02
マリーベル。彼女はヴァルトハイム公爵家の分家にあたる家の令嬢であり、ジュリアンの従妹。
公爵の弟の娘だが、本妻の娘ではない。愛人の男爵令嬢に産ませた庶子である。
弟君は公爵家が所有する伯爵位を継ぎ、家の繁栄のために選ばれた本妻と政略結婚をした。しかし若き日の恋人であった男爵令嬢への執心を断ち切れず、結婚後も密かに関係を続けていたらしい。
本妻からすればその結果生まれたマリーベルの存在は許し難いものであり、彼女を徹底的に疎む理由となった。
後から調べたところ、ヴァルトハイム公爵は、弟の恋人であったその男爵令嬢に横恋慕していたという噂もあり……。
真偽の程は定かではないが、いずれにせよ、公爵家とその弟の間で取り交わされた思惑の末、マリーベルは幼い頃に公爵邸に引き取られた。そこで彼女は従兄であるジュリアンと兄妹のように育てられてきたという。
もっとも、兄妹というには距離が近すぎたが。
どう考えても醜聞だが、人の口の端に上るとき、この話は美談の形を取る。
高位貴族の虚飾とはそういうものだ。
マリーベルは実父に認知はされているが、伯爵家に籍はない。母の男爵令嬢も、実家は既に彼女の兄が継いでおり、切り離された彼女はすでに"男爵令嬢"ではなく……。
しかし公爵家という大樹の陰に守られて育った彼女は、誰からも可愛がられて育ったのだろう。気まぐれに甘えるように振る舞っても許され、奔放な態度を叱責されることもない。
あの艶やかな金茶の巻き髪と、人形のように整った顔立ち。加えて、愛らしいと評される振る舞いを自身で心得ている──。
つまり、彼女は公爵家においても周囲においても、誰も逆らえぬ「可憐なる乙女」だった。
夕刻。公爵邸を辞した私は、馬車に揺られて帰路につきながら、両親に一部始終を報告した。
母は目を見開き、父は苦々しく眉を寄せる。
「申し訳ない、セリーヌ。お前を……そんな立場に」
父の低い声は震えていた。普段は落ち着き払った人なのに、感情を隠せていない。
母も唇を噛みしめながら、私の手を強く握った。
「でも、まだ──」
母が口にしたのを、父が首を横に振って制した。
「無理だ。契約は既に交わされた。我が家への経済的支援を盾に、こちらからの破棄は認めぬと念押しされている。破棄を申し出れば、我らの有責とされ、多額の慰謝料を請求されるだろう……子爵家では到底払えぬ額だ」
父の言葉に、母は肩を落とす。
婚約についての取り決めが記された契約書の控えを父から受け取り、目を走らせる。
そこに記された支援額は確かに我が家にとっては破格ではあるが、公爵家の財政からすれば微々たる出費だ。この程度の金で"奴隷"を買えるなら安い買い物とでも思っているのだろう。
白い結婚に関しての条文もある。婚姻後三年以内に子が出来なければ離縁、というのはまだ、一般的な条件の範疇だが……私が公爵家を出る際に与えられる補償の記載がない。普通は屋敷や資産など、財産の一部を分与する取り決めがあるはずのそれが、ない。
はっきりとは言わないが私側の有責、とでも言いたげな条件だ。白い結婚と言っているのはあちらだというのに。
婚姻に付随する契約については、未だ子息の立場でしかないジュリアンが勝手にどうこう出来る範囲ではない。この件は公爵閣下も同意の上でのことなのだろう。
王国法では従兄妹同士の婚姻は禁止されていない。が、血が近いためにあまり歓迎はされない。
政略上必要な状況であれば受け入れられるが、そういった理由がなくば眉を顰められることもある。公爵家はそれを厭ったようだ。
その結果が、マリーベルを彼女の母と同じ立場に立たせることなのだが……"真実の愛"がある方が上だとでも思っているのだろうな。
この婚約は最初から、公爵家の思惑で仕組まれた「取引」だったのだ。
私がどういう人間であろうと関係ない。公爵家は一方的に利益を得て、子爵家はその庇護を受ける代わりに娘を差し出す。ただそれだけ。
私に許されるのは「婚約者」という飾り札をぶら下げ、彼らの都合に従順であること。
私はただのお飾りに過ぎない。
私は俯く母の手を取り直し、ゆっくりと微笑んでみせた。
──そう、ここで私が泣き崩れたりしてはならない。両親に余計な負担を背負わせてしまうだけだ。
「大丈夫よお母様。私は……大丈夫」
できるだけ明るい声で告げると、母が潤んだ目で私を見つめた。父もまた、苦しげに目を伏せ、拳を固く握りしめる。父の手の甲に浮かんだ血管を見て、どれほど無念に思っているかを悟る。
公爵家を敵に回せば、将来家を継ぐ弟が苦労することになる。フロルベルク家の未来を考えると、私の為にと無茶なことは出来ない。
だが、両親が私を大切に思ってくれていることは、私が一番よくわかっている。家族に迷惑をかけることは、私だって望んでいない。
胸の奥では、先ほどのマリーベルの言葉と、ジュリアン様の冷たい視線が何度も蘇っていた。
何もしていない私に、勝手に怯え、勝手に責める。公爵家の人間は、そんな理不尽さを当然と思っているのだろう。
彼らにとって私など、替えの利く一駒に過ぎないのだ。
けれど、私は心の中でゆっくりと吐息をつき、口元にさらに笑みを深めた。
「どうとでもなりますわ。ええ、私なら──」
翌朝。
公爵家からの使いが「学園までご一緒に」と告げに来た時点で、嫌な予感はしていた。
まだ朝靄の残る庭先、玄関先に止められた立派な馬車を見た瞬間、その予感はさらに濃くなる。わざわざ公爵家の紋章を掲げた、目立つ仕様の馬車。学園に向かえば当然、人々の注目を浴びるだろう。
そして案の定、迎えに来た馬車の中には、ジュリアンの隣にちょこんと座るマリーベルの姿があった。
学園には優秀な平民が特待生として、或いは貴族からの推薦と寄付金で入学することもある。マリーベルは公爵家で貴族子女として遜色ない教育を受けているそうだ。特待生でも合格しそうなものだが、公爵の推薦で入ったらしい。
「おはようございます、セリーヌ様」
彼女は白薔薇の髪飾りをあしらった頭を傾け、艶やかに微笑みわざとらしく柔らかい声を響かせる。表向きは礼を失しない挨拶だが、その奥に潜む優越感を私は見逃さない。
「……おはようございます、マリーベル様」
私が礼を返すや否や、ジュリアン様が軽く手を上げる。
「時間が押している、乗れ」
ああ、相変わらず素っ気ない。昨日もそうだったが、彼は人前でないと私に優しくしてくださらないらしい。
扉を開けてくれた御者の視線を背にして立ち尽くすわけにもいかず、私は小さく息をつき、馬車へと乗り込んだ。
向かい合った二つの座席には、すでに彼とマリーベル嬢が並んで腰かけており、私はその向かいに座るしかなかった。婚約者として迎えられたはずの私の隣には、空いた席しかない。
私が座ると、自然と向かい合う形になる──つまり、二人の"仲睦まじい様子"を否応なく見せつけられる席だ。
馬車が軋みを上げて走り出すと、予想通りの光景が繰り広げられた。
彼らは隣り合い、肩が触れそうな距離で談笑を始める。マリーベルは楽しげに笑い、時折ジュリアンの袖をつまみ、小鳥のように首を傾げて甘える。
「ねえ、ジュール様。昨日お話しした新しい香油、覚えていらっしゃる?」
「もちろんだ。君の香りはどんな花よりも印象的だから」
その声音は、私に向けられたときとは違う。柔らかく、甘やかすような響きだった。
その言葉にマリーベルは小さく頬を染め、嬉しげに彼の腕に絡みついた。ジュリアンはそれを咎めることもなく、当たり前のように彼女を受け入れて微笑む。
……これ見よがしだ。
わざわざ私を迎えに来ておいて、向かいで婚約者を無視するかのように堂々と戯れる。
マリーベルはちらちらと私の方へ視線を向け、そのたびに更に甘えた声音を強めた。私を挑発するためだけに、わざと彼の肩へ頬を寄せているのだと、嫌でも察せられる。
二人の会話を聞き流していると、不意にマリーベルの声音が落ちた。
「──でも、私、怖いわ……。セリーヌ様に嫉妬されて、また何か……」
そう言って、震えるようにジュリアンへ身を寄せる。その仕草は一見か弱い令嬢のものだが、瞬間、私を射抜いた眼差しには、勝ち誇る光が宿っていた。
ジュリアンの視線が、冷ややかに私へと向かう気配がした。その瞳に宿るのは、ただ煩わしげな拒絶の色。
「マリーベル、大丈夫だ。私が必ず君を守るよ。セリーヌには己の立場をきちんと理解して貰うから」
どうやら、関係改善はあり得ないらしい。あるのはただ、マリーベルを守り抜くという決意と、私を牽制する冷酷な響きだけ。内心で溜め息を吐く。
──なるほど。これは示威だ。
公爵家がどういう構図を望んでいるのか、私に刻みつけようとしている。
私は膝の上で指を組み、ただ窓の外を見つめることにした。
余計な言葉を口にすれば「無礼」となる。感情を露わにすれば「嫉妬」と笑われる。
ならば、表情を変えずに受け流すのが最善だろう。




