4.恋人の父親
私はこの男がいかに卑怯で愚かで、最低野郎なのかということを、十分に知り尽くしているはずだった。
だが、私には品性があり秩序と安寧を守る神でもあったが故に、この男を前にした時、息を吸うという間違った選択をした。
これから会話が始まると思ったのだ。二言、三言くらい喋ってから戦いが始まる、普通そうだろう? どんな凶暴な奴でも、何でぶちのめしたいかくらい伝えてくるものだ。
だから言葉を発するために息を吸い込み、それに2秒使った。
戦闘において、2秒という途方もない長い時間を、私は平和的な会話のために無駄にした。
私は己の失態を瞬時に理解した。
時空が歪んでいる!?
太陽が沈み切って薄暗くなった中で、シルベリオスがこちらに向けた掌の周りに薄闇が明るいとさえ思えるほどの、漆黒の闇の球体が出来上がり、周辺の全ての光を吸収し暗黒に変えていく。
この男がこの2秒間で仕上げた、攻撃準備を目の当たりにして、その球体の攻撃力を目測した。
あの球体をまともに受ければ、時空のねじれに体はミンチになって霧散して……消滅。
今まさに攻撃が発動される、1秒の100分の1ほどの時間でどうするべきかを決めねばならなかった。
受けるか……たぶん1度なら耐えられる。だがイリエスを抱いているから防護壁を作るための両手が塞がっている。だからできない。そもそもイリエスを消滅の危険に曝したくない。
避けるか……それならギリギリ間にあう。だが私は小屋の扉の前に立っているのだ。避けるということはすなわち……
1秒の100分の2の時間が過ぎて、暗黒の球体が弾かれた。
ジュッという儚い音がして……
攻撃を避けたその先にあった、愛しい恋人への贈り物が……
こらからイリエスと思う存分愛を確かめ合う場所になるはずだった小屋が……
消滅した。
「あああー!!! 貴様何てことを!」
イリエスを腕から降ろし、立たせると。その後ちょっと理性がブチ切れて、何をしたか記憶が飛んだ。
一瞬の間の後、意識が戻ると雷の矢を10万本、シルベリオスの上に降らせた後だった。
音がやっと追いついて、大地を振るわす爆音が途切れることなく続いた。
雷の矢を土砂降りの雨のように体に浴びながら、姿勢を寸分も揺らさずにシルベリオスが睨みつけてくる、それを真っ向から受けながら、怒りが全身にたぎって暴走していく。
近くの山を持ち上げて、上から落としてやろうと手を振り上げた時、雷の矢に耐えられなくなった地面が、ゴウと音をたてて崩れ始めた。
崩れていく大地の中心にいて、シルベリオスはその土を竜巻のようにまとめ上げ、大蛇のように細長くすると、高速で回しながらこちらに放ってきた。
それに向けてこちらは、後ろの岩山を浮き上がらせ投げつけた。圧倒的な物量に地は割け、立っていられる場所はどこにも無くなった。
天馬の背に腰掛け、両腕にイリエスを抱きながら空中で崩れた岩山の塊を見下ろしていた。
イリエスは大人しく腕の中におさまって静かにしている。父親が岩屑の下敷きになったことを目の当たりにしても全く感情が動いていない。彼女は砂の一粒ほども父親を心配していないのだ。
ガラガラと音がして、粉々になった岩の山の中からシルベリオスが出てきた。すっかり夜になり、暗闇の中で全身黒衣の男は、白い石の粉にまみれて灰色に浮かび上がって見えた。この男に物理的な攻撃は何の意味も成さないのだろうか。
あれほどの攻撃を受けても、頬に少しかすり傷ができた程度のようだ。彼が乱れた銀の長髪をかき上げると輝く銀の粒が散り、輝いては闇に溶けていく。絶対の強さと壮絶な美貌、この世に並ぶものがない至高の戦士……けして勝つことができない男。
黒曜石の瞳が上を向き、このうえなく優しく微笑んだ。それはただ一人の愛娘だけに向けられたもので、私は世界に存在しないかのように彼には見えていないようだった。
「イリエス……おいで」
先ほどの戦闘があったことなど信じられないような落ち着いて優しい声が彼女を呼び、父親は両手を大きく広げた。
「おまえは……子供。恋人をつくるのは……早い。……その男はおまえの物にはならない。永遠に手には入らない。その男だけは……駄目だ。…………おいで」
とんっと彼女の体が跳ねて、腕の中にあった重さが消えた時、起きたことを認めることができなかった。イリエスの体がゆっくりと落ちていき、シルベリオスの腕の中に入って行く。
シルベリオスが娘を嬉しそうに抱きしめて、頭を撫でた。
目には映るのに、その事実が心に入ってこない。
ふさがりかけた心の空虚な穴が、みるみる大きくなっていく。
イリエス……お前もシルベリオスを選ぶのか?