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契約

冷たい雨が石畳を打つ音が、夜の都に響いていた。

天武暦五十三年、秋。都の裏通りで、男は町屋の軒下に身を寄せて立っていた。深編笠を被り、腰には大小二本の刀を差している。雨音に紛れて足音を殺し、静かに呼吸を整える。獣人の鋭敏な嗅覚が、湿った空気の向こうに人の匂いを嗅ぎ分けていた。

足音が近づく。草履が石畳を踏む音。相手も用心深く歩いているが、宗剣の耳は逃さない。

「不知火殿か」

声をかけたのは、商人風の身なりをした中年男だった。だが袖口から見える手の甲に古い刀傷があり、帯刀の癖で腰が据わっている。薩洲藩か長門藩の討幕派志士が身分を隠しているのだろう。

「依頼の件で参った」

深編笠の男――不知火宗剣は、ゆっくりと顔を上げた。笠の影から覗く顔は二十代半ば、平民らしい親しみやすい骨格をしている。だが、その両目は白く濁り、瞳孔が開いたまま動かない。先天的な盲目ではなく、後天的に光を失った目だった。

「話を聞こう」

宗剣の声は感情を殺した職人のように平坦だった。人を殺すことに慣れきった、冷徹な響きがある。

料亭の奥座敷。畳の上に正座した二人の間に、茶が置かれている。宗剣は茶碗の位置を音と香りで正確に把握し、一切迷わずに手を伸ばした。

「標的は橘右京介。幕府京都所司代配下の密偵頭で、我ら討幕派の動向を探る男だ。都見廻組や誠志隊とも繋がりがある」

中年男は懐から巻物を取り出したが、宗剣は手を伸ばさない。見えないのだから当然だ。

「三日後、月見の宴で東の離宮に現れる。その時を狙っていただきたい」

「報酬は?」

「煌貨三十大煌。前金として十大煌を」

「理由は聞かん。警備の詳細を教えろ」

中年男は僅かに眉をひそめた。標的への情も、依頼の背景も一切問わない。まさに噂通りの冷血漢だった。

「離宮には幕府の与力や同心が十名。うち三名は魔力使い、一名は聖力の使い手と聞く。橘自身も相当な腕前で、流派は柳生新陰流。実戦経験も豊富で――」

「構わん」

宗剣は茶碗を畳に置いた。音もなく、完璧に元の位置に戻す。立ち上がる時も膝を畳に擦らせない。長年の鍛錬で身につけた無音の技術だった。

「三日後の夜更け、橘右京介は死んでいる。それで良いな?」

煌貨の入った袋を差し出されると、宗剣は中身を指先で確認した。金属の重さ、硬さ、音の響き。偽物を掴まされる危険は常にある。

三日後。月見の宴は華やかに催されていた。離宮の庭園には雪洞が灯され、公卿や旗本たちが酒を酌み交わしている。警備の与力や同心は要所に配置されているが、宴の雰囲気に気を取られ、注意が散漫になっている。

宗剣は離宮の外塀に身を潜めていた。深編笠は既に脱ぎ捨て、黒装束に身を包んでいる。足袋の底は柔らかな鹿革製で、音を完全に殺すために職人に特注させたものだった。

盲目の両眼を閉じ、命気の流れに意識を集中させる。風が運ぶ匂い――酒、料理、香、そして人の汗と緊張の匂い。地面を伝う振動――足音のリズムで相手の武術経験と警戒度がわかる。すり足で歩く者は剣術の心得がある。がに股で歩く者は実戦慣れしていない。空気の微細な動き――呼吸の乱れ、心拍の高まりまで読み取れる。

宗剣にとって、暗闇は昼間よりも遥かに多くの情報をもたらしてくれた。

塀に手をかけ、指先で石の表面を探る。苔の生え方で湿気の具合を読み、足をかける場所を慎重に選ぶ。音もなく塀を越える。着地の瞬間はつま先から徐々に体重をかけ、踵を地面に着ける前に次の歩を進める。忍びの基本歩法――抜き足差し足忍び足。

庭園の東屋で、一人の男が月を眺めている。他の宴客とは明らかに違う、研ぎ澄まされた殺気。呼吸が深く規則正しく、姿勢に隙がない。武術の達人特有の静寂がそこにあった。橘右京介に間違いない。

宗剣は庭石の配置を足裏で確認しながら、一歩一歩慎重に東屋に向かう。枯れ葉を踏まないよう、枝に触れないよう。獣人の血が混じった聴覚が、自分の衣擦れの音まで拾い上げる。

警備の同心が二名、東屋の左右に配置されている。だが宗剣の接近には全く気づかない。東屋まで残り十歩。宗剣の心拍は平常のままだった。殺しに興奮など不要だ。むしろ冷静さを欠けば命取りになる。

残り五歩。橘の呼吸パターンを読む。深く、規則正しい。油断はしていないが、まだ危険を察知していない。残り三歩。宗剣の右手が、ゆっくりと刀の柄に添えられた。残り一歩――

「何者だ!」

橘右京介が振り返った。さすがは密偵頭、殺気を察知したか。だが――遅い。

宗剣の抜刀は雷光のように速かった。鞘から刃が走る軌道は完璧に計算され、橘の頸動脈を狙う。だが橘も只者ではない。体を捻りながら脇差を抜き、間一髪で刃を受け止めた。金属同士がぶつかる甲高い響き。

「盲目の暗殺者...まさか天眼盲狐の不知火か!」

宗剣は答えない。刃を引き、間髪入れずに二撃目を放つ。橘は後退しながら受け流すが、宗剣の剣筋は異常だった。目が見えないにも関わらず、まるで相手の動きを先読みしているかのような精密さで急所を狙ってくる。

命気の流れを読んでいるのだ。人間の動作は筋肉の収縮から始まる。その瞬間の命気の微細な変化を感じ取れば、次の動きを予測できる。これが宗剣の「天眼」と呼ばれる能力だった。

三撃目。橘の左脇腹を狙った突き。橘は脇差で払おうとするが、宗剣の刀は軌道を変えて右肩に向かう。完璧なフェイントだった。

「ぐっ!」

橘の右肩に浅く刃が食い込む。だが致命傷ではない。橘は痛みを堪えながら反撃に転じた。脇差で宗剣の左脇を狙う――だが宗剣は既にそこにいなかった。

体を沈め、橘の懐に一気に入り込む。そして左手で橘の右手首を掴み、同時に右手の刀で心臓を貫いた。

「が...あ...」

橘右京介は、月光の下で静かに絶命した。宗剣は刀を引き抜くと、血振りをして鞘に納める。一連の動作に無駄がない。そして感情もない。

「侵入者だ!東屋に!」

警備の与力・同心たちが駆けつけた時、そこには橘の亡骸があるだけだった。宗剣は既に庭園を離れ、塀を越えて夜の闇に消えている。足音ひとつ立てずに。

逃走路は事前に三つ用意してあった。今夜は風向きと警備の配置から、北の路地を選択した。依頼は完了。標的は死に、自分は無傷で逃走を果たした。それだけのことだった。

橘がどのような男だったのか、家族がいたのか、なぜ殺されねばならなかったのか――そんなことは宗剣には関係ない。宗剣の脳裏に、橘の最期の表情が一瞬浮かんだ。驚愕と恐怖、そして僅かな悔恨。だが、その感情を即座に押し殺す。感情は殺しの邪魔になる。不知火宗剣は、そう自分に言い聞かせた。

翌日。宗剣は依頼主と再び料亭で会った。

「見事だった。橘の死で、幕府の都における討幕派監視網は大きな打撃を受ける。我ら薩洲・長門の同志も動きやすくなろう」

中年男は満足そうに微笑んだ。だが宗剣の表情は石のように動かない。

「残りの煌貨二十大煌だ」

煌貨を受け取る時、宗剣の指先が一瞬震えた。橘の血の感触がまだ残っているような気がした。温かく、粘り気があり、鉄の匂いがした。だが、それも一瞬のことだった。

「次の仕事があれば、また呼んでくれ」

「ああ、頼りにしている。あなたのような職人は貴重だ」

職人――そう呼ばれることに、宗剣は僅かな複雑さを感じた。だがそれも表には出さない。

宗剣は立ち上がると、すり足で座敷を出て行く。

中年男は、その後ろ姿を見送りながらつぶやいた。

「完璧な殺し屋だ...だが、心を殺しすぎている」

外では雨がまた降り始めていた。宗剣は雨の中を歩きながら、橘右京介の血が刀に付着した時の感覚を思い出していた。人の命の重さを、血の重さで計っているのだろうか。そんな考えが脳裏をよぎったが、すぐに振り払った。

感情など、この稼業には必要ない。不知火宗剣は、雨音に紛れて足音を殺しながら、暗闇の中を歩き続けた。

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