研究所
5
叩き割られた卵の殻のように壁面や天井には亀裂が走っており、油を撒いて火をつけられたのか、三分の一ほどが煤けてしまっていた。一部は蝋のように溶けている。庭にはかつて芝生の絨毯が敷かれていて、以前は短髪に整えられてた緑の毛足も、今では野放図に伸びっぱなしになっていて、半壊した卵から養分を吸いつくそうとしているようにも見えた。
表の門扉を正面に着陸すると、鉄製の看板はねじがいくつか飛んでいて、一点でつっくついたまま右肩下がりにぶら下がっていた。門扉を横にひっぱると、錆が摩擦を大きくしてるようで開かなかったので、飛翔して上から入った。
ひび割れた殻に向かって歩く。ここに暮らしてた頃は、屋外を散策したこともなかったから、この外庭を踏みしめるのも初めてのことだった。綺麗だった以前はどのような景色が広がっていたのだろうと妄想したけど、廃墟のような今の印象が強すぎて、何も思い浮かばなかった。
腰や胸にも届く草をかき分けて進むと、表面の粘性が服や皮膚にくっついて、鬱陶しさを覚えた。
建物内に入ると、そこでもまだ草が続いていた。屋外ほどではなかったけど、床を割ってまばらに生えてるのが見える。ひび割れた壁や天井から雨漏りの跡が黒々と染みになっていた。
ブレイカーや照明ボタンを試してみても電気はつかなかった。
薄暗い廊下を進みながら一つ一つの部屋を見て回った。実験室に入ると、戸棚のガラスは散乱していて、フラスコやビーカーなど中のものを横倒しにしていた。職員の部屋もすべて覗いてみたが、科学者という生物は物欲が欠けてるのか、ほとんどの部屋がすっきりと空洞のような様を呈していて、壊滅の跡こ
そあったものの、他の部屋に比べれば廃れ具合はマシなほうだった。
私のものだった部屋に入ると、渡嶋さんからもらった玩具の類は床に散らばったまま残っていた。皮を破られて中から綿を引きずり出されたぬいぐるみだったり、箱は踏み潰されて本体は折り目の跡をくっきりつけられてしまったボードゲームの板だったりと、他の部屋と比べても劣らずの悲惨さだった。
暴動か何かでも起こったのだろうか? ここは国営の施設だったから、政府に不満を持ってる人たちがいればここを襲撃の標的に選ぶこともあり得るだろう。
明確な情報がほしくて、資料室の資料や事務室の日誌だったりに目を通すも、望むものは何も得られなかった。
唯一、希望が持てるのは館内に死体が転がってないことだけだった。もしかしすると、血の染みくらいはあるのかもしれなかったが、仮にあったとしても周りの荒廃具合に紛れてわからないのだから調査のしようがなかった。
渡嶋さんは生きてるのだろうか? 無事なのだろうか? 無事だとして今どこにいるのだろうか? 私は彼女に再会することができるのだろうか? あの日の夜、永遠の別れを覚悟したはずだったのに、いざ戻ってくると、恋しさと愛おしさが抑えられなくなりそうだった。
探したりないところはなかったのか、と二日ほどかけて諦め悪くも建物内を何周かしたが、ただ腹が減るだけだった。ここ数日、何も口にせずに活動していた。
コンビニかスーパーにでも行って無銭飲食するか、もしくは鳥や魚でも捕まえて腹を満たすか、何をするにせよここに籠ってては腹は膨れない。錆びついた門扉をまた飛び越えた。
研究所職員は行方不明だし、どうせ住民に見つかる心配もないのだから、と大胆にも翼を隠しもせず昼の街を進んでいた。それが仇になった。
ある家の前を通ったとき、玄関前にすっかり見慣れたコンテナが置いてあるのが見えた。
通り過ぎようとすると、直後玄関扉がガチャリと開いて、中から顔を出した女性がこちらに目を向け、ばっちりと合ってしまった。彼女の視線は私の顔から翼のほうに流れて、驚きのあまり両目を一層大きく開いた。
自分の不注意さを呪った。
空腹もあって、あとは慣れもあって、危機意識が緩んでいた。自分が化け物だということはわかってたのに、差別と虐待という言葉をあれほど自分自身の脳にすり込んでいたのに、私は平気な顔をして堂々と街中を闊歩していたのだ。
いい加減馬鹿すぎると思った。
今からでも飛んで逃げれば幻覚を見たと思いこんでくれるかもしれない。しかし、その前に悲鳴を上げられたら一巻の終わりで、翼をそぎ落としでもしない限り、この街に戻ってくることはできないだろう。
一縷の望みをかけるように、顔を隠すように背けて飛翔する体勢を取る。いざ飛び立たたん、と足を踏ん張って、
「もしかして、針馬翔さんですか?」
「……………………………」
久々に耳にした自分のフルネームに、その姿勢のまま固まってしまう。血管に冷や水が通過したように血の気が引いて、脳内をコンピュータウイルスのような文字群が埋め尽くした。その結果ようやっと出力された一言が、
「どうしてですか?」
というありきたりな台詞だった。
「やっぱり………その翼、3年前に研究所を抜け出した針馬さんですよね?」
「――私を捕まえるつもりですか?」
「えっ。ああ、そうですか。知らないんですよね」納得したように言う。「その心配はいりませんよ。研
究所はもうとっくに機能していませんから。3カ月ほど前でしょうか、武装した群衆が暴動を起こして研究所は崩壊したんです」
やっぱりか……とすっかり様変わりした建物の様子が脳裏に蘇る。
「暴動が起きてから数時間が経ち、ようやく警察隊と自衛隊が駆けつけた頃には、建物は好き放題荒らされていて、人的被害も取り返しがつかないほどで、死人も数人でました。遺体はあとで全員分回収されましたけど」
憐れむように教えてくれる。抜け出したとはいっても、私の故郷である。
「元はといえば国民と政府の摩擦によって生じた暴動でしたけど、あそこも政府の機関のひとつでしたからね。重要書類だけ持ち去られて、あとはトカゲの尻尾切りです。残ってた職員に冤罪と責任を押しつけて、そのまま研究所は閉鎖。私はあそこの元用務員だったんですけど、その日は偶々外の清掃をしていて、暴動が起こった途端、敷地外に逃げ出しました。私以外にも出張してた人だったり、軽症で済んだ人もいたんですけど。全体的に言ったら壊滅といっていい状態でしょうね」
「あのぅ、無事だった用務員さんはあなた一人だったんですか?」
「どうでしたかねぇ……。私が情報を得られたのも、尻尾切りされて国民側の一人になったあとでしたし、政府の情報がどこまで信用できたものかもわかりません。けれど、多分私一人ということはなかったと思いますよ。群衆の側だって無知な用務員に暴力振るうより、学者どもを攻撃したほうが済々したでし
ょうし」
「暴動のあとで、施設の知り合い同士で連絡取ったりはしてないんですか?」
連絡先の中に渡島さんのアドレスがあれば……。
「なるべく面倒事は避けたかったから、あれ以降誰にも連絡取ってないんです。もちろん心配なことは心
配ですけど、こっちが連絡しても向こうに迷惑かかるだけかもしれませんし。何より向こうから連絡が届いてないことから、無事だった仲間も私と同じように考えてるんだろうと思いまして」
目の前で育たんとしていた希望がしおしおと萎れていく。
本人がそう言うなら強情に聞き出すわけにはいかない。彼女の平穏を脅かす権利なんて私にはない。そ
れに渡嶋さんが無事だった場合、彼女とコンタクトを図ることによって、彼女の身の危険がただ増すだけかもしれないのだ。
偶然でも起こって渡嶋さんと遭遇しない限り、彼女の無事は確認できない。
悲観的に考えていても気が塞ぐだけだし、いっそ楽観的になってしまおうと思った。彼女はきっと今でも無事でいて、ご近所と同じように自宅に閉じこもって暮らしていてる。その中でも、あの太陽のような笑みをいつも絶やしていないのだ。
そんな希望が少し見えただけでも、目の前の彼女と接触できたのは有益だった。腹も減ったし、そろそろ別れを告げようと思って、
「良いことを教えてくださってありがとうございました。私のことはどうか誰にも口外しないようにお願いします」
「えっと、うん。あのさ…………」
そこで彼女は口調を切り替える。
私は憶えてなかったが、施設の子供だったかつては、こんなふうに話しかけてくれてたのだろう。渡島さんにも似たお節介さと母性を含んだ喋り方で、
「良かったら、しばらく泊っていかない? 昔のよしみでさ」
「今は廃墟となってしまいましたが、私はあの元研究所に泊まるつもりですので。迷惑もかかるでしょうし、遠慮させてもらいます」
「うーん。どうしてもって言うなら無理強いはしないけどさ。じゃあ何か作るから、せめて夕飯だけでも食べてかない?」
「どうしてです?」
「えっ!?」
「元同僚と連絡することさえ控えてるのに、私なんか家に入れたらその努力も水の泡じゃないですか?」
「………翔くんは気づいてなかったかもしれないけど、私たち職員にとっては昔のきみは本当に我が子みたいな存在だったんだよ。そりゃ、翼をもってる子供なんてきみ以外にはいなかったけどさ。私たちなんて皆寮生活してて、子供がいないのはともかく、独身率も高かったから。小さなアイドルみたいな存在だったんだよ」
彼女の言うように私はそんなことには気づいてなかった。その事実を知った今も私の中で母親はあの四人だけだったし、中でも唯一慕っているのは渡嶋さんだけだった。
その後も何ターンか同じような問答を繰り返して、結局押し切られるようにして家に上げられた。しかし冷静になって考えてみれば、今の状況は私にメリットはこそあれデメリットはないのだ。食料や寝床に困ることはないし、地域住民にこそこそする必要性も減る。
前回のように実は彼女に恨まれていたという可能性も危惧したけど、私の正体は初めからバレてるのだし、もし恨みを晴らしたいのなら、今すぐ悲鳴を上げるか、どこかに連絡するかして、私の計画を頓挫させるか、私の身の自由を奪うかするだろう。
数日経って、その間念のために警戒心を維持していたけど、陰で何か行動している気配もなかった。
警察署で得られた目撃証言などのデータを元に、毎夜その周辺を散歩して怪しい人物がいないかだけ確認を続けていた。16年前に姿を消した女科学者で、しかも私は会ったことすらない。できることは初めから限られていた。安全を第一に考えると、昼間は行動できなかった。
時計の短針はとっくにてっぺんを過ぎていて、畔田さん――家主の名前――から貸してもらった鍵で玄関を開けた。
「はあ…………」
廊下奥に灯る灯りを見て、私は盛大なため息を吐いた。
「借りを作るのが嫌だから、迷惑だってかけたくないんですが」
小声で愚痴をこぼして、靴箱の上に置かれてる平麺のような薄い木で編まれた小物入れに鍵を入れる。
気を遣わないでください――とは、毎夜のように畔田さんにお願いしてるのだが、彼女は聞き入れてくれるつもりがないようだ。
居間へと続く扉を開けて、今日も同じように、
「この時間になったら寝てくださって構いませんから」
と口を酸っぱくするも、
「いいのよ。どうせ昼にたっぷり寝てるんだから」
「夜に寝てくださいよ。昼夜逆転は健康に良くありません」
何せ、今のご時世なのだから、体調を崩すことが大事につながりかねない。もっとも、私がウイルスを運んでこさえしなければ心配いらないのだし、外に出たところで他人と接触することはないのだが、ウイルスにはまだ未知の領域があるので、万が一を考えないわけにもいかない。そうでなくとも、恩人が体調を崩しでもしたらそれだけで心苦しく感じるし、今後の外出だって気兼ねしてしまう。
「夜更かしは夜更かしでも、勤勉さゆえの夜更かしなら褒められるべきじゃない?」
畔田さんは両手で広げてた本の表紙を見せる。タイトルはドクターストーンと書かかれている。
「漫画じゃないですか……。勤勉じゃなくて娯楽ですよ」
「けど、もしこのまま世界が消滅して一部の人間だけ生き残ったら、この本に倣うでもしないと復興なんて夢のまた夢じゃない」
彼女の行動は滑稽だけど、日本の人口が半数にまで削られた現状を思うと、その心配を笑ったりはできない。
「シリアスな心意気なんですね」
「まあ、そうでもないんだけど。漫画は楽しんで読まなくちゃ損だから」
「…………そうですか」
お気楽に笑ってる彼女を見てると、表情豊かな渡嶋さんを思い出す。
「でも、無理だけはしないでくださいね」
「大丈夫よ。自分の身体のことは自分が一番わかってるんだから。それよりも、運動不足のほうが心配ねえ。毎日出歩いてる翔くんがちょっと羨ましいわ」
「ええまあ」
なんだったら空だって飛んでる。
私が想像するに現在の日本国民らはかつて私が研究所にいた頃のような閉鎖的な生活をしているのだろ
う。今、あの頃の生活に戻りたいかと聞かれれば首を振らざるを得ない。身体を動かせない、外の空気に触れられもしないというのは誰にとってもストレスになる。
「あ、そうだ。翔くんの誕生日っていつだっけ?」
「えっと……」
「ここ数年は祝ってないんでしょ? だったら今年は盛大に祝おうよ」
「あの……そういうのはいいです。あんまり長居するつもりもありませんし。もう随分かけてることは自
覚してますけど、出来る限り他人に迷惑かけたくないんです」
「なんだか冷たいなあ。せっかくの共同生活なんだし、翔くんがいつ去るつもりなのかはわからないけど、せめてそれまでの間は楽しもうよ。もっとフレンドリーになってくれていいんだよ」
「楽しさの種類が違うんですよ。私とその他大勢とでは。所詮異形の翼を持った奇怪な化け物が、周りと同調して暮らすなんて不可能なんです」
「…………………」
畔田さんは残念そうに上下の唇を合わせて、
「そっか……そうだよね」
――じゃあ、何かしてほしいことがあったら遠慮せず言ってね、
といつも通り親切さとお節介さで言ってくれた。けれど、私は何も頼みごとをするつもりはなかった。何度も言うようになるべく迷惑はかけたくないのだ。