01
私、フロルベルク子爵家長女セリーヌは、この度ヴァルトハイム公爵家長男であるジュリアン様との婚約が決まりました。
ジュリアン様といえば、輝かしい金髪に端正な顔立ち、両の瞳に煌めく二つのエメラルド……と、絵画から抜け出したような華やかなご容姿で、学園でもご令嬢方に人気の的。誰もが羨むような人物です。
……とはいえ、めでたき事とは限らない。
なにせ彼は公爵家の嫡男。家格が離れすぎている。
学園では二つ上の先輩で、高位貴族ばかりが集うクラスの所属。私はといえば、低位貴族の所属するクラスの後輩。接点などない。
今まで直接会話をしたことなど一度もなく、もしかしたら昼食時に見かけられたことくらいはあったかもしれないが、それで見初められるほど私は大層な容姿を持ち合わせてはいない。
真っ直ぐなフォグブルーの髪に同系色の瞳という色を持ち、顔立ちにも華やかさはない。
もし仮に「この系統が好み」などという話だとしても、高位クラスには私より整った同系統のご令嬢がいくらでもいるのだから、そちらへ向かえばよろしいのだ。
……よっぽど特殊な性癖をお持ちでもなければ、碌な理由があるとは思えない。いや、よっぽど特殊な性癖もそもそも碌な理由じゃないが。
とはいえ、由緒正しい公爵家と、零細もいいところの子爵家。あちらから「是非に」と請われた申し出を、我が家に断れるはずもなかった。
そして本日。お日柄も良き日に、正式な婚約を交わすため、私と両親は公爵家の屋敷に招かれた。
迎え入れられた玄関ホールは、大聖堂を思わせるほど高い天井に光を透かすステンドグラスが嵌め込まれ、磨き上げられた大理石の床は私の顔を映しそうなほど。庭園を彩る花々の香りさえ漂ってくる気がした。
これが公爵家の格式か、といやでも思い知らされる。
肝心の契約の詳細は大人同士の取り決め、ということで、両親方は応接室へ。
私の役目は、婚約者同士の顔合わせと、体裁を整えるための「お散歩」だった。
庭園自体は見事だった。噴水の縁には白百合と薔薇が咲き誇り、緩やかな小径には異国から取り寄せたらしい樹木が影を落としている。鳥籠の中では珍しい小鳥がさえずり、遠目には理想的な夢の庭だ。
……庭園は素晴らしい。それはいい。
ただその中を歩く私の隣で、当の婚約者がほとんど口を開かず、ちらと視線を寄越すたびに微妙に距離を空けているのは──どうなのだろうか。
両親や使用人の前ではあれほどにこやかだったのに、二人きりになった途端にこの有様。
胸の奥で小さくため息をつきながら、私は咲き乱れる薔薇を見上げた。
めでたいはずの婚約の始まりは、どうにも不穏な気配に満ちている。
薔薇のアーチをくぐったあたりで、ふいに柔らかい声が響いた。
「まあ、ジュール様。お庭を散策なさっていたのですね」
振り向くと、薄桃色のドレスを纏った少女が立っていた。
ペールブラウンの髪をゆるく巻き、陽の光を受けてほんのり金のように輝く。
ぱっと見には楚々とした愛らしさがあるが、整いすぎた笑みとわざとらしい仕草が、かえって計算高さを滲ませていた。
「お忙しいのに、お散歩している時間があるなんて……私、少し安心しましたわ」
「マリーベル。君も散歩かい?」
「えぇ、今日は気持ちの良いお天気ですから」
ジュリアン様は驚くでもなく、むしろほっとしたように笑みを見せる。そして自然な仕草で、彼女の手を自分の腕に絡ませるよう導いた。
……いや、導くというより、日常の一幕なのだろう。二人の呼吸はあまりに馴染んでいて、私など最初から存在しなかったかのように見えた。
「紹介しよう、セリーヌ。彼女はマリーベル、私の従妹だ」
「……フロルベルク子爵家のセリーヌ様でいらっしゃいますのね。噂はかねがね」
マリーベル嬢は微笑みながら軽く会釈した。彼女は堂々とした足取りで近寄り、そのまま当然のようにジュリアン様の腕へ手を添えた。
けれど、そのペリドット色の瞳が私を映すとき、底の方に冷たい光が瞬くのを見逃さなかった。
彼女は、わざとらしくジュリアン様へ身を寄せる。
「それにしても……婚約者様と並んで歩かれるなんて、素敵ですわね。でもジュール様、本当によろしかったの? だって……」
「心配はいらないよ、マリーベル」
彼は私ではなく、マリーベルへと向き直る。
笑みを湛えながら、軽い調子で言い放った。
「これは表向きの婚約だからね」
……何、と息を呑む。
「婚姻は貴族の体裁として必要だが、実際の夫婦生活を強いるつもりはない。白い結婚にする。セリーヌも理解してくれるだろう。私に必要なのは君だけだよ、マリーベル」
「まあ……ジュール様はやはりお優しいわ」
マリーベル嬢は頬を赤らめ、恍惚としたように彼の腕へさらに身を寄せた。
二人の姿は、婚約者の私よりよほど恋人めいて見える。
……理解してくれるだろう、ですって? 誰が? 私が?
一方的に突き付けられたその言葉に、心臓が軋む。反論の言葉は喉までこみ上げては消え、吐き出される前に凍りついてしまった。
けれど私は何も言えず、ただ薔薇の影に沈む。
口を開いたところで、この口ぶりだ。どうせ「子爵令嬢の分際で」と切り捨てられるに違いない。
「では私たちはこの辺で失礼しよう。セリーヌ、屋敷に戻る道はわかるね?」
「……はい」
私が答えるより先に、ジュリアン様はマリーベル嬢の腰へ手を添え、親しげに寄り添ったまま歩き出した。赤と白の薔薇が作る回廊を、二人はまるで祝福される恋人のように進んでいく。
まるで私が背景の一部であるかのように。
そのすれ違いざま、マリーベル嬢が小声で囁く。
「子爵令嬢風情が公爵家に嫁いで幸せになれるだなんて、本気で信じていたの? 滑稽だわ」
吐息に紛れるほどの音量。けれど私にははっきり聞こえた。
耳の奥に針を突き立てられたようで、思わず振り向き、その顔を見据える。
次の瞬間、マリーベル嬢が小さく悲鳴をあげた。
「ひっ……こ、怖い……!」
わざとらしく肩を震わせ、ジュリアン様の腕にしがみつく。
大げさなほど涙目を作り、私の視線に怯えるふりをしてみせた。完璧な「被害者」の姿で。
「マリーベル! どうした?」
ジュリアン様の声音には即座に焦りと怒りが混じり、彼女を庇うように抱き寄せる。
「セリーヌ様が、私を睨みつけてきて……怖いわ、ジュール様……!」
「セリーヌ!」
ジュリアン様の声が鋭く響いた。エメラルドの瞳が冷ややかに私を射抜く。
「私の愛する者に向かって、なんという態度をとるのだ。マリーベルを威圧するなど許されない!」
「私は……ただ」
「言い訳は聞かない。君が身分に見合わぬ立場を得たことを自覚するんだ。これ以上マリーベルを困らせるような真似は、絶対にするな」
冷たい叱責が、薔薇の庭に落ちる。薔薇の花々がその震えを受け止めるかのようにざわめいたように見えた。
二人は再び並んで歩き出す。庭園の奥へと消えていく背中は、寄り添う恋人同士そのもの。
私は視線を逸らすことも、足を踏み出すこともできず、ただ彼らが去っていく後ろ姿を見送る。
胸の奥に沈んだ石は、もう冷たいまま音を立てることもなく、ただ重さだけを増していった。
……本当に、碌な理由じゃなかった。
花の香りは甘やかに漂うのに、心の奥底から冷たいものが滲んでいた。