7.神の呪い
「あなたがシルベリオスを背負うなんてこと、世界が終わっても起きないと思ってた」
闇の洞窟まで彼を運んで、入り口で呼ぶとネリはすぐに出てきてくれた。
ネリは変わらず美しく、優しい微笑みを見ると胸が痛んだ。
けれど彼女への愛は変わらないのに遠い思い出のように穏やかで、今欲しくてたまらないのはイリエスだけなのだと強く感じられた。
「イリエスに大嫌いと言われて、君の夫はこの通り心を閉ざしたあげくに世界を永遠の夜にしてしまった」
「まあ、それは大変なこと」
ふふっと笑う彼女に、呆れて少し気が抜けた。
「イリエスから何か聞いている?」
ええもちろんと嬉しそうに答える顔は母親のものだった。不思議な気がした、彼女とこんなに穏やかに話すのは何時ぶりだろう。そして少し照れくさい。彼女は恋人の母なのだから。
「恋する少女はお喋りが止まらないの、ごめんなさい、キスしたのも聞いてしまった」
「まあ、その……そういうことで、イリエスと恋人になった」
口にしたら自分でも驚くほどに照れた、顔が熱い。
彼女はとても嬉しそうで、祝福してくれているのだと分かった。
「それで家を贈った。地上で二人で過ごすためのとびきり可愛い家だ、イリエスは喜んでくれて……でも」
「そこに、この人が飛んで行ってしまったわけね。それでその可愛いお家は無事なの?」
私が左右に首を振ると「それは、イリエスを怒らせたわね」と彼女は顔をしかめた。
「話がこじれたのは家のことではないんだ。なんて説明したらいいのかな……結論から言うと、シルベリオスはイリエスに呪いをかけてしまった」
ネリは胸の痛みに耐えるように目を閉じ、しばらく声を出さなかった。
「そう……呪ってしまったの。でも……どうしてそうなったのか、分かる気がする」
「イリエスは呪いを解かないかぎり、私の愛を信じられない。幸せな恋人にはもうなれない……」
真っ暗な空を見上げて、独り言のように気持ちを吐き出した。
「酷いな、本当にこの男は酷い。私の心を引き裂くために存在するのか。いったい何度私から愛する人を奪うのだろう。それなのに、どうして私はこの男を背負っているんだ、あまりに馬鹿馬鹿しくて泣けてくる」
「ファルカシュ」
名を呼ばれて驚いた。別れの日からもう呼ばれることはないのだと思っていた。
「シルベリオスはね、いつか私があなたの元へ戻ってしまうと怯えているの」
思いもしない言葉に驚いて何も返せなかった。
「彼は私を結婚式の夜に略奪して、愛する男がいるのに閉じ込めた。その罪が彼の心を苛んで、どうしても自分が愛されることを許された存在だと認めることができない。だから私がどんなに愛しても、いつか失うかもしれない恐怖から逃れることができない。私にはどうにもできないの、彼自身の問題で、彼にしか解決できないことだから」
乾いた笑いが出てしまった。同情する気持ちにはなれなかった。永遠に苦しめばいいのだとさえ思った。しかし、世界で最も強い男がそれほどに弱いのだと知り嫌な気分だった。心おきなく憎むには、強いだけの男でいて欲しかった。
「だからあんなことを言ったのか……私の心はネリが持っていると」
「シルベリオスは怖いのね、イリエスが自分と同じ運命をたどってしまうのではないかと、どんなに愛しても、相手の心が別の人を想っているという恐怖からのがられない運命。彼は娘を不幸にしたくないあまりに、言葉に思いを込めてしまった……」
「そうなんだ。シルベリオスは呪うつもりはなかった。だが、神が思いを込めてしまったら、言葉は祝福か呪いのいずれかになってしまう。彼ほどの強大な力をもつ神の呪いだ、どれほど強力な呪いなのか……」
イリエスが恋しい、会いたい抱きしめたい。だが、呪われてしまった今、彼女との関係がどうなっていくのか分からなかった。
「シルベリオスはイリエスのことをしきりに子供だと言うんだ。こういうのを親ばかというのだろうな。まったく笑ってしまう。だって、奴が君を奪った時、私達は今のイリエスよりもずっと若かった。私達は大人になる手前で、まだ若すぎると止められたけど、でもどうしても一緒になりたくて結婚を早めた。君は少女だった。奴は少女の君を抱いたんだ。それなのに、ここまで待った私からイリエスを奪うんだ、ああもう、いいかげんにしてくれ!」
怒りに耐えきれなくなって、背負っていたシルベリオスを乱暴に落とした。けれど彼は倒れたままピクリとも動かない。
ネリは膝を付くと、倒れているシルベリオスの頭を撫ぜた。そんなものを永遠に見たくないと思っていたはずなのに、何故か何の感情もわいてこなかった。
「彼はね、子供の時にこの洞窟に放り込まれて、それから何千年も独りで戦い続けた。だからまだどこか子供のままで、大人になりきれていないの」
それは彼の代わりに彼女が告げた贖罪の言葉で、彼女が彼の弱さも含めて全てを愛していると教えているのと同じだった。それを目の当たりにして、胸は痛かった。もっと痛いはずだった、心臓を切り裂かれるような、別れの日から苦しみの底にいたときのように……それなのに、愛しさだけを残して、痛みは小さくうずくだけで、もうネリを抱きしめたいとは思わなかった。
彼女は彼のものなのだ。それを自分は完全に受け入れたのだと知った。
「子供の彼をなんとか起こすことはできそうかな。このまま夜が続くと困るんだ」
ネリは大丈夫よと微笑んだ。闇の洞窟で暮らすことを選んだ夜の妻は、これくらいのことでは動揺しないらしかった。夫のことはよく心得ていて「明日には起こすから」と約束し、その通りになった。