夫が「君がこれを見ているということは、私はもう生きてはいないだろう」というメッセージを残していてくれました
ある王国が他国から大規模な侵略を受けた。
国王は国中の貴族らに出陣の命を下す。王国始まって以来の危機であり、かつてない大戦争になることは間違いなかった。
そんな中、若き伯爵シュダウス・レイシャスも出陣の準備を整える。
シュダウスは耳にかかるほどの銀髪、避暑地の森林を思わせる深緑の瞳を持つ美青年であるが、武芸にも秀でていた。いざ戦いとなれば自身の髪を思い起こさせる白銀の鎧を纏い、家宝の剣で敵を切り崩す。自前の騎士団も編成しており、エースとして最前線に送られることは確実であった。
屋敷から出ようとするシュダウスを、妻であるリアーヌが呼び止める。
「お待ちになって!」
リアーヌは背中にかかるほどのベージュブラウンの髪を後ろで丸くまとめ、明るい顔立ちの夫人であった。少し跳ねた前髪がチャームポイント。オレンジ色のドレスを好むこともあって、柑橘類のような爽やかな雰囲気を常に纏い、その朗らかさで社交界では一目置かれる存在となっている。
だが、この時ばかりはリアーヌの表情は悲壮なものになっていた。
「お願い……行かないで!」
リアーヌはシュダウスの背後からしがみつくように抱きつく。
「みんなが言っているわ……今回の戦い、生きて帰れる見込みは殆どないって」
シュダウスは答えない。沈黙がそのまま肯定を示している。
「どうか行かないで……お願い……!」
リアーヌはシュダウスの右腕にそっと手を添える。
「あなたの右腕には、昔戦いで受けた古傷があったわよね。これが痛むから出陣できないって断ればいいじゃない。現に、私が知っている貴族にはそうやって兵役を回避している人もいるわ。少なくともあなたが前線に立つことはないじゃない!」
「リアーヌ……」
シュダウスが振り返る。そして、そっとリアーヌの右手を両の手で握り締める。
「国内有数の騎士とされる私が戦場に出なければ、士気は高まらず、おそらく王国は滅びる。だから、私が出陣しないわけにはいかない」
シュダウスの手に熱がこもる。
「必ず生きて帰ると約束はできない。しかし、私の肉体が滅びようと、私の誇りが滅ぶことはない。君も私の妻であるならば、どうかその誇りを抱きつつ、家を守って欲しい」
リアーヌは目を閉じ、数秒間沈黙し、ゆっくりと目を開ける。
そこに先ほどまでの悲壮感はなかった。このわずか数秒で、彼女は全ての覚悟を決めた。
「ええ、分かったわ。レイシャス家の夫人ともあろう者が、取り乱してしまって申し訳ありません。私はあなたの誇りを胸に、この家を守り切ってみせます」
「……ありがとう」
シュダウスはさすが我が妻とばかりに微笑む。
そのままリアーヌの後ろにいる息子――ラティスに声をかける。
「ラティス、ママを頼んだよ」
ラティスは父譲りの銀髪と母譲りの跳ねた前髪が特徴的な少年である。父に憧れて剣に興味を持ち、まだ10歳にも満たないが、訓練場では年上の少年たちをも圧倒している。
「うん、僕に任せて、パパ!」
息子の返事に、シュダウスはうなずく。
「エリネ、君がいれば家のことは安心して任せられるよ」
エリネはレイシャス家に仕えるメイド。黒髪のショートヘアで凛々しい顔立ち。テキパキと仕事をこなすその有能さに、夫婦は日々助けられている。
「お任せ下さい、旦那様」
自分を案じつつ気丈に振る舞う妻、頼もしく育っている息子、仕事を任せられるメイド。もう何の心配もいらない。
屋敷には自身の誇りのみを残し、シュダウスは戦場に赴く男の顔となる。
ここでリアーヌが夫の背中に両手で術を施す。
リアーヌには魔法の心得があり、シュダウスにほんのわずか、守備力が増す魔法をかけた。
本当に効果はわずかなものであり、なおかつ戦場に出る頃には術の効力は切れてしまうだろう。あくまで夫にエールを送る“おまじない”のようなものであった。
シュダウスは「行ってくる」の言葉を残し、屋敷を後にした。
残されたリアーヌは――
「ラティス、もうすぐ家庭教師の方が来るから、しっかり勉強するのよ」
「はいっ!」
「エリネ、私は夫の代わりに事務仕事に専念するから、家のことは頼んだわ」
「はい、奥様! お任せを!」
夫の代理としてレイシャス家の主として仕事をこなすのみ。
泣き言を言っている暇などない。
しかし、心の中では――
(あなた、どうか無事に帰ってきて……。あなたがいなくなったら私は……)
他人に漏らすことは決して許されない悲痛な祈りを捧げるのだった。
***
一年が経った。
天気は晴れ。気候は穏やかで、レイシャス家の大きな屋敷もまた、平穏を保ち静かに佇んでいる。
あれから王国は、敵国を見事追い払うことができた。勝利者となった国王は巧みかつ苛烈な戦後処理を行い、敵国に多大な賠償を請求し、領地も割譲させ、軍事力を大幅に制限させる条約も結んだ。多くの血は流れたが、結果だけ見れば王国は大いに潤った。
平時では温和である国王が一切妥協しなかったのは、侵略に対する怒りや、君主としての利益の追求はもちろんだが、失われた命への弔いの気持ちもあったであろう。
「あの戦争が始まった日から、もう一年ほどになるのね……」
平穏を取り戻したリアーヌは独り、リビングで紅茶を飲んでいた。
そこにエリネがやってくる。優秀なメイドだけあって、その立ち姿も美しい。
「奥様、よろしいでしょうか」
「かまわないわよ。どうしたの?」
リアーヌはにこやかに応じる。
「物置をお掃除していたら、鏡が見つかりまして……」
神秘的な装飾が施された大きめの鏡であった。
「まあ……」
リアーヌは一目で鏡の正体が分かった。
「これは魔道具だわ」
魔道具とは、魔法の力が込められた道具のこと。これがあれば魔法の心得がない者でも、魔法のような力を操れる。
魔道具には例えば、炎を出すことのできる筒、強風を吹かせることのできる扇、長時間低温を保つことのできる石、などがある。
この鏡の効力は、『映像を記録する』というもの。鏡の前で特定の儀式をすると、数分間の映像を記録させることができる。記録した映像は、魔法の心得がある者が魔力を注入することによって再生できる。
つまり、リアーヌならば再生可能である。
「せっかくだし、みんなを集めて再生してみましょう」
リビングのソファに一家を集め、リアーヌは鏡に向けてしなやかな手つきで魔力を込める。
すると――
「……あなた!?」
鏡の中に、夫シュダウスが映った。
「パパだ!」
ラティスも目を丸くする。
鏡の中に映るシュダウスは、白いシャツを着ており、軽く咳払いしてから語り始めた。
『リアーヌ、君がこれを見ているということは、私はもう生きてはいないだろう』
シュダウスは鏡に魔力を込められるのは屋敷内ではリアーヌだけということで、リアーヌに向けてのメッセージを記録していた。
『おそらく数日後、私は陛下からの命に応じ、出陣するだろう。生還することは難しい戦いだ。だから最後に、この鏡にメッセージを残したいと思う』
リアーヌは鏡の中の夫に自然とうなずいた。
『君と出会ったのは、ある夜会でのことだったね。私は剣術に青春を捧げてきたから、華やかな社交の場に馴染めず、どこか不貞腐れた態度でひとりぼっちで酒を飲んでいた。そんな私に君は気さくに声をかけてくれたね。あの時は本当に嬉しかった。私の不作法の数々にも笑ったり呆れたりせず、にこやかに正しい作法を教えてくれた。君と出会えたことは私にとって人生で一番の幸運だった。どうもありがとう』
映像のシュダウスが頭を下げる。
『交際するようになって初めてのデート。私の段取りが悪く、入る予定だったレストランは満員で、観ようと思っていた演劇もチケットは売り切れ。君をむやみに連れ回すだけのひどいデートになってしまった。私が落ち込んでいたら君は“私たち二人が並んで歩けば、それが最高のデートコースなんです”と励ましてくれた。ただ歩くだけのデートになってしまったけど、どんな娯楽よりも楽しかったことを覚えている。あの日のデートは私の宝物だ』
リアーヌは当時を思い出し、「あなた……」とつぶやく。
『結婚してからも君は実によく私を支えてくれた。私の苦手な事務仕事を手伝ってくれたり、私の部下たちに手料理を振る舞ってくれたり、領民たちとも仲良くしてくれて、レイシャス家は君のおかげで大きく活気づいたことは間違いない。君には感謝してもしきれない』
鏡の中のシュダウスが沈黙する。
『そんな君を残して、死んでしまった自分の不甲斐なさを恥じる。だが、君は強い人間だ。どうか強く生きて欲しい。そして、まだ幼いであろう息子を、家に仕える者たちを、領民たちを、どうかよろしく頼む。だけど……もし、よかったら私のことを時折思い出してくれると嬉しい。本当にありがとう。私は君という伴侶と出会えて、本当に幸せだった。ありがとう』
“ありがとう”を繰り返す夫の姿にリアーヌの目が潤む。
『……さて。もしラティスがこの映像を見ていたら聞いて欲しい』
ソファに座るラティスがピクリと反応する。
『君には剣才がある。たゆまず鍛錬すれば、きっと私以上の使い手になれるだろう。その力でもって、国を、民を、そしてママをどうか守ってあげて欲しい。父として教えたいことはまだまだ沢山あったが、それができなくなってしまい、心から残念でならない。だが、君なら私の教えがなくとも立派な跡継ぎになってくれると信じている。どうか、頑張って欲しい。ラティス、君に全てを託す。託すことができる』
息子ラティスに多大な期待を寄せる、温かなメッセージだった。
『そして、エリネ。まだレイシャス家の屋敷に勤めてくれているだろうか。君はメイドとして非常に優秀なだけでなく、リアーヌ、ラティスに次ぐもう一人の家族といってもいい存在だった。もし君がまだいるなら安心して家のことを任せられるが、君とは主人としてもっと話したかった。それができなくなってしまったことが心残りだ』
メイドにまで気をかける主人の姿に「旦那様……」とエリネも涙ぐむ。
鏡に映像を残せる時間はもう残り少ない。
『じゃあね、リアーヌ……私はもういないけど、私は幸せだったよ。なにしろ君に出会えたんだからね。どうか、達者で……元気で……』
ここで映像が途切れ、シュダウスを映していた鏡は普通の鏡に戻った。
「あなた……」
「パパ……」
「旦那様……」
リアーヌも、ラティスも、エリネも、シュダウスからのメッセージに涙を流していた。
そして、三人の視線は一斉にある一点に注がれる。
その先にあるのは――いや、いるのはシュダウス・レイシャスその人であった。
他の三人と同じようにソファに腰かけるシュダウスは顔を真っ赤にして、両手を組み、うつむいていた。額には汗も滲んでいる。
「いやー……どういう顔をしてればいいんだろうね。こういう時って……」
シュダウスは戦争から生還していた。
彼が率いる部隊は予想されていた通り最前線に送られる。だが、シュダウスは鬼神の如き活躍を見せ、敵軍を次々に撃破、部隊の誰一人欠けさせることもなく戦争を生き抜いてみせたのである。王国の勝利を一ヶ月早めた、と言われるほどの活躍ぶりであった。
国王は「シュダウス・レイシャスは国家の救世主だ」と直々に名指しし、シュダウスに勲章を授与。大いに名を上げたのであった。
しかし、今この時ばかりは生還したことが仇になる格好になった。なにしろまだ生きている自分の前で、鏡の中の自分が『私はもう生きてはいない』などと語っているのだから。
「この鏡はある道具店で買ったんだよ。君らにメッセージを残すためにね。戦争から生還した時点でこっそり処分しておくべきだったんだけど、今の今まですっかり忘れててね……」
シュダウスはため息をつく。
「何を言ってるのよ。とてもいいメッセージだったじゃない」
「そうだよ、パパ! こんないいメッセージ、消しちゃダメだよ!」
リアーヌとラティスは揃ってシュダウスを叱る。
「だけどさ、自分で自分の『私はもう生きていないだろう』なんてメッセージを家族と一緒に見ることほど気まずくて恥ずかしいこともなかなかないと思うよ。正直言って、敵軍と戦ってた時よりも精神的にキツイかも……」
シュダウスとしてはやはり「やってしまった」という気持ちが大きいようだ。
だが、リアーヌはそんな夫に微笑みかける。
「そうかしら。夫が死を覚悟して残したメッセージを、夫も交えた家族みんなで見る。こんなに幸せなこともなかなかないと思うわ」
「リアーヌ……」
「あなたが生きて帰ってきて嬉しいのはもちろんだけど、あなたがどんな気持ちで戦場に向かったのか、私も少しは知ることができた。そのことがたまらなく誇らしいのよ」
一年前――当時のリアーヌは戦場に出る夫をただ見送ることしかできなかった。
夫の内にあるのは家族への愛か、国への忠誠心か、死への恐怖か、騎士としての名誉を重んじる心か、それを推し量ることすら難しかった。
だが、こうしてメッセージを見たことで、その一端がようやく分かったような気がした。共有できたような気がした。
「だから、あなたは『私はまだ生きている』と堂々としていればいいのよ」
「そうだね……その通りかもしれない」
シュダウスはフッと笑う。
「君たちはこの映像を見たけど、私はまだ生きているぞ!」
兵士らを鼓舞するように、勇ましく拳を突き上げる。
「そうよ!」とリアーヌ。
「そうだよ、パパ!」ラティスも拳を突き上げる。
「そうです、旦那様!」エリネは拍手を送る。
とはいえ恥ずかしさを完全に消し去るのは難しかったようで、シュダウスは顔に赤みを残しつつ、半ばごまかすような勢いで息子に声をかける。
「よーし、ラティス、剣の稽古をつけてやろう! 庭に出ろ!」
「分かったよ、パパ! 今日は一本取ってみせる!」
ラティスは嬉しそうに応じる。
一連のやり取りをエリネは温かい眼差しで見守っている。
動きやすい服装に着替え、庭に出ようとするシュダウスに、リアーヌはそっと声をかけた。
「長生きしてね、あなた」
シュダウスはにっこり笑ってうなずく。
「ああ、もちろんだとも」
おわり
お読み下さいましてありがとうございました。