロルベルク嬢のあの様子……」
私は深く俯いたまま、そっと吐息を殺す。
胸の奥で微かな笑みが広がっていくのを、自分だけが知っていた。
──いいわ。この程度でいい。
鐘の音が完全に消える頃、私は一度だけマリーベルの横顔を見やった。
彼女の頬に浮かぶ微かな焦りの色を、心の中でそっと噛み締めながら。




