研究所日誌
7
それから数週間経った。
頻繁にスレッドを閲覧していたが、研究所に対する風当たりが弱まりそうな様子はなかった。第四の母親に関しての調査もここ最近は芳しくなかった。警察署でデータを得られたところまでは比較的順調だったものの、そこから先に進めない。街を巡回してもすっかり見慣れた景色が広がってるだけで、ネット内でも面白半分の考察が転がってるだけで、誰もがまるでUFOや未確認生物の議論でもしてるような熱量しかもってないようだった。
畔田さんはヨガにハマったようで、ネットから離れた分、一日何時間も打ち込んでいるようだった。しかし、それだけでは運動量が足りないのか、それとも外の空気を吸いたいからなのか、数日に一度私の外出に同伴するようになった。
そんなに散歩が好きなのか、一度彼女に聞いてみたことがあったが、
「どっちでもないよ。翔くんが気づかないならわざわざ教えてあげるつもりないけど、きみは私たちにとって息子みたいな存在だったんだって言ったことあったじゃない? そういうことよ」
「……………………」
どういうことなのか、結局私は理解できなかった。
同伴するたびに、彼女はスーパーに寄って大量の間食を買い込んでるので、それが目当てなのかもしれない。
彼女にとっては残念なことに、その間食のせいで、いくらヨガをやっても消費カロリーは帳消しにされてしまってるようだった。
私がここ数週間送ってきたのはそんな日々だった。
特に何事もなく、前進も後退もしない日々――。ただその場で足踏みし続けてるだけのようで、しかしそんな平穏な日々を悪く思ってない私がいる。心地良さを感じ始めてしまってる私がいる。
しかしふと第四の母親への憎しみを思い出すと、このままでいいのだろうかという焦燥が心臓を貫く。
奇形の化け物が人間社会に紛れ込んでるというの状況が落ち着かなかった。
何か目標が、言い訳が必要なのに、その言い訳は日が経つごとに形骸化している。いつかバレる嘘を誤魔化しながら、代償だけを先送りにしている気がする。許されざることをしているんじゃないのか、という心配の波が定期的に襲ってくる。
調査の手を広げようにも、見つけた取っ掛かりはすべて潰し終わっていた。
何の進展もないだろうとはわかっていても、言い訳を用意するためにも、パトロールを休むわけにはいかない。今日も行ってこようと思って、
「――あっ、今日は翔くんずっと家に居てね。代わりに私が散歩してくるから」
「代わりにって……畔田さんがパトロールして意味ありますかね?」
「うあ、ひどいー。私が鈍感だって思ってる?」
「思ってるというか、遠回しにそう告げてるつもりです」
「う、くっ、まあでも、鈍感さでいったら翔くんのほうが上回ってるけど」
「ん? どうしてです?」
「あら、本当に気づいてないのね。2時間後のあなた自身に聞いてみなさいな。精々楽しみに待ってなさいね」
2時間後に果たして何があるのだろう? 精々楽しみにと言われても、何を楽しみにすればいいのだろう?
「ですが、やっぱり日課を崩すというのは………」
「いいじゃないの。私のことを信用しなさいな。それに翔くんだから気づかないってことだってあるかもしれないじゃない。第三者の私だからこそ発見できる事実とかさ。あまり期待してもらっても困るんだけど。100万分の1くらいの確率なら、何か大事なものを掘り当てるかもしれないよ」
私を家に留めておくためだけのただ口実にも思えたが、その理由自体には共感できるものがあった。自分でも気づかないうちに、頑固な固定観念を通してしか物事を観察できなくなっていたのかもしれない。
「じゃあ、お願いします」
「行ってきます」
畔田さんが出ていって数分経ち、それでも私は落ち着かなかった。代わりの言い訳を用意したかった。ネットサーフィンをしようと、パソコンを開いた。
すると――普段はアカウントだけ変えて端末は同じのを使っていたのだが――今画面にずらりと並んでいたのはヨガに関する検索結果ばかりで、電源を落とし忘れたのだろうとわかった。少々呆れながらも、右上のバツ印をクリックしてウィンドウを閉じた。そのまま一旦電源も落としてしまおうとボタンに手を伸ばしたのだが、そのとき、ホーム画面に並んだファイルの中にひとつだけ目に止まるものがあった。
研究所日誌。
端的なタイトルが表示されていた。この中を探れば第四の母親に関しての手がかりも見つかるかもしれない――プライベートの覗き見はマナー違反だけど、これは個人的な日記でもなければ組織的な記録だし、私には譲れない目標があった。
自分を納得させるためだけの理由をつらつら並べながら、気づけばそのファイルをクリックしていた。
最後の記録は4ヵ月と少し前のもので、暴動が起こる一日前の日付けだった。
データを過去に遡ってみると、記録者の名前がコロコロと変わっていて、ローテーション制なのだとわかった。いずれも用務員の名前だろう。彼らは4人いたらしい。畔田、山中、室口、野田城――。
けれど――そこに渡嶋さんの名前はなかった。
何度も否定してるのに、嫌な予感は次から次に湧き上がってくる。嘘だと叫びたかった。まさかそんなはずはない、あの渡嶋さんに限ってそんなことは――。パソコンが壊われるんじゃないかと心配になるほど連打して、ひたすら遡る。内容なんてものは、思考の表面を上滑りするだけだった。唯一の母親が、ただ一人慕っていられた母親が、この世にいないなんてことないはずなのだ。
そんな不幸は信じたくなかった。
畔田、山中――野田城、畔田、山中、室口…………。けれどどこを見つめても、渡嶋の苗字は現れなかった。
自分の目が節穴であってくれることを願った。
けれど、その願いも叶わなかった。やがて、当然の帰結として、自分が研究所を抜け出したあの日のページに行き当たった。厳密に言えばその翌日の記録。
記録者は畔田さんだった。
日誌らしい、感情の感じさせない文章で綴られていた。
『針馬翔――重要観察個体を逃がしたのちにだと思われるが、渡嶋雫石用務員が自室にて自殺。手段は縊死であり、一職員としての責任感に負けて実行したものと思われる――』
自殺。縊死。私を逃がした翌朝、一職員としての責任感に負けて――。
「大丈夫だって言ってたじゃないですか。少しくらいの嫌がらせは愛嬌で乗り越えてやるって。なのに、最初から死ぬつもりだったんですか」
死んだら何の意味もないじゃないですか――。
渡嶋さん《おかあさん》の死と引き換えだとわかっていたなら逃走なんて望まなかった。あの日、生まれて初めて空へ飛び立った喜びが思い出されては萎れていった。初めて野鳥を捕まえて自給自足したときの達成感が、満腹感や満足感が、暗い感情に塗り潰されていく。母親の命より価値のあるものなんて、この世にあるはずない。
「何があっても、せめて生きててくれてるって信じてたのに………」
しかも殺したのはほとんど私なのだ。笑顔が素敵だったお母さんの顔を思い出して、今自分が生きてることが大犯罪のように思えてくる。
ウイルスに罹ってないかとか、暴動で無事だったのかとか、身の程知らずな心配して、とっくの昔に彼女の命は失われていたのだ。ただ私が気づかなかっただけで――。彼女の自己犠牲に気づかなっただけで。鈍感だっただけで、のろまだっただけで、馬鹿だっただけで、グズだっただけで。
会えるはずないとはわかっていても、本音の本音をいえばもう一度と言わず会いたかったに決まっている。ただ無事でいて欲しいというのは建前みたいなかっこつけた願望で、芯の醜い貪欲さをさらけ出してみればそれが本音だった。もう一度会って、あの笑顔を見たかった。
けれど、彼女の魂はこの世に残ってすらいないのだ。
どんな科学技術をもってしても、翼の生えた化け物をつくれたところで、死んだ人間を生き返らせるなんて到底でいはしないだろう。彼女の魂は永遠に消滅してしまった。もうあの笑顔で周囲を照らすことだってない。児童用のお菓子の味だって感じられないし、後輩用務員に叱られて申し訳なさそうにしょげることだってない。五感をもってして、世の中に存在するどの刺激を受け取ることもできない。
それが死ぬということなのだ。
死というのは無ということなのだ。
何も残らない――。
だから、お母さんが死ぬ意味なんて、死ぬ必要なんてどこにもなかったのに。
どうしようもない無力感。どうにもならない虚無感。何もかもがどうにでもなってしまえという無関心。
地底まで続く落とし穴の縁に腰を下ろしたような気分で、机に突っ伏した。