アリスよ、何処に
叔父と会ったのは十八年前の父の葬儀が最期だった。私と叔父はその当時から疎遠で、通夜でさえ一つ二つ言葉を交わしただけで碌に会話もしない程のものだった。人を寄せ付けない雰囲気を纏い、私以外の人物にも声を掛ける素振りもない。その時の叔父の印象は良く言えば寡黙で、悪く言えば何を考えているか分からない人間だった。確かに容貌は兄である父と似ていたが、印象は全く正反対であり、血を分けた二人がこんなにも違うのは私も少し驚いてしまった。
以来叔父とは一度も顔を合わせていなかったので、行方不明だということを聞いた時は、最初のうちは現実感を持てなかった。長い年月が血の繋がりさえ希薄にさせたからだろうか、私が叔父に対して無感動だったのは仕方のないことだったのかもしれない。この非常事態とも言える出来事を教えてくれたのは、叔父の雇っていた家政婦だった。しかし、その連絡は私に言い知れぬ不安を招くものだった。電話を通して家政婦の声を聞いただけなのだが、家政婦は自分の雇い主が消えてしまったというのに、いささかも興奮しておらず、むしろ安堵の声色を窺わせていたのだから。
私の心に不安が募り、すぐに叔父の家に赴くことを決心した。家政婦の言葉を鵜呑みにする訳ではないからこそ、確かめようと思ったのだ。本当に叔父は消えてしまったのか。もし真実であったならば家を探せば叔父の行き先が、家政婦の女にも告げずに家を出た理由が分かるかもしれない。そうでなくとも警察に捜索届けを出すにも、本当に叔父が消えてしまったのを確認してからと考えたからだ。
どの公共交通機関とも離れた、静かに隠棲生活を送り余生を費やすには最適な場所に叔父の家はある。場所は知っていたが、尋ねるのは今度が初めての筈だった。私は何日か滞在することを見越し、旅行鞄を用意して自動車で向かった。
道中はとても良いと言えるようなものではなかった。車が一台しか通れない道は舗装されておらず、タイヤが直に車体に振動を伝えて乗り心地を最悪にさせた。至る道は一本であり道に迷うことは甚だありえないが、視界はうっそうとした木々で埋め尽くされており、森があたかも一つの生命体として脈動しているかのようだった。その景色が絶え間なく続き、徐々に麻痺する感覚が私の心をざわめつかせている。本当に道が合っているのだろうかと考え始めるようになるが、私はアクセルを踏み続けた。
すっかり日は落ち、車のライトを点灯させなければ視界が見通せない程闇は立ち込め、夜鷹がけたたましく啼く頃になった時、家は唐突に姿を現れた。相当古びてしまっているが、間違いなく叔父の家に到着したことになる。当時は別荘の扱いだったそうだが、交通の便が悪いということもあり、使われなくなったのを叔父が隠棲のために住み込んでいたのだろう。私はこの家で使用されているものと思しき自動車の隣に駐車し、ドアを開けた。途端に土と独特な森林の臭いが混ざった空気が侵食する。私はトランクにあった荷物を持って玄関の前に立ち、扉を叩いてから暫くすると、出迎えたのは予想通りに女性だった。
「お待ちしておりました。長旅だったでしょうからお疲れでしょう。お食事を用意しております」
そして女性は自分がここで雇われている家政婦だと紹介した。持って来た荷物は案内された寝室に置き、食堂に通された。しかし家政婦は部屋に入ることなく「ごゆっくりとお寛ぎ下さいませ」と間髪入れず去ってしまった。
私は食事を平らげ、テーブルの上に乗った食後酒に手を伸ばしていた。グラスにブランデーを注ぎ、匂いと風味を楽しむ。もし叔父が居れば何を話していただろうか。だんだんとアルコールが回り曖昧模糊としてきた頭で考え込むが、そもそもほとんど接点もない叔父との会話を想像できない。それでも無理やりに叔父の人物像を組み上げるとすれば、父の言葉を思い出してしまうのは当然のことだろう。私の父は叔父のことを変人と言っていた。叶わぬ幻想を追いかける夢想家とも。なまじ人より才能があったばかりに、手が届くことを信じてしまった哀れな人間だと。何を夢見、願ったのかは父から何も聞かされなかったが。
この後はアルコールと疲れが眠りを誘い、夜鷹は相変わらず啼いていたにも関わらず、私は客用の寝室で眠りに落ちざるを得なかった。
夢に見た。その中で叔父は父の葬儀の際に着ていた喪服姿だったが、話しているようだった。本を持っている。表紙は可愛らしい女の子が描かれていた。何かの御伽噺だというのは分かっていた。私は聞いている。その世界に入り込みたい位に、それが好きだった。好きだったはずなのに今は――
普通とは異なる様子に促されて起床した。起きた時にはほとんど忘れてしまったけれども、奇妙でどこか懐かしい夢を見たのはアルコールに加え、慣れない環境で寝てしまった所為に違いないだろう。
あれ程五月蝿い夜鷹は去り、私の動作一つ一つに音が伴って、対比として早朝特有の静寂が際立たされている。私は食堂に行くと朝食が用意されていた。朝食を摂り終えるとすぐに行動を開始した。
家にある調度品のどれもに手入れが行き届いているのは、主人を無くした家政婦がきちんと仕事をしているからだろう。全体的に小ざっぱりしており、清潔感が漂っている。先程から家を見回っているのだが、家政婦が見当たらなかった。しかし当てもなく歩いている筈なのに、私は自然と吸い寄せられるようにある部屋に向かっていた。この道筋をまるで覚えているかのように迷いのない足取りが裏付けていた。込み上げる強烈な既視感に襲われ、目眩がしてくるようになり、断続的にノイズ混じりの映像を見せた。辿り着いたのは木製の扉だった。私の腰の高さに引っ掻いたような特徴的な傷が付いた扉には見覚えがあった――この傷は私が付けたものだ。
扉の向こうには書斎があるのを私は知っていた。入ってみれば叔父が集めていた蔵書が所狭しと並んでいた。しかし私はそこに違和感を覚え、まるで何かが欠落している感覚が体中を駆け巡った。その原因を書斎に求める内に、くたびれた手記を発見した。叔父が書いたものだろう――私はその内容に叔父が蒸発した手掛かりがあると思い、これを開いた。
「異なる世界がある、と言っても誰も信じてくれないだろう。しかし存在すると確信を持って言える。私は数ある虚実の中から真実を探し出した。錬金学という我々の科学とは異なる技術が体系化された世界を綴った『蕃界異郷の賛美者達』、探求者であるエイドニー・C・ミランズが失踪の際に残した記録を編纂した煌びやかたる『エイドニーの飽くなき踏破』、そして数学者であるチャールズ・ラトウィッジ・ドジソンが記した冒険譚を例として挙げよう。特にドジソンは少女趣味の小説家とも蔑まれているが、私がこの道を行くことを決心させた張本人であり、偉大な夢想家ランドルフ・カーターと同列に語るべき人物である。即ち、ドジソンはカーターと同様に異世界に赴き、その経験を元に冒険譚として世に残したのだ。それを分からぬ愚か者達はただの幻想文学と称したが、私にとっては至高の資料であり、究極の目標である」
それ以降は形而上学、物理学、数学、心理学、隠秘学、宗教学、数秘学などあらゆる分野を引き合いに出した文章が乱立していたが、余りに専門的すぎて半分も理解できなかった。そこで本棚が引用されている書籍で埋め尽くされているのに気付く。人目に憚れるような曰く付きの本もあれば、様々な秘儀が記された稀覯書や、技術革新により今では前時代の遺物として評価されているのもある。
「お早う御座います」
その声に振り返れば、家政婦が敷居越しに覗いていた。叔父は一体何を調べ、研究していたのか。私はこれを機に家政婦に問い質した。
「申し訳ありませんが、私は存じ上げません。機械部品の搬入を手伝ったこともありますが、浅学な私には用途の分からないものばかりでした。旦那様は私にその内容を仰られなかったのです。しかし一日に食事を一回も摂らない日もあり、食事する時間さえ惜しい程に、この研究に心血を注いでおられたようです。私は旦那様に常軌を逸した狂気を見て、お仕えさせて頂いている身ながら恐怖を覚えてしまい、旦那様が消えてしまった時は不謹慎ながら安心してしまいました。この度、貴方様にご連絡したのは旦那様のご要望でもあるからです。常々貴方様になら旦那様が行っていることをご理解頂けると仰っていました。旦那様が研究に没頭していたのはワインセラーを改造した地下室です。ご覧になりますか?」
家政婦の提案に乗り、早速私は地下室に向かった。案内されたのは廊下の行き止まりだと最初は思ったが実は床に扉があり、家政婦がそれを開くと、地下に続く階段が薄暗い口から覗いていた。
「私は地下室に立ち入ることは旦那様から禁じられています」
消えてしまった叔父の言いつけを頑なに守っているのか、それとも恐怖が先行しているのか判然としなかったが、思うに恐らく後者だろう。
一歩ずつ階段を降り終え、手の感触で電灯のスイッチを探し、それを付けると、不気味な部屋が視界に飛び込んできた。コンクリートで塗り固められた四方八方に二重三重の同心円が描かれ、円同士を繋ぐように不可解な角度を持った線が壁中に張り巡らされており、アルファベットとも似ても似つかない文字が書き連なれ、所々に電源の落ちた計測機器や用途不明の機械が配置されている。そしてある床の一つの円の中心にはある本が置かれていた。これこそがドジソンが記した冒険譚の初版本、幾人もの人間が奇怪な言語を訳すのに優秀な頭脳を悩ませた作品である。
私が覚えていた違和感の正体はこれだった。書斎にはこの本が欠けていたのだ。この家に私は来たことがあると断言できる。私はやっと理解した。
叔父の手記に殴り書きで書かれていた一文を思い出す。
「本を触媒に、無数の世界からこの世界を引き寄せ、繋げるのだ」
叔父はこの冒険譚に書かれていた世界に、ドジソンが行った世界に自分も行きたかったのだ。私も子供の頃にこの世界に行きたいと望んでいたことを、叔父は今まで覚えていたのだ。
一応、家政婦と共に家全体を探してみたが、叔父は居なかった。私の矮小な想像力の限りを尽くすならば――叔父は自分の望みである、ここではない全く別の法則が支配する世界に迎えられたのかも知れない。