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自由を求めて

    9


 ひび割れだらけの建物から出て、伸びぱなっしの雑草に足を向けて数歩進むと、


「翔くん!」


 と横から声が飛んできた。


 視線を向けると、外壁の下側の一際煤けてるるところに、擬態でもするように姿勢を低くした畔田さんがいた。


「大丈夫でしたか?」


「うん………」


「畔田さん。自宅に戻らず、もっと遠くまで逃げましょう。私が良い場所を知ってます。彼らはもう追ってこないでしょうけど、不満をもってる奴らが彼らだけだとは思えません」


「あの………」


 何か言おうとして、やっぱり口をつぐんだ。この状況で聞くことなんて、彼ら7人のこと以外ありえないだろうけど、決意してあの惨状に背を向けてきた身としては触れないでくれるのはありがたかった。


「じゃあ」と抱きかかえようとすると、彼女は「いっ」と声を漏らして顔をしかめた。


 彼女はしまったと表情を歪める。


「畔田さん……少し失礼しますね」


 言ってシャツを腹の上までまくり上げると、未熟な果実のように青緑に腫れた痣が点々と見えた。身長差を活かして肩の上から背中側を覗き込むと、同じくらい酷い有様だった。


 彼らにも多少の良識はあったのか、顔こそ無事だったけれどよく見ると痣は首のところまで迫っていた。


「畔田さん……」


「いいのよ。命を取られなかっただけで、運が良かったってことよ。翔くんが助けにきてくれたおかげよ。さあ行きましょう」


 了承して首の裏に手を回してもらうと、丁寧な手つきでお姫様だっこした。背中に翼が生えてる以上この体勢でしか誰かを運ぶことはできないのだ。あとは彼女の傷口になるべく気を遣うためという意図もあ

った。


 畔田さんからも特に注文や文句はないようだった。飛びますとだけ合図して低空低速飛行を心掛けた。


 飛行中に喋ったのはお互いひと言だけだった。


「どうして一人でパトロールなんて慣れないことしようと思ったんですか?」


 元はといえばそれが混乱のきっかけでもあった。すでに終わったことではあるけど、責めるニュアンスが一切ないとはいえない。


「だって、今日が翔くんの誕生日じゃない。ケーキはごめん、逃げてる途中で落っことしちゃったんだけど」


「…………………」


 拍子抜けする思いだった。


 誕生日なんて3年間祝ってなかったし、今年は自分でも忘れてた。そんなことのためにあなたは身を危険に晒したのか、とひとつ文句も言ってやりたかった。しかし彼女の顔を見下ろしたとき、彼女は本当にすまなそうな顔をしていて、しかもその申し訳なさは不用意に外出したことではなく、ケーキを渡せなかったことからきているようだった。


 なんだか毒気を抜かれてしまって、結局私は文句の台詞はどこかへ消えてしまった。


 抱えられっ放しの飛行なんて気が落ち着かないだろうと思っていたのだが、夜更かしも相まってさっきまでの緊張から一気に解き放たれたようで、気づいたらすやすや眠っていた。


 一時間ほど上空を飛んで――、到着したのは、すでに家主が死人となったあの家だった。地上に足を着き玄関と相対すると、扉の前にコンテナがいくつか溜まっていた。生活用品のことだけが気掛かりだったが、不要な心配だったらしい。


 軽く揺さぶって畔田さんを起こす。


 玄関ポストに隠していた鍵を使って扉を開けた。二人してコンテナを中に運び込んだ。彼女がひと息ついてるのを見て、


「じゃあ、これで」


 私はくるりと背を向ける。そのまま出ていこうとした。


「ちょ、ちょっと翔くん、どこ行くのよ?」


「また野生の生活に戻ろうと思うんですよ。人間やめようと思いまして」


 畔田さんに新たな住居を示せたし、これで当分の間は身の安全が保障されるだろう――私が、人間のうちにやるべきことはもうやり終えていた。


「人間やめるって、突然どうしてそんなこと言うの? もしかして、さっきのあいつらに何か言われたの?」


 勘がいいな、と思った。確かに決定打になったのはさっきの出来事だった。化け物扱いされた挙句に、彼ら全員無残な死体に姿を変えた。自分という存在の異質性を改めて思い知った。けれど、これはそんな刹那的な考えじゃなくて、野生の生活から抜け出してから、言葉にしなかっただけでずっと思ってたことでもあった。


「私は人間じゃないんです」


「人間だよ、翔くんは……」


「違いますよ。両方での生活を比べてわかったんです、やっぱり私には野生のほうが向いてる。人間よりも鳥類に近いんですよ」


「だけど――」


「いいんですよ。お母さん」


 二回目は自然な口調で言えた。初めに言ったときとは意味合いが違っていたからというのもあるだろう。今回の口調にはある確信がこもっていた。


「――やっぱり、気づいてたのね」


 畔田さんも初めのときとは違う反応を寄越した。それによって、ああやっぱりと私の確信は駄目押しされる。


 救いがあるのかないのかはわからないが、私にとって腑に落ちる結論ではあった。


「あなたが私の第四の母親。畔田さんじゃなくて、番場さん。番場かよこさんなんですよね?」


 マッドサイエンティストという呼称もあった。私の身に起こったことを考えればその呼称ははまり過ぎるくらいだろう。けれど、彼女の表情に今浮かんでるのは狂気性でもなければ科学者らしい冷徹さでもなく、母性や人間味といった穏やかで温かいものだった。そこに、私に気づかれてしまった事実に対する諦めも加わっていた。


「そう、私があなたの遺伝子に手を加えた科学者。指名手配中の………」


「名前を変えて近くにいるとは思っていたんです。自分の研究成果であり、自分の作品である私の経過観察を怠るとは思えませんし。けれど、用務員だったなんて……。そこまで接近されていたのは予想外でした」


「ええ、研究者だった頃の伝手が内側にあってね。その一人に手を回してもらったのよ。まあ、彼が密告するかもしれないリスクはあったけれど、あなたの傍にいられる対価と考えれば、それくらいのリスクは屁でもなかった」


「私の傍にいて、私を観察対象に据えることで、好きなだけ学者的欲求を満たせるからですか」


 棘を含んだその言葉を耳の奥に浸透させるように、目を瞑ってこらえる。


 ――信じてもらえないかもしれないけれど、と彼女は続けた。


「確かに当初はその目的のためだけにあなたに接近していたの。だけど、そんな企みはすぐにどうでもよくなってしまったのよ。あなたがあまりにも可愛かったから」


 生き別れの我が子を慈しむように後悔に満ちた声を発した。彼女は一体、何に後悔してるのだろうか。私という存在に翼を与えてしまったことなのか、下手に近づきすぎて母性を抱いてしまったことなのか――? あるいはもし本当に血の繋がった親子だったらというありもしない可能性を思い浮かべてのことなのか……私にはわからないし、彼女にもわかってないだろう。


 けれど何に後悔したところで、何に後悔しなかったところで、現実は変わらないのだ。


 確信してしまったことで、私はもう親しみをもってその呼称を使うことができなくなってしまった。母親を見つけた喜びと、異物を付与されたことへの恨みは折り合いがつけられなかった。


 だからせめてこちらから決別を告げようと、まるで告白を断る者の義務のように、


「――どうやっても信じられませんよ」


 畔田さんは哀しそうに睫毛を伏せた。


「私が翼を持たなければ渡嶋さんが命を落とすことはありませんでした。その場合は私と彼女が繋がりを持つこともなかったでしょうけれど、私は彼女に生きていて欲しかった。顔も名前も知らない出産母も同様にです。私を生まなければ全身の血を抜かれることもなかった。普通の赤子に生まれていたら、変則的な手続きだってなく、私はそのまま実の母親に引きとられて今頃ごく普通の青年に成長していたことでしょう。失ったものがあまりに多すぎて大きすぎました」


 他ならぬ息子の口からそんな言葉を聞かされ、畔田さんはくしゃりと表情を歪めて、


「…………ごめんなさい」


 さらに突き放すような言葉を重ねるつもりだったが、母親の姿を見て、最後の瞬間くらいい許してやろうとも思った。これが、私が人間として発する最後の言葉かもしれないのだ。


「私のせいでもあるんですよ。世の中には矛盾や理不尽というものが溢れていて、人々はそれらを呑み込みながら人生を前に進めていくんです。けれど、私にはそれができなかった。初めにも言った言葉ですけれど、私はやっぱり人間ではありませんよ。鳥に近い生態をしてるんです」


 ――さようならお元気で、と締めくくる。


「自首するわ」


 畔田さんが呟いたのを耳にして、顔だけ振り返って目を合わせた。どちらでも畔田さんの好きな選択をしてくれればいい、あなたの意思で何でも決めてくれればいい……そんな思いが伝わったのか、伝わらなかったのかはわからないけれど、顔を戻して玄関を出ると、もう一回振り返ることはせずに上空へ飛び立った。


 陽はすでに高く昇っていた。私はその光を翼に集めながら、反射させながら青い空を泳ぎ始める。下界の視線を気にすることももうなかった。


 風を感じながら、帰ってくるべきところに帰ってきたと感じる。ここが私のいるべき場所なのだと確信できる。


 どんな有能なスポーツ選手であっても、どんな万能な科学力をもった飛行機であっても、どれだけ飛翔能力に優れた鳥であろうとも、私より高く飛べるものはいない。ここにいる限り、私は誰よりも、何よりも自由だった。


 私の翼は、私の羽根は、ナイフのようにどこまでも鋭利に大気を切り裂き、加速するのを感じる。


 ようやく許しを得られた気がした。

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