第9話
レッドドラゴンの姿は圧倒的だった。
全長は優に30メートルを超え、全身を覆う燃えるような赤い鱗は、周囲の溶岩の光を反射して不気味に輝いている。
その一枚一枚の鱗は盾のように硬く、通常の武器では傷つけることすら難しいという。
巨大な翼を広げると、空が翳るほどの威容を誇る。
頭部には黒曜石のような2本の角が生え、鋭い牙は人間の腕ほどもある。
そして何より恐ろしいのは、怒りに満ちた金色の瞳。
それは古代の知性を宿し、周囲の空気さえ灼熱に変えていた。
これこそが伝説のレッドドラゴン。
依頼書のターゲットだ。
間違いなく、戦闘態勢に入っている。
「ハル様! ドラゴンです!」
リルナが震える声で叫ぶ。
彼女は剣を構えたが、その手が小刻みに震えているのが見えた。
「まずいぞ! 完全に怒ってる!」
ピノが小さな魔法の盾を展開しながら警告する。
俺は恐怖で体が硬直しそうになりながらも、一瞬、日本での記憶が蘇った。
面接官に「危機的状況でどう行動しますか?」と質問され、何も答えられなかった自分。
いつも逃げてばかりだった。
(でも今は……リルナたちを守らないと……!)
しかし、目の前のドラゴンよりも、背後で始まったばかりの大噴火の方が、より直接的な脅威に思えた。
(うわー、噴火とかマジかよ! 溶岩とか流れてきたらどうすんだ!? 死ぬ! 絶対死ぬ!)
俺が噴火の心配をしている間に、レッドドラゴンは俺たちを認識し、怒りのままに、空から急降下を開始してきた!
その巨大な影が空を覆い、太陽の光を遮る。
急速に俺たちに迫る翼の風圧で、周囲の小石や灰が舞い上がり、視界が悪くなる。
「逃げて! こっちだ!」
俺は思わずリルナとピノの手を掴み、避難を促そうとした。
でも、間に合うはずがない。
「うわっ! なんか来た! ヤバいって!!」
恐怖に打ち勝てず、俺は慌てて地面に身を伏せた。
その際、リルナの手も強く引っ張っていた。
俺の本能的な回避行動に、リルナも倒れこむように地面に伏せる。
「ハル様が危険を予知して、我々に回避の指示を!」
リルナがまたしても都合よく勘違いする。
彼女の目には尊敬の光が宿り、その表情は恐怖よりも安心を表していた。
「いや絶対違う! ただビビってるだけだろ!」
ピノが心の中で絶叫する。
彼の表情には「また始まった」という諦めと、「でも今回は本当にマズい」という焦りが混ざっていた。
レッドドラゴンの巨体が、もはや避けようのない距離まで迫る。
灼熱の息遣いが俺たちの背中に感じられるほどだ。
「もう……終わり……?」
俺は目を閉じながら呟いた。
高校時代にバイト先で先輩に怒られたときのような、あの無力感がよみがえる。
いつだって自分は何もできないんだ……。
ドラゴンが、身を伏せた俺たちの目前に迫った、まさにその時だった。
俺たちが立っていた場所のすぐ近くにあった、不自然に盛り上がっていた小さな丘(そういえば前に森の主を倒した直後、俺が変な地鳴りを感じていたのは、この伏線だったのか!)が、突如として動き出した。
まるで生き物のように震動し、表面の岩肌に亀裂が走る。
そして――。
ドゴォォォォン!!!
火山噴火にも負けないほどの轟音と共に、その丘は爆発的に崩落したのだ!
地下マグマがついに地表を破ったのか、それとも何か別の自然現象なのか。
崩れ落ちた大量の土砂や巨大な岩石が、急降下してきたレッドドラゴンの進路を完全に塞ぐ!
巨体ゆえに避けきれなかったレッドドラゴンは、土砂と岩石の壁に真正面から激突!
大きな「ドシャン!」という音と共に、赤い鱗が宙に舞い散った。
バランスを崩したドラゴンは無様に地面に墜落し、その巨大な頭を岩に打ち付け、そのまま気絶してしまった。
俺の前には、信じられない光景が広がっていた。
先ほどまで俺たちを脅かしていた伝説のレッドドラゴンが、今は岩と土に半分埋もれ、ぐったりとしている。
その鼻からは小さな煙のようなものが出ているが、それ以外は全く動かない。
「い、今のは……何が……?」
リルナが震える声で尋ねた。
「まさか……あの地形変化はハルの……?」
ピノが半ば呆れ、半ば驚愕したような表情で呟く。
偶然と、偶然と、さらなる偶然が重なり合った結果の、まさかの討伐(?)完了である。
火山はまだ噴煙を上げているが、不思議なことに溶岩は俺たちとは反対方向に流れ始めている。
ドラゴンはピクリとも動かない。
呆然とする俺の脳内に、またしてもあの無機質なシステムメッセージが響く。
【クエスト【レッドドラゴン討伐】達成しました】
【称号:【歩く天災】を獲得しました】
「だから、いらないって、そんな物騒な称号は!!」
俺は思わず、天に向かって叫んでいた。
この「歩く天災」って、褒め言葉なのか貶し言葉なのかもわからない。
しかも、またもや俺は何もしていないのに……!
「何もしてないのに……何もしてないのに……」
俺はその場に膝をつき、放心状態で呟いた。
前世でも、この世界でも、自分の意思とは関係なく物事が進んでいく。
努力しても報われない前世。
努力しなくても周りが勝手に進む現世。
どっちも何か違う気がする……。
そんな俺の呟きも、リルナの耳には届いていないようだった。
彼女は、目の前で(結果的に)ドラゴンが倒れたことに感極まっているようだ。
「ハル様……! ありがとうございます!」
涙で潤んだ瞳が、まるで星を宿したように輝いている。
「やはり貴方様は、このリルナの、そして世界の救世主です!!」
彼女は涙ながらに俺に抱きついてきた!
彼女の小柄な身体は、恐怖と興奮で小刻みに震えている。
柔らかい感触と、花のような香りが俺を包む。
その温もりは、この灼熱の地にありながら、心地よく感じられた。
彼女の髪から微かにするバラのような香りが、硫黄の匂いを少しだけ和らげる。
突然の、ヒロインからの熱烈な抱擁。
俺は完全に固まってしまい、どう反応していいか分からず、ただただ困惑するしかなかった。
恋愛経験皆無の前世からの習性で、脳内がショートしかけている。
「あ、えっと……その……」
顔が、熱い。
火山の熱気のせいなのか、それとも……。
すると、リルナはハッとしたように我に返り、急に俺から離れた。
顔は真っ赤に染まり、瞳には恥じらいと驚きが浮かんでいる。
「す、すみません! なんて無礼な……! 神聖なるハル様に触れるなど……!」
彼女は慌てて平伏しそうになったが、俺は思わず彼女の手を取った。
「いや、気にしないで。それより、大丈夫? 怪我はない?」
リルナは俺の言葉に顔を上げ、まるで奇跡を見るような表情をした。
彼女の目にはまだ涙が溢れそうになっていたが、それは恐怖からではなく、何か別の感情の表れのようだった。
「ハル様……」
彼女の瞳に宿る感情は、もはや単なる信仰心だけではないように思えた。
もっと複雑で、もっと人間らしい何かが、そこにはあった。
そんな俺たちを、ピノは火山灰が舞う空の下で、遠い目をして見つめていた。
彼の手には記録用の魔法装置があるが、もはや使う気力も失せたようだ。
「……もう、記録するのも馬鹿らしくなってきた……」
その呟きは、誰に聞かれることもなく、噴火の音にかき消されていった。
彼の翡翠色の羽根は、灰で灰色に染まり、肩は諦めたようにがっくりと落ちていた。
「とりあえず、ここから離れよう」
俺は立ち上がりながら言った。
「はい!」
リルナは一転して元気よく返事をした。
彼女の顔はまだ赤かったが、瞳には強い決意が宿っていた。
そして三人は、寝ているドラゴンと噴煙を上げる火山を後にした。
奇妙な冒険は終わったが、そこから始まる新たな騒動は、誰も予想していなかった……。