第十六話:幻影との戦い
俺の心は、アスモデウスが作り出した偽りの幻影によって激しく揺さぶられていた。
セレスティーナ、エミリア、フローラ。最も愛する三人の姿を借りた幻影は、俺を甘い言葉で誘惑する。
しかし、俺の【神の恩寵:全知全能】は、それが偽物であると明確に告げていた。
「くくく……どうしました? 愛する者を傷つけることはできませんか? 愛する女の真贋さえ見分けられない……。勇者とはその程度の存在ですか?」
漆黒の影が、嘲笑うかのように膨張する。しかしアスモデウスは、俺が偽物だと見破っていることに気づいたのか、次の手を打ってきた。
偽物のフローラが、俺の頬に触れていた手をそっと離し、一転して冷酷な眼差しを向けてきた。
「勇者様……貴方には、失望いたしました。まさか、この世界の平和を、私たちを、己の欲望のために利用するとは……所詮あなたは私利私欲で己を満たすだけの存在……」
その言葉に、俺の胸がギシリと痛んだ。俺がこの世界で得た自己肯定感、それは人々の役に立つことで得られたものだった。それを、愛する人のひとり、フローラに否定される。
次に、偽物のエミリアが冷ややかに言い放った。
「あなた様は、結局、日本で誰からも必要とされなかった、あのろくでなしのままなのですね。偽物の愛でわたくしたちをだまし、女を己の快楽のはけ口にすることしか能のない下郎……。あなた様は男ではない、汚らわしい『雄』にすぎませんわ」
彼女の瞳は、まるで俺を心の芯から軽蔑しているかのように冷え切っていた。彼女の人生を変えたのは俺だ。もちろんその恩を着せるつもりは全くなく、俺は実際そうしなかった。エミリアに「利用しているだけ。快楽のはけ口」と言われるのは、これまで築き上げてきた全てが否定されるようだった。
「私は、王子様に騙されていました。王子様の力は確かに素晴らしいけれど、ご自身は、なんて身勝手な人間なのでしょう。王女である私を飾りにして、名誉欲や顕示欲を満たすことしか考えていなかったんですね? 私は王子様をずっと信じていたのに……この、屑……」
そして、偽物のセレスティーナが、涙を流しながら俺を面罵した。その言葉は、まるで鋭い刃物のように俺の心臓を抉り取った。無邪気に懐いてくれたセレスティーナが、俺を身勝手だと罵る。俺が守ろうとした彼女に、そんな風に思われていたのかと錯覚させる。さらに一言『屑』と吐き捨てる。
「ちがう……! ちがうんだ! やめてくれ、フローラ、エミリア、セレスティーナ……!」
俺は必死に反論しようとしたが、まともな声にならない。偽物だと分かっていても、あまりにも残酷で無慈悲な言葉の刃が、俺の心の奥底に眠る不安を容赦なくえぐり出す。日本でろくでなしだった自分。誰からも必要とされなかった自分。この異世界で得た自己肯定感は、チートで作り上げただけの、砂の城だったのか?
アスモデウスは、俺の心の揺らぎを感知し、さらに力を増していく。歓楽街の建物全体が、ねっとりとした欲望のオーラに包まれていく。
「ククク……どうです?己の真の姿を、直視できぬとでも? 貴様は、その力を手に入れたところで、所詮、孤独な存在。誰からも愛されることなどない……真実の愛を得ることなど叶わない……」
アスモデウスの声が、直接俺の脳内に響いてくる。俺の心を削り取る言葉の数々。
偽物のフローラが、俺の目の前で薄く笑った。
「勇者様、あなたがが私たちを救ったと? いいえ、あなたがが救ったのは、あなた自身のこころと欲求を満たすためでしょう」
偽物のエミリアが、嘲るように肩をすくめた。
「あなた様は所詮、たまたま授かった力に頼りきった、からっぽの男。真の英雄ではありませんわ」
偽物のセレスティーナは、顔を背けて涙を流す。
「王子様……あなたは、私を裏切った……!」
俺の心は、まさに子どもたちに飽きて蹴られた砂の城のように崩れていく。偽物だと、頭では分かっている。だが、彼女たちの姿で、最も恐れていた言葉を投げかけられるのは、あまりにも辛い。俺の安っぽい自己肯定感と心が、まるで紙屑のように引き裂かれていく感覚に陥った。
(俺は……本当に、そんな人間なのか……?)
視界が歪み、足元がぐらつく。アスモデウスの精神攻撃は、これまでのどの魔王よりも巧妙で、そして容赦なかった。このままでは、俺は心を完全に折られてしまう。
その時、俺の脳裏に、夜明け前の屋敷で、彼女たちが俺を慰めてくれた時の言葉が響いた。
「そんなこと、ありません! 王子様は、私にとって、この世界にとって、ずっと必要な人です!」
「あなた様がいなければ、わたくしは、今もあの闇の中にいたでしょう。あなたが、わたくしの汚名を晴らし、生きる意味を与えてくださった」
「勇者様、あなたの存在は、単に敵を討伐するだけの『力』ではありません。あなたは、人々の心を救い、希望を与え、そして、私たちに愛を教えてくださいました」
――そうだ。俺は、彼女たちに必要とされている。彼女たちは、俺がチート能力者だからではなく、俺という人間そのものを、愛し、必要としてくれていると、あの夜、俺に教えてくれたじゃないか。
「……黙れ」
俺は、絞り出すようにそう呟いた。
「貴様の言葉は、全て偽りだ。俺は、彼女たちを愛している。彼女たちが、俺を愛してくれていると信じている。お前たちには、もう惑わされないぞ」
偽物の三人が、僅かに表情を歪めた。俺の抵抗に驚いたようだ。
「たしかに俺は、日本でろくでなしだったかもしれない。だが、この世界で、俺は変わった。変わっていないなら、これから変わって見せる! 俺は、人々を幸せにしていく。そして、俺は、彼女たちを愛していく!」
俺の言葉が、歓楽街に響き渡る。心臓の奥底から湧き上がる確かな感情が、俺の身体中に力を満たしていく。俺の心が、再びゆっくりと、しかし確実に鼓動しているのを感じた。
「貴様は、俺の最も大切な彼女たちを汚した。絶対に許さない!」
俺は、アスモデウスの本体である漆黒の影に向かって、手を翳した。そして、心の中で、新たなチート能力を唱える。
「消えろ、永遠に! 【真実の瞳:破邪】!」
俺の眼差しから、まばゆい光が放たれた。それは、アスモデウスが作り出した幻影を粉砕し、その欺瞞を暴き出す光だった。偽物の三人の姿が、まるで砂のように崩れ落ちていく。
「ぐぅああああっ! この、この力は……! 私の幻影が……!」
アスモデウスは、苦悶の叫びを上げた。彼の精神攻撃が、俺の愛と、彼女たちの愛の力によって打ち破られたのだ。
「これで、貴様も終わりだ、アスモデウス」
俺はそう言い放ち、残りかすのようになったアスモデウスを握りつぶし、その漆黒の影を消滅させた。
歓楽街は、再び静寂を取り戻した。人々は、まだ呆然としているが、その瞳からは欲望の狂気が消え失せていた。
俺は、大きく息を吐いた。これは、肉体的な戦いよりも、はるかに精神的に消耗する戦いだった。しかし、この戦いを乗り越えたことで、俺の自己肯定感は――心は、以前よりもさらに強固なものになった。
俺の心は、まだ完全に癒えたわけではない。だが、かつて交わした彼女たちの言葉と、自分自身の確かな手応えが、俺を支えてくれた。アスモデウスの欺瞞に満ちた言葉に、俺はもう惑わされない。
この「全部盛り」の世界は、俺に試練を与えるが、同時に、俺を強くしてくれる。残る「大罪」はあとわずか。そして、いよいよ魔神王ヴァルファスとの最終決戦が迫っている。
俺は、夜明け前の空を見上げた。今、俺は、誰よりもこの世界で生きていく意味を見出している。




