8.不安の核心
「あの建てたばかりの家が壊れたんですか? ファルカシュ様の妄想……いや愛の夢を詰め込んだあの家」
天界に1人帰り、明けない夜に騒然となっている宮殿の中でふてくされて部屋にこもっていた。キューリアスが茶を入れて慰めてくれた。
「壊れたというか、一瞬で消滅した……っておい、何で笑うかな」
「いやもう、あまりにファルカシュ様が不憫すぎて、笑うしかないというか……くく」
「あの花びをを散らしてあったベッドに直行して、もうこれ以上は無理だという限界まで我慢しながら、最高に優しく慣らしてだな、そしてじっくり、ゆっくりと……ああもう、だから朝までどう攻めていくのかをだ、頭の中で何回おさらいしたかと……イリエスの初めてを夢の様に至福の極みに高める手管をだな……」
「あー、はいはい」
「だからちゃんと聞けよキューリアス。それで、幸せにトロトロになったイリエスを、あの大理石で造ったバスタブに入れて、あれを! あのウサギの石像を見せる」
悔しさにたまらなくなって立ち上がり、ウサギのポーズをして見せた。
「こうウサギが後ろ足で立って、両手を差し出す姿、なんとこの手からお湯がでてくる。可愛いだろ、イリエスは絶対に気に入るに違いなかったんだ! 喜ぶあの子を、こう後ろから抱えるようにだっこして、事後に一緒に入る風呂。どう考えても最高だろ! そうだろ、そうだったんだ!!」
「ウサちゃん消滅……」
「キューリアス笑うな!!」
しばらく笑っていたキューリアスが、やっと落ち着くと真面目な顔になった。
「呪い……ですか。厄介ですね、特に呪った本人に自覚ない場合は、かけた本人でも解くのが難しい……」
「あの男は私の災厄だ」
「意地を張るのをやめて、イリエスちゃんを天界に連れてきていれば良かったのに」
天界の離宮か後宮に彼女を住まわせる。それは私がイリエスに恋心を自覚してから、キューリアスが何度も勧めてきたことだ。
「この太陽の宮殿で彼女を抱けば、その瞬間からイリエスは私の側妃として扱われる。それは嫌だ、正妃としてしか迎えたくない」
「だったら正式に結婚する手順を踏むしかないですね。彼女はまだ神として覚醒していない。神で無い者は一人前としては認められない。その場合は保護する者の承諾がいる。すなわち……」
「シルベリオスとネリの承諾だ」
言葉に出すとムカムカ腹が立つ。
「この私が、あのシルベリオスに許しを願うなど絶対にしたくない。それにシルベリオスが許すはずないだろう!」
「だったら結婚はできず正妃にもできない。いいじゃないですか側妃でも、天界で楽しく過ごしているうちにイリエスちゃんもいつかは覚醒します。そうしたら親の承諾はいらないんですから」
「イリエスを側妃なんて嫌なんだ。ネリは正妃だったのに彼女が一時的でも側妃になったら、差をつけるみたいで……私にとってイリエスは唯一の正妃として迎えたい」
「何なんですかね、そのよく分からないこだわりは。側妃は駄目なのに、地上で恋人にするのは良しとするんですね」
キューリアスは容赦なく痛いところを突いてくる。
「それは……その……イリエスはまだ無邪気な子供みたいにしているけれども、年頃としてはすっかり大人で……あれほど美しい。それから母譲りの魅惑の瞳も持っている。本人はまだ使い方を知らないでいるが……あの瞳を使えばいくらでも男は落ちる。不安なんだ、誰かに奪われないかと……だから早く自分のものにしてしまいたい。なにより欲しくてたまらない、限界だったんだ!」
キューリアスは呆れたように肩をすくめて見せた。同い年なのにすっかり兄のように落ち着いている。『報せ』と『商い』を司る神である彼の頭の中には情報が詰め込まれ、どんな思考回路をもっているのか私には理解不能だ。だが、いつも側にいて寄り添ってくれる。
呪われてしまったイリエス。彼女を失うしかないのだろうか、黒い思考で頭が埋め尽くされる。正直に胸に巣くう不安を告白した。
「イリエスが私から離れてしまったら私はどうなってしまうのだろう……」
「そしたらお父上みたいになったらどうです。あなただって最高の魅惑の瞳の持ち主だ、あの空っぽの後宮を女で埋めて、好きなだけやりまくったら?」
「あー、言い方最低。おまえって本当に私の側近なのか? 品位ある太陽神になんて口の利き方をするんだ。よく覚えておけ私は父と違って、愛する女にしか興味が無い」
父である前太陽神は無類の女好きで正妃の他に後宮には188人の妃がおり、天界のあちこちに離宮があって通う先に美女がいた。地上でも好き放題だったから、いったい何人の女性に手をつけたのか想像を絶する数だろう。まあ愛情の神と言い換えれば印象は変わるけれども……
父は神としてはまだ若く太陽神として何千年も君臨するはずだったのに、力を息子に授けて好き勝手に女たちの所へ飛んでいってしまった。「愛情の神」になったのかこれからなのかは謎のままだ。
もし父が太陽神のままだったら、私は何の神になる運命だったのだろうか。
月神であるネリの伴侶となるはずだった私は、何の神であれば相応しかったのだろう。
いまや天界でも地上でも、月は夜のものだと皆が疑いもなく信じている。だが月は昼間も夜と同じ時間だけ登っているのだ。誰にも気づかれない昼の月にはまるで呪いがかかっているかのようだ。
月は昼のものにはならないという呪い。
どうしてこんなことになったのか何百年も考え続けている。もしや、太陽神はもともと愛情の神でもあったのだろうか……その愛情だけを父が持って去ってしまった。だから私には愛の力が抜け落ちた太陽神で、永遠に愛を手に入れることができないのではないだろうか……
暗い方へ思考がぐいぐいと引っ張られていく感覚があった。はっと気づいた。
これは呪いだ。
私にもシルベリオスの言葉の呪いがかかり始めている。
愛する相手が、自分とは違う者を愛していると怯え、愛を信じることができない呪い。
正気を取り戻せと己を叱咤した。呪いは自身がそれに勝る力をもっていれば、弾き返すことができるのだ。
あの子は、本当に私への愛を自覚しているのか?
シルベリオスの言う通り、彼女はいまだ子供のようだ。
イリエスが私を慕っているのは間違いない、だがそれは狂おしく求める恋慕とは違うものでは無いのか?
私は彼女にとって父親と同じなのではないか? それが私の不安を生み出す核心なのだ。
だから、恋人同士しかしないことを今すぐして、あの子供の体を強引に開いて大人の女にしてしまいたい。私だけだと、こんな姿を見せるのも、何もかも投げ出して甘えるのも、ただ一人私に対してだけなのだと、私は男なのだとあの子の体にも心にも教え込みたい。
そうして私しか知らないイリエスにしてしまえば……この不安は消えるのか?
私は怖いのだ、一瞬で燃え上がるような情熱的な恋がイリエスの未来に訪れるのではないかと。その男を前に、父親なのか恋人なのか自覚も無い穏やかな愛など、簡単に負けてしまうのではないかと。
「今日はどうせ1日じゅう暗闇で太陽は登らない。だったら仕事は何もしない休む」
「天界も地上も大騒ぎですよ、このまま永遠に陽が登らないのではと神々も心配されています。安心させるために天馬を駆って演説でもしてきたらどうです?」
「私のせいでこうなった訳じゃない、何もかもシルベリオスが悪いんだ。何か言ってくる奴がいたら全部シルベリオスの所へ行けと伝えてくれ。まあ、あの洞窟を訪ねる度胸のある奴がいるとは思わんが……ネリが明日には夜は終わると約束してくれた心配するな」
キューリアスが私を仕事着から、気楽な平服に着替えさせながら「イリエスちゃんに会いに行くんですか」と聞いて来る「そうだ」と答えながらも気が重かった。
「シルベリオスの夜は1日で明けても、イリエスの呪いは明日には解けるような簡単なものではない……闇に溺れている彼女の様子を見てくるよ」
私は出て行こうとして、キューリアスを振り返った。
「どうして私は愛を手に入れることができないのだろう。だれからも愛されない運命なのだろうか……」
「地上の全ての生命が、太陽を見上げてお慕いしてますよ。それに私もあなたを愛してます」
「地上の全て……か。なあキューリアス、私は帰って来たらしばらく塞ぎ込むかもしれない」
「ちょうどいいですね、世界は夜だから仕事に行かなくていい、好きなだけ落ち込んでください」
「適当な言い方だな。おまえ、本当に私を愛してるか?」
キューリアスは私がこれからイリエスにすることを知っているのだ。
彼は片目を閉じて「健闘を祈ります」と笑って送り出してくれた。