救出
8
自分を痛めつけるように、暗いことだけ考え続けた。母親が死んだ事実を口にして確認しては心に一本ずつ傷を増やしていった。これが自暴自棄だという心境なのだとはわかっていても、リストカットするような反道徳的な心地良さから抜け出すことはできなかった。
何も失うものがない絶望に浸って、しかしそれはどんな責任感からも逃れられたということで、宇宙にでも放り出されたかのような解放感を覚えた。
全く……、母親の死でオナニーしてるような気分だった。その罪悪感でまた快感を感じて、悪循環の火に油を注いでいった。けれど、今から開き直って陽気になるのも無理だとわかっている。
私の心は重油のような黒光りする液体で満たされていて、その液体が浄化されることはない。その黒光りする水面に自己の姿を映して、自分だけを見て、ひたすら内面に閉じこもる――それも結果的には快感につながった。
心に傷をつける余白がようやくどこにもなくなって、重油がただの水溜りにしか見えなくなってきた頃、水中から顔を上げるように、私は外界に意識を戻した。
突っ伏したままだった姿勢から実際に顔を上げる。
時計が視界に入り、すでに早朝の4時を迎えていることに気づいた。
――行ってきます、と出ていった畔田さんのことを思いだす。
彼女が家を出たのは普段私がパトロールを始める時刻だから、深夜前ということになる。
すでに4時間半以上は経過している計算になる。寄り道をしてるにしては遅すぎる。
何か良からぬことでもあったのか? 夜中に女性がひとり外出するなんて危険なんだと、だから言わんこっちゃないと思って、そこで、今のご時世には暴漢でも不良でも、好き好んで外出する輩なんていないことに気づいた。
だとしたら、誰かに襲われてるわけではないのか、と思い直して、しかし出るとき彼女が口にしていた――サプライズを用意をしてたような思わせぶりな口ぶりを思い出す。
二時間後に何かがあるようなことを言っていた。つまり彼女はそれまでには帰ってくるつもりだった。なのに現在それが達成できてないということは何かしら予想外の事態が発生したということで――。
もしや、政府に不満をもってる奴ら――ネットで誹謗中傷書き込んでる奴らが、暴動ならぬリンチ沙汰でも起こしているのではないだろうか? こんなご時世に好き勝手出歩く奴なんていないといったが、明確な目標があった場合にはその限りではないのではないだろうか? たとえばその目標が、長い軟禁生活で溜まった不満や怒りや鬱憤をすべて晴らすことだったりしたら、感染のリスクを呑み込んでも実行する奴らはいるだろう。
感情というのはときにそのくらい凶暴に化ける。抑圧されればされるほど凶暴さの炎は大きくなる。
加えて、負の感情というのは周囲に伝播しやすいもので、ネットというコミュニケーションツールがあれば計算外の増殖を見せることもあるだろう。畔田さんの位置情報も例のスレッド内で流出したのかもしれない。
スレッドが丁度加熱しているタイミングだった。あれを見て、獲物を捕えんと外に目を光らせてる住人がいても不思議ではない。研究所の近くだから、暴動を逃れた残党の住処だって数あるはずだ。
そして運悪く畔田さんは見つかってしまったのか?
この仮定が正しいのかどうかはわからないけれど、彼女は現に帰ってきてないのだから、何らかの異常事態が起こったとは見るべきで、事態の中身がわからないのだから、最悪の状況を想定して動く必要がある。畔田さんがリンチを受けているのなら、それは反論の余地がない最悪の状況で、腕力にも逃げ足にも自信がないだろう彼女が対抗できると思えない――。
これ以上の考察は先が見えず無意味で、考える時間が長引けば長引くほど彼女の身の危険は高まってしまうだけだと思って、急ぎ足で廊下を渡り、玄関で靴をつっかけると、日が昇り始めた外の世界に飛び出した。
まず見回るべきは普段パトロールしてる道のりと、畔田さんのお気に入りのスーパーマーケット。夜間外出する際の行動範囲はこのくらいだろう。私は心を落ちつけるためにも、まずは歩き慣れたパトロールの道を選んだ。
平静を装ってはいるけれど、今の私は浮き足立った状態だ。
普段よりも注意力を研ぎ澄ませて、風景のあちこちを意識に捉える。すると、電柱の下に雨粒のように降った鳥の糞だったり、何年前のものなのか、自販機の側面にスプレーで書かれた英単語の落書きだったり、おこげのように公園遊具を覆ってる錆びだったり、無意味なものばかりが目について、それがまた焦燥を募らせる。
タッタッタッタッ、と足音の刻むリズムが徐々に早くなってるのが自覚できる。
視界の先には当然畔田さんの姿なんてなくて、その手がかりすらどこにも落ちてない。何もなさすぎて周囲の建物や置き物も含めて一面が砂漠に見えてくる。どこを歩いていても殺風景な風景は変わらず、蜃気楼でいいから何か姿を見せてほしいと願う。
――ふと、細い路地裏が目について、路の奥に一足の靴が放置されてるのが見えた。光に引き寄せられる蛾のように前に歩を早め、ガリッと皮膚が削れるような痛みが走って足を止める。
首を捻ると、ざらついた石塀に翼が引っかかっていた。二、三枚抜け落ちた羽が足元で煌めいてる。
足の位置を変えないまま強引に横向きになると、さらに痛覚が走って羽根も数枚抜けた。
かび臭いその路を蟹のような体勢で進む。靴までたどり着いて、片手で拾ってみると、柄からしてもサイズからしても子供用だとわかった。全体的に薄汚れていて、マジックテープの隙間にまで汚れが入りこんでいる。
使い古した靴をただ不法投棄しただけ、のようだった。見当外れだったのは明らかだった。靴に意思なんてあるわけないのに、馬鹿にされてからかわれて、挑発されてるように思えて、
私はそれを石塀に向かって投げつけた。
投げられた靴は民家の壁にぶつかって、たわんだつま先をバネ代わりにして、跳ね返った。ゴツンと額にあたって顔をのけぞらせる。靴が顔から滑り落ちると、もう一発仕返し食らえとばかりに、無地のTシャツに靴裏のスタンプを押した。茶色い染みが残る。
起き上がりこぼしのように元通りの姿勢で、靴はそのままコテンと落ちて止まった。
「――何してんだろ」
馬鹿なことをしている。馬鹿にされて仕方ないことをしている。畔田さんは危機的状況にいるかもしれないのに無能を晒すしかできない状況にいる。手遅れになる前になんとかしなきゃと思ってるのに、ひたすら空回りしてる感覚だけが手元にある。
渡嶋さんの死を思い出す。
あのときだって私は彼女が裏で考えてたことに気づけず、ただ自分本位に自由がほしいままに飛び立って、その死を知ったあとだって自分に許しを与えるように快感交じりの自傷行為をして、彼女の死それ自体からはビビッて目を逸らして、今だって悩んでるふりして、そうしていると思考を放棄できて楽で、けれどその自堕落さがまた少し心地良くて、そんなんだから今回だって大事な誰かを助けることなんてできなくて、けれどどうせって失敗したところで、その苦しさもまたオナニーに使うのだ。一生こんな感じで人生を終える。こんなふうにしか人生を送れないのが私なのだ。
壁に背中を預けて、ずりりりりりりりりと膝を曲げていった。日陰で体育座りして小さくなってると、世界に対して自分の小ささが浮き彫りになるようで、それが内にこもるきっかけにもなって、前述したような感じで快感に浸っている。その快感と同居しているのがかろうじて消えずに残ってる使命感と焦りで、だけどこんなのもどうせ一時的なもので、このまま家にでも帰って数時間待って、やっぱり畔田さんが帰ってこないのが確認できたら諦めもついて今抱いてる混ぜものみたいな気持ちも消える。
そしたら私の塞ぎこんだ気分も軽くなって、数日間親切にされた恩なんかも忘れて、また自分勝手にどこかへ飛んでいくのだろう。どうせそこでもまた失敗する。あの堅牢な研究所を出てから、自分のことが厄災を運ぶ死のトラックのようにも思える。渡嶋さんは自殺してしまって、警察官の彼は元から狂っていたけど私と会わなければ死ぬことも多分なくて、畔田さんは現在何かしらの不幸に遭っている。
それは私が異形の翼をもっている、他の人間と違う化け物だからで――、私はそもそも人間ですらなくて、人間の顔をもっただけの悪魔なのかもしれないと思う。銀色に輝くこの翼は天使の翼でも神々しいものでもなくて、この光沢の一枚下にはじっくり煮詰めたようなどす黒い陰が潜んでいるのだ。
細い路地に風が入りこんできて、さっき落とした数枚の羽根のうち一枚が顔に向かって飛んできた。
風は思いの他長くて、羽根は顔に張りついたまましばらくそのままで、細かい毛がもしょもしょ鬱陶しかったのでつまんではがす。
羽根の表面に緑の紙吹雪みたいな破片がひと粒ついてるのが見え、これは何だろう考えて、すぐに研究
所の庭に高く伸びてた雑草の群れを思い出した。
「研究所?」
自意識に浸って遠のいていた思考が戻ってくる――。
もし、誰かを拉致するとして、拉致しただけじゃ仕方ないので、監禁場所を選ぶ必要があるが、現在閑散としたこの街中で物騒な行動を取るわけにもいかないから、ある程度大きさがあって、なるべく人が寄りつかないところで――たとえばどんなに大声を上げたとしても、野良犬の吠え声くらいにしか聞こえない荒廃した土地があったりしたら、場所として申し分ないのではないだろうか。
廃墟同然となった研究所跡のあそこは、まさにその条件に合致している。となると、もしや――という閃きが芽生える。
私がパトロール場所に選んでいたのは警察の捜査資料で目撃証言が上がっていたところで、そこに研究所自体は含まれてなかった。
「今からでも間に合うだろうか」
針の穴のようにかすかな希望が見えた。それだけで十分だった。
さっきまでのうじうじ暗かった思考なんて、全部吹き飛んでしまう。使命感と焦りを感じながら、頭の中では必死に計算をしている。
――ダメだ、距離があり過ぎる。全力で走っても20分ほどかかってしまう。向こうの状況がわからないから、どの程度余裕を持てるのかもわからないが、たとえ無事間に合ったとしても、そこで体力を使い切っていたら畔田さんを救助することもできないのだ。さっきまで悩んでた時間はもう取り戻すことはできないけど、せめてもう少し時間を短縮できるような案は浮かばないだろうか?
と考えて、
私には翼があるのだと、思い出した。野生での三年間、大半の時間を上空を飛んで過ごしていた。利き手を矯正するようなもので、今や歩くよりもこっちのほうが効率的な移動手段になっている。曲がり角や遠回りが必要なところだってすべてショートカットできるだろうし、上空からなら敵の目も届きにくく、運良く不意をつければ一気に任務を完了させることだってできるかもしれない――。
助けられるかもしれない。
立ち上がると、屋根と屋根がせめぎ合ってる狭い隙間に向かって飛び立った。
隙間からは太陽の光がもやのようにぼやけていて、そこを一瞬抜けると、頭上にまだ早朝を示してる藍色の空が広がっていた。屋根にまたガリッと翼を擦ったが、全身に風を感じてるうちに痛みなんてどこかへ去っていく。
十分な高度を保って、太陽を背中に地上を見下ろすと、廃墟同然のその建物はすぐに目についた。表面のコンクリートに煤を振りまいていて、お化け屋敷のようにも見える。遠近感によって古びただけの一枚のレンガにも見える。かつて私が暮らしていた場所で、暴動が起こるまで、何人もの研究者が働き、政府の指示でか、ウイルスに立ち向かおうとして失敗して、半分八つ当たりのような感情で痛めつけられた箱物――。
しかしそんなプロフィールなんて今はどうでもよくて、大事なのはあそこに畔田さんが監禁されてるかもしれないということだ。さっきまでうだうだ考えていたし、まだそのことに完全に蹴りはつけられてないけど、彼女が私にとって大切な人で、大切な人なら助けるべきで、だから私は彼女を助けるという三段論法が成立してることは確かなのだ。
悲しさや辛さを感情のバケツに沈殿させてしまって、それでオナニーして快感を得るのは私の悪いところだし、けれど今すぐその生き方を更生できるわけでもないのだから、今は目下の危機に対処するよう全力を振り絞って、あとでうじうじ悩まなければならない事項を一つでも減らしておくことが大切なのだ。
肩甲骨を引き締めて後方に翼の反動をつける。早朝の乾いた空気を大きくひと掻きする。両方の翼を大きく広げ、まるで自分が一枚のナイフになったような気分になる。大気を切り裂くように進む。
びゅんびゅうん、と風の音が耳の渦巻き模様に入りこんでは新たな風に押し出されて音色を変える。口に息が入らないように給料日前の財布のひものようにきつくきつく引き締める。冷たく鋭い風に眼球がぱっくり割れそうだったが、瞼だけは閉じない。下界に見える色とりどり屋根が、ゴムに変化でもしたかのように引き伸ばされて見えた。
しかし、正面に見える一点だけは常に明瞭だった。灰色に黒の斑点が交ざった廃墟同然の建物。丸い視界の中心に鎮座するその巨大な的に向かってに突き刺さらんばかりに落下してく。風になったというよりも、鳥になったというよりも、ミサイルになった気分といったほうが正鵠を射ていた。
これほどの高速を体感するのは私も初めてだった。仮にこの空に交通法というものがあったなら、一発で免停になっていた。もしこのまま研究所を目指さず、どこまでも地平線を追い続けていれば、いつかはちびくろサンボの虎のように溶けてしまうかもしれないと思った。そのときの私は黄金色の食欲をそそるバターなんかじゃなくて、液体化された鉛のようなとても人らしくない有様に変化するのだろう、ととりとめのない妄想を膨らませる。
それが私の本質なのだろうなと少し愉快な気持ちになって、口角も上がる。けれど、この風の中口を開いたりはしない。
太陽光の演出か、襤褸着のパッチワークのようになった緑色が視界いっぱいに広がった。翼を広げたまま上体を起こすもブレーキはかかり切らず、毬が跳ねるように乱雑に着地することになる。視界がくるくると暗くなったり明るくなったり切り替わる。三半規管が取り外されてそれだけ洗濯機に放り込まれたような気持ち悪さが精神を支配して、一瞬自分を見失う。
景色のパズルが一ピースごとに意思をもって動き回ってたのが、順番に足を止め始めて、正常な一枚絵に戻っていく。三半規管が洗濯機から耳に戻ってくる。顎まで伝わってくる心臓の音を無視して、足を庇うように起き上がると、負傷は精々が打撲らしくて、指で押してみるも骨はどこも折れてないようだった。
少しどころじゃなく考えなしだったけど、その後悔もひとまず後回しにする。今は目の前にどでんと居座ってる廃墟のような建物に視線を突き立てる。
気はとっくのとうに引き締まっている。
手を伸ばしながら貼りついてくる草を掻きわけ、建物に足を踏み入れる。雨の日のような黴っぽい臭いが鼻腔に充満した。
彼らがどこにいるのかはわからないけど、音がしないということは入口の付近ではないのだろう。
右手の壁はのっぺりしてるだけだったが、左手の壁にはずらりと扉が並んでいて、しかも隠れんぼの鬼が調べ回ったかのようにすべてが開かれていて、私は歩きながら中を覗くだけでよかった。
慎重にと自分に言い聞かせて、静寂さを殺さないようにまばたきの音にすら気を遣って前進する。
私という侵入者がいることを彼らに気づかせてはならなかった。
見えないのだし、手がかりすらないのだから、畔田さんがどんな状況に閉じ込められてるのかわからないけど、そこに私という第三者で人ならざる化物が出現したときに彼らがパニックを起こすだろうことは予想がつく。そうなったとき、暴力的な彼らがどんな行動に出るのか……こちらに好都合な展開に転がる可能性は低いと思う。少なくとも、姿を見せたあとではまともな対話は望めないだろうし、要望や交渉をするならその前になんとかしたい。
ただ残念なことに、そのなんとかに関しては何のアイデアも浮かんでないのだったけど。
彼らの目的は溜まり溜まった怒りや不満や鬱憤を晴らすことなのだから、そのはけ口を別に用意してやる必要があるのはわかる。しかし、そのはけ口が第二の研究所や第二の畔田さんであってはならない。誰にも迷惑がかからず、誰も傷つかないような解決策でなければ畔田さんだって納得しないだろうし、私だって採用するつもりはない。
しかし、もし最後まで何も思いつかなかったら、そのはけ口として―――――と考える。
あくまで最後の手段だ。
その他にも暴力的なプランもあるのだが、そちらは今煮詰めている最中だ。なるべくなら平穏な解決を望みたいところだが、実現させるのは難しいだろう。いざというときに大事なのは迷いをさっさと捨てることだろうから、中途半端な行動をとることだけはせずにいようと心に戒めを告げる。
平穏だのなんだのといっても、一番優先させるべきなのは畔田さんの無事だ。
突き当たりまでくると、右手には通路が長く伸びていて、左手には二階へ上がるための階段が見えた。
正解がどちらかなんて断定できるはずもなかったけど、私は階段のほうを選択する。一階にいて音が全く聞こえなかったというも理由のひとつだし、後ろめたいことする奴らはなるべく地上から離れた場所を好むのではないか、と思ったのだ。このご時世に外をうろつく奴なんて私を除いていないだろうけど、臆病という性質は過剰であるのが基本だから、それ関しての心配があっても不自然じゃない。
その論理に従って私は二階も飛ばして三階に上がると、一つの部屋だけ扉が閉ざされていて、そこは研究所にいた頃に私に与えられてた部屋だった。ここに逃げ込んだのは恐らく畔田さんの意思だろう。こんな中途半端な位置にある部屋が、偶々彼らが選んだ監禁場所だったとは思いにくい。研究所に連れこまれたときに彼らの隙をついて一旦逃げ出してここを隠れ処に選んだのか、もしくは外で追いかけられてるときにこの建物が目について逃げ隠れたはいいもののそののちに捕まってしまったのか………恐らく前者だと思う。
私がこの建物を特定できたのも、ここが監禁場所に向いてると思ったからだし、外で逃走劇を繰り広げていたなら、そこで大声でも出して近隣住民の助けでも求められただろう。
畔田さんがこの部屋を選んだのは、私と数日同居して偶々連想しやすかったからだろうか。
開いた扉からも、前後の突き当たりにはまってるガラス窓からも、早朝から朝に変わった太陽の光がもれていて、陰気な廊下をほんのり照らしてくれていた。閉じられた扉の正面には赤いドーナツ型の火災報知器のボタンがあって、その頭からは鬼の角のようなサイレンが突き出ている。
私は一層全身から音という音を消して、逸る気持ちを押さえつけながら、ここですべて台無しにするわけにはいかないと自分に言い聞かせる。足を忍ばせて近づくと、やがて男数人の声が漏れ聞こえ始める。確実なことは言えないけど、声の数からして、少なくとも5人はいることがわかった。
火災報知器の角が指し示す扉の正面で足を止める。
畔田さんの代わりに差し出せるはけ口はまだ思いついてなかった。というより、そんな都合のいいものがこの世に存在するはずないことを、私はすでに気づいてた。誰も傷つけず、誰の不利益にもならずに、彼らの溜まり溜まったフラストレーションを解放するなんて――良いとこ取りの寄せ集めみたいなやり方がこの世の中で通用するとは思えない。
そんなの、見つけるべきじゃないとも思う。そんな歪なものがあってしまったら、誰もがそれに頼って、世界自体が歪になっていって、けれどその歪というのは単に歪んでるということで進化や進歩とは違うから、まさしく不具合といえる。ようは問題を未来に先送りしてるだけで、誰かの利益と誰かの不利益で収支を合わせてるという点では変わらないのだ。
そもそも今回はその先送りの方法すら思いつかないのだから、考慮に入れる以前の話だけれど――。
これまで二人の人間を殺した私の翼をもって、彼らと格闘するという手も頭の中にはあったけれど、結局却下する。傍にいる畔田さんを傷つける可能性があったし、鋭利な翼があったところで、複数人の男性を相手に切り抜けられるかはわからない。より状況を悪化させるだけだったら最悪だ。
こうやって理由を並べてみたけれど、結局のところそれ以上に理にかなったプランがあるから、そちらを選ぶというだけの単純な行動原理だった。
一切の犠牲を出さずに円満の解決を目指すのが不可能だというのは先述した通りだけど、しかし逆に言ってみれば畔田さん一人と釣り合うだけの人身御供を用意できれば問題は解決するということだ。そしてその場合、一人分の人身御供は探すまでもない。
ここにいる。翼以外はひ弱そうで細い体格をした、殴りやすそうな青年がいる。
対抗できるような武器はなくて丸腰だし、むしろこちらから甚振ってくださいとお願いする立場なのだから、初めから対抗する意思もない。
畔田さんを助けられるなら、私が傷つくくらい――もしかしたら死ぬまであるかもしれないが――何てことのない問題だ。それに、これが尊い自己犠牲なんかじゃないことは私が一番わかってる。嫌々歯を食いしばりながらやられるわけじゃない。
ここにくるまで渡嶋さんが自殺したことでうじうじ悩んでいて、この箱物に突撃する前にいったん吹っ切れたはずだったけれど、それはどす黒い泥々が浄化されたわけではなくて、ただ目先の希望によって、目先の明るさによって、一時的に目を離していただけなのだ。
私は誰かに罰して欲しかった。
決して悲観的なだけの考えではなくて、そうすることで心の芯から救われると信じてる。渡嶋さんの死はそれだけ重くのしかかっていて、ここで犠牲を引き受けることでようやくその苦悩から解放させてもらえる。
ここで痛みを拒んでしまったら、私は一生精神の自傷行為を続けることになるだろう。それを回避するための、これは計算づくの自己犠牲なのだ。
火災報知器の脇の棚を開いて、中から消火器を取り出す。彼らを混乱させて、そのどさくさに紛れて作戦を実行するつもりだったが、ただ普通に噴出するだけのつもりはなかった。確実に救出するのが第一の目的なのだから、代わりに私が身代わりになるとしても、混乱はなるだけ大仰に演出する必要があった。
左手で消火器の頭をつかんで、反対の手をドアのノブに添えた。
彼らの声が静まる一瞬を待って、音が消えたその間隙に入りこむように、ノブを捻って勢い良く手前に引いた。
前足を滑らせて中に入ると、部屋にいた全員から注目を受ける。男性の数は予想していたものより2人多くて、7人で、雑に縛られて彼らに囲まれるように床に転がされてるのが畔田さんだった。
口にも猿ぐつわのようにタオルを噛ませられていて「ふご――!!」と「ふが――!!」の中間のような悲鳴を上げた。
来るなと言ってるのかもしれなかったが、私はそれを無視して、左手の消火器を宙に投げる。翼を傘のように広げて、水滴を飛ばすように後ろ向きに回った。羽根の先まで神経を通すような、先端がナイフのように尖った様を思い浮かべて、赤くて固い入れ物を切り裂いた。
パンッ、と破裂する音がして、中の粉がびっくり箱のように外に飛び出し、部屋中の空気を白く染める。逆噴射で飛ばされたその赤い入れ物た天井に激突する。鈍い音を立てると、私の足元に落下した。白い空気の中をくぐり抜けると、床の畔田さんを多少強引に背負って部屋の外に出た。
手足の拘束は意外に固くて、一度部屋に戻ると、消火器の残骸を拾って、ささくれだっただった割れ目の部分をナイフ代わりに使った。
畔田さんは自由になった手を使って、首を振りながら猿ぐつわを首まで下ろした。
「翔くん、早く逃げないと!」
彼女の瞳に恐怖と不安と驚きとが浮かんでるのを見ながら、両肩に手をおいて「畔田さん」となるべく落ち着いた口調で呼びかける。
「先に逃げてください。この土地に詳しいのは畔田さんのほうですので、逃げる場所はお任せしますが、できるだけ研究所から連想しずらいところがいいでしょう。お勧めはしませんけど、もし体力が残ってなくて自宅くらいしか隠れる場所がないのなら、鍵だけは絶対にかけて誰が来ても開けないようにお願いします」
「翔くんはどうするのよ?」
「私はすることがあるので、畔田さんが逃げたあと逃げるつもりです」
誠実な口調を心掛けて言ったが、もちろん嘘の台詞だった。することはあるけれど、それは彼らがすることがあるということで、私はただ殴られ役に徹するだけだし、だから、畔田さんが逃げたあとで逃げるつもりもなかった。
「あとで、ってどうしてよ? 一緒に逃げればいいじゃない? 7人もいるのに翔くんだけ置いてくわけにいかないでしょ!」
「ここで私も一緒になって逃げれば彼らはまた同じことを繰り返します。今度は家に押し入ってくるかもしれません。だから、今のうちに清算する必要があるんです。彼らの不満と今の状況の両方の…………」
「そんなあとのことなんて今考えても仕方ないじゃない! 今が危ないんだから、今逃げるしかないでしょ! もし、家に押し入ってきたらそのときはフライパンとお玉で撃退してやるわよ!」
「畔田さん」
肩を掴んだ手にぎゅっと力を入れる。
彼女の瞳はうっすら潤んでいて、私は渡嶋さんに別れを告げた最後の日のことを思いだした。
「お願います。もう同じことを繰り返したくないんです。今日ですべてに決着をつけたいんです」
「駄目だよ………」
「――お母さん」
そう呼んでしまったのは私としても予想外のことだった。今日までその呼称をつかった人は一人しかいなかったのに………。彼女が死んだと知って、今後一生涯その呼称も使わないだろうと思ってたのに………。
自分の胸に聞いてみても、どうしてその単語が口をついたのかわからなかった。しかし動揺してる私がいる一方で、頭の半分は冷静な私が占拠していて、冷静な私は畔田さんの心が揺れ動いたのを精確に読み取っていた。
「逃げてください」
もうひと押しとばかりに、半分の私がそう言っていた。
こくんと頷くのを見て、私は手のひらの力を緩めた。彼女はすり抜けるようにして、
「待ってるから」
と最後に一言だけ残して階段のほうへ走っていった。
部屋の中に充満していた消火剤も徐々に床に降り積もり始めていた。口や鼻を押さえてる7人の男たちの姿が見える。見ず知らずの男に鬱憤を晴らす機会を不意にされて、きっと怒り心頭でいるだろう。
けれど、その怒りは私がすべて受け止めるつもりだった。本来晴らすはずだった鬱憤も一緒に晴らしてもらうつもりだった。
畔田さんも逃げてくれたし、ここまでくればあとは簡単な仕事だと思っていた。何しろ、私はただ殴られてるだけでいいのだ。そうすれば私のどす黒い泥々も浄化されて、消え去ってくれる。
そう思って、まだ白い粒子の浮かぶ室内に一歩踏み込んだ。
――しかしそんな青写真は叶わなかった。
彼らの前に姿を現した瞬間、彼らから理性や常識というものが吹き飛んでしまった。私にはその光景がはっきり見えた。人体模型のように目ん玉を丸く開いて、腹話術の人形のように顎ががくんと垂れ下がった。薄い皮膚からは顔の骨格が透けて見えるようで、それは丸っきり狂人の顔だった。
「化け物」
中の一人がそう言った。数秒経って、自分を指して言ったのだと気づいた。元から狂ってた人か、私の正体をあらかじめ知ってた人でもなければ、この異形の翼を目にして、そこに備わる生々しさを偽物だとは疑わないのだろう。
私が呆然としている間に窓際にいた一人が窓を開いていた。電子ロックがかかってるはずだったが、すでに機能してないらしかった。喉に蓋でもされたようなくぐもった悲鳴を漏らしながら、まるで救いでも求めるように窓から身を投げた。彼に続いてさらに3人が身を投げた。
私を化け物と呼んだ男性が、黒革の手袋をはめた手をポケットに入れて、折りたたみ式のナイフを取り出した。
一足分、歩を進めると、
「くるなー!」
威勢を虚飾するように切っ先を突き出してくる。すると、そのナイフの柄に予想外の方向から手が伸び
てきて、それを掴んだのは生き残ってた3人のうちの一人だった。切っ先を自分の喉に引き寄せると、手袋の手は柄を持ったまま一緒に引っ張られた。
喉が掻っ切られると、室内の白色を染め直すように赤い鮮血が飛び散る。手袋の彼の服にも水玉模様の染みを残した。
「うぁうわあ――」
手袋の彼は、血まみれになったナイフの捨て場でも探すように、私の腹めがけて足を回してきた。しかしその途中で床に落ちてたぬいぐるみの中綿を踏んずけて、不格好な水泳の飛び込みのように額から床に吸い込まれていった。そして、フローリングを割るような轟音が響いたかと思うと、彼はうつ伏せのまま顔を横向けて死んでいた。
現実感のない血のりみたいな鼻血が両方の穴から垂れただけだった。
最後に残った一人と目が合うと、彼は鼻を中心として、外側に向かって放射状の皺をつくった。獣が威嚇するときのような顔だった。上下の唇から舌を出したと思うと、絶望という概念を切り離すかのように飛び出た部分を噛み千切った。
口の中で水風船を割ったかのように赤色の液体を破裂させると、溺れ死ぬように顔色を紫に変えた。
もがき苦しんでたのが石造のように動きを止める。それを見て、死んだのだと確信した。
「ま、待ってください」
唖然とした状態からようやく意識を取り戻して出した第一声がそれだった。けれど、目の前に転がってる死体たちが口を開くわけもなく、客観的に見ればまさに滑稽だった。
しかしその滑稽さを自覚することで、一時的にだけれど悲観的になりすぎずに済んだ。悲惨な結果は決定されてしまったのだから、今さら悲観的になっていたって仕方ないのだ。先に逃げた畔田さんも待っているのだし、状況が変わったのならさっさと思考も切り替えて、ここから離れるべきだろう。
廊下に数歩出ると、途中で一度立ち止まる。
振り返ろうかと思ったが、去ろうと思うなら余計なことはなるべくしないほうがいいと思って、悲惨な
現場からはあえて目を逸らして、階段のほうへ向かっていった。