第十五話:色欲の魔王と、揺れる心
王城での「傲慢」の魔王ルシファーの討伐を終え、俺は静かに執務室に籠もっていた。【無限の図書館】で次の「大罪」について調べていたのだ。
残る魔王は「暴食」「憤怒」……いや、待て。「傲慢」を倒したことで、次に現れるのは……。
俺の視界に現れたのは、「色欲」の魔王、アスモデウスに関する書物だった。その内容を読み進めるにつれて、俺は唇をかみしめるのを抑えられなくなっていった。
「アスモデウスは、人間の色欲を際限なく刺激し、あらゆる欲望を暴走させる。しかし、奴の最も危険な能力は……相手の最も愛する者、最も大切な者の姿を借りて現れ、精神を支配すること……!」
書物の記述に、俺はゴクリと唾を飲んだ。これまでの「大罪」とは、一線を画す厄介な相手だ。
嫉妬や傲慢、強欲とは違い、アスモデウスは直接的に、そして最も深く、俺の心を揺さぶることができる。
(セレスティーナ、エミリア、フローラ……もし、奴が彼女たちの姿を借りて現れたら……)
俺は、ベッドで安らかに眠る彼女たちの顔を思い浮かべた。俺の最も大切な存在、俺の最も愛する女の子たち。
その姿を借りて現れたアスモデウスを、果たして俺は躊躇なく攻撃できるのか? 一瞬でも躊躇すれば、奴の精神支配能力が俺を襲うだろう。
俺は決断した。この戦いには、彼女たちを連れて行くべきではない。
彼女たちの偽物が目の前に現れ、俺の愛を求めてきたら、チートを使う間もなく敗北してしまうかもしれない。
それに、もし俺が攻撃した彼女たちが、『心配で俺を追いかけてきた本物の三人』だったら……!?
(今回は、俺が単独で行こう)
俺は静かに立ち上がった。時刻はまだ朝。魔王たちの力が一番強くなるのは夜だ。今が最大のチャンスだ。
リビングに入ると、朝食の準備をしていたセレスティーナ、フローラ、エミリアと目が合った。みんんながパアッと笑顔をくれる。――俺の最愛の三人。
「王子様、おはようございます! もうお出かけの準備をされているのですか? 朝ごはんがまだですよ?」
セレスティーナが、少し不満げな顔で尋ねた。
「色欲」の魔王、アスモデウス。やつの討伐は、俺が一人で行く」
俺の言葉に、三人は顔色を変えた。
「な、なぜですの!? わたくしたちも、あなた様の力になりたいのに……!」
エミリアが、珍しく感情を露わにする。
「危険な場所だ。お前たちを巻き込むわけにはいかない」
フローラが、俺の真剣な眼差しから何かを察したのか、静かに俺を見つめた。
「勇者様……何か、特別な理由があるのですね……?」
「……ああ」
俺はそれ以上語らず、屋敷を後にした。彼女たちの不安そうな表情が、俺の胸に突き刺さったが、これが最善の選択だと信じていた。
【無限の図書館】が示す、アスモデウスの潜伏場所は、王都の隠れた歓楽街だった。薄暗い路地裏、誘惑的なネオンが煌めく建物。そこから、吐き気を催すほどの魔力が漂っていた。
俺は荒らされ、据えた臭いを漂わせる街に足を踏み入れた。昼前だというのに、建物の中は、退廃的な雰囲気に満ちていた。
人々は、欲望のままに体を求め合い、乱痴気騒ぎに興じている。その中心に、甘美な香りを放つ漆黒の影が渦巻いていた。それが、アスモデウスの本体だ。
「おやおや、見慣れない方がいらっしゃいましたね。どうです? この世の快楽を、存分に味わってみませんか?」
「そうですよ、王子様! アスモデウス様の言う通り、楽しんじゃいましょうよ!」
背後から、優しい声が聞こえた。振り返ると、そこに立っていたのは、セレスティーナだった。彼女の瞳は俺への愛情に満ちており、俺の腕にしがみついてくる。
「王子様………? なぜ私の目をみてくれないんですか? なぜ、激しく愛してくれようとしないんですか?」
セレスティーナの声が、俺の耳元で甘く響く。だが、俺は知っている。こいつは偽物だ。
「……貴様は、セレスティーナじゃない」
俺はそう言い放ったが、声が震えているのが自分でも分かった。
「ひどい……ひどいです、王子様……なんでそんなこと言うんですか……?」
セレスティーナは、涙を浮かべて俺を見つめた。そのエメラルドグリーンの瞳、そしてその表情は、本物と寸分違わない。俺の心が、激しく揺さぶられる。
その時、もう一人、声が聞こえた。
「あなた様……わたくしたちを求めてくださいませ……。わたくしがあなた様に必要なすべてをささげますわ……だから、わたくしたちを愛してくださいませ?」
エミリアの声だ。彼女は俺の背後から抱きついてきて、その柔らかい体を俺に押し付けてきた。耳から首にかけて艶めいた吐息が流れ、俺に肉体的にではない、別種の快楽を流し込んでくる。
そして、さらに一人。
「勇者様の光は、私を照らしてくれる……どうか、その光を、私にもお慈悲をください……私はその分、あなたに神の恩寵のような快楽をもたらしてさしあげます……」
フローラの声が、俺の心に直接響いてくる。彼女は、俺の正面に立ち、その聖なる光を放ちながら、俺に手を伸ばしてきた。彼女の手が俺に触れるたび、心臓がどんどん高鳴っていく。
三人の最も大切な存在が、俺の目の前で、俺の心を惑わそうとしている。彼女たちの言葉が、行動が、俺の心を深く抉ってくる。
「お前たちは……本物じゃない……!」
俺は必死にそう言い聞かせたが、その声は弱々しかった。偽物だと分かっていても、あまりにも完璧な模倣に、俺の感情が揺らぐ。
「ククク……どうしました? 偽物だとわかっていても、愛する者を傷つけることはできませんか? それとも、もうすでに、この甘美な欲望の虜ですか?」
漆黒の影が、嘲笑うかのように膨張する。アスモデウスは、俺の心の揺らぎを感知し、力を増しているのだ。
(そうだ、いいじゃないか。魂なんか売り渡してしまえばいい。偽物だろうと何だろうと、目の前に三人がいるんだ。ここでなら、どこまででも堕ちられる。堕ちられる……!?)
俺の心がたちまち引きずりこまれそうになる。
「違う……! 違うッ! お前たちは偽物だ! 俺の愛する三人じゃない!」
俺は、歯を食いしばった。胸を、心臓を引き裂かれる思いだ。これまでのどの「大罪」との戦いよりも過酷な戦いだ。
俺のチート能力は、確かに万能だ。だが、この感情の揺れを、どう乗り越えればいいんだ? チートだからって、心や魂を書き換えられるわけじゃない……。
甘かった、根性で、信念で何とかなる相手じゃなかった……!
偽物のフローラが、俺の頬にそっと触れてきた。その指先が、本物と全く同じ温かさで、俺の心をかき乱す。
「さあ、勇者様……私たちと共に、甘美な世界へ参りましょう……」
俺の心は崩落寸前だった。




