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私の使命

    4


 野生環境で暮らしてきて、動物の命を奪う機会は何度もあった。というより、命を奪わない日々のほうが少なかった。しかし、人間の命を奪ったことは一度もなかった。


 私は今日、初めて殺人という罪を犯してしまった。


 布団の上に倒れ伏してるのはすでに冷たくなった人型で、かつては血の通っている人間だった物体だ。喉の辺りがぱっくり割れて、そこから柘榴のような真っ赤な血液がこぼれ出ている。


 ……いや、人を殺すのはこれが初めてではなかったのか。


 この世に生を受けたとき、私は産みの親である母親を絶命させているのだ。それも目の前の死体と同じように腹の真ん中をすぱっと切り裂いて、血まみれの惨状をつくったのだ。ナイフのような羽根で切り裂いて……。男性の喉を割ったのも、羽根の鋭さでだった。


 殺すつもりは……本当になかった。


 彼は、よっぽど血迷ってて身体の制御が効かなかったのだろう。翼に振り下ろされたはずだった警棒は、軌道が外れて、私の脳天に狙いを定めた。


 当初の狙い通り翼に振り下ろされていれば、私も避けようとはしなかったと思う。一日親切にされた反動もあってか、化け物という暴言はそれだけ私の胸をえぐっていた。いっそ翼を失くしたほうが幸せに生きられるのかもしれない、と思った。それで彼の怒りが鎮まるなら、妻一人を失った悲しみが緩和されるのなら、尚更よしとできると思った。


 しかし現実はそう都合よくは進まず、野生で磨かれた勘の良さも加わってか、反射的に翼で顔面を覆っていた。


 そして翼の先端が彼の喉をかすり、さっき描写したような惨状をつくった。


 死ぬ直前彼が発した言葉が耳に残っていた。


 ――私は警察官じゃない


 うつ伏せになってる彼の身体を横向きに起こして、胸ポケットを探る。布地から侵入した血液に汚れてはいたが、警察手帳だということは瞭然だった。しかし開いてみると、内側の顔写真は家主の彼とは別人のものだった。


 顔を近づけて名前も確認してみたが、家の表札のとは苗字が違っていた。


 警察官じゃない、という彼の言葉は真実だったらしい。


 どういうことなのか、という謎は三階に上がってすぐに解き明かされた。ブルーシートの上に乱雑に転がされていたのは、女性の死体ではなかった。腐りかけていて、形も崩れ始めていたが、死体の顔が手帳の顔写真と同じものだというのはわかった。


 警察官の衣装を脱がされて、下着以外は素っ裸だった。無念さを感じながら、起こった出来事を想像する。


 恐らく、数日前にこの本物の警察官は町内をパトロールしていた。そこで、不法に外出していた家主を見つけると、昨日家主が私にそうしたように、声をかけて注意した。そのあとの展開までは想像の範囲外だ。口論になったのかもしれないし、揉み合いになった挙句殺してしまったのかもしれない。あるいは交番まで連行されそうになって、とっさの隙をついて殺したのかもしれない。


 いずれにしも家主は警察官の死体を家にもって帰り、自宅の三階に隠して、制服だけ奪って自身は成り代わった。


 彼がパトロールの真似事をしていた理由は推察できる。奥さんの死に心の整理がつけられなかったという言葉はきっと本当で、その不順がいもしない犯人捜しという奇行に彼を走らせてしまった。


 その目的を遂げるにあたって、私は最適の人材だった。翼が生えた人外なんて、この世に二人といない存在だ。


 寝床を貸してくれたのも、お風呂を沸かしてくれたり、ご馳走を振舞ってくれたりしたのも、私を油断させて殺害するための伏線で、仮に私がもっとぐっすり眠っていたり、トイレで異臭に気づかなかったりしたら、その伏線はかっちりはまっていただろう。


 血まみれになって布団に転がってるのは彼じゃなくて私のほうだった。


 目の前の仏に手を合わせると、私はまた二階の和室に戻って、家主から制服を脱がせた。風呂場に入って、変色してしまった制服を揉むようにしてよく洗った。ワインのようにも見える鮮やかな赤色の水が排水口を中心に渦を描いていた。


 きつく絞り終えてから、天日干しでもしようと思ったけど、却下した。余所の家同様にどうしてかカーテンは全面締め切ってあって、郷に入っては郷に従えが面倒事を避ける基本原則だと思ったので、天日干しは諦めて、ドライヤーで乾かすので妥協した。


 まだ生乾きの制服を羽織ろうとしたが、翼ごと収めようとすると前のボタンが合わなかったし、お腹側に回すようにして折り畳んでも、すべてを綺麗に収めるのは無理だった。そこで翼の先っぽをお尻のほうから飛び出させるように、自前の翼で燕尾服の尻尾をつくるようにして着たら、なんとか違和感なく着こなすことができた。


 しかし、違和感がないのは正面から見たときだけで、横や後ろから見られてしまったら不自然さは一目瞭然だろうと思った。少しでも目だたないことを意識して、夜中に出かけることにした。


 この衣装があれば、もし誰かと遭遇した場合でもパトロールという言い訳が立つ。これからすることを思えば念には念をいれることが重要だった。


 夜になって家を出た。


 このまま上空へ飛び立ってしまっても良かったのだが、彼に殺されそうになったとき、無目的に過ごしてきた私の頭にぱっと使命が思い浮かんで、それを達成するためには拠点が一つ欲しかった。


 ここを拠点にするなら、遺体を二体も放置しておくわけにもいかなかったし、なるべく早く彼らを埋めるための山を見つける必要があった。


 無人の駅の壁に飾ってあった大きな地図を見て、この地域の地形を知る。近い山は歩きで30分ほど離れたところにあるようだ。


 家に帰る前にホームセンターでシャベルと、これは売り物ではなかったけど――業務用のリヤカーを借りて、シャベル代だけ家主の財布から抜き取ったお札で支払った。リヤカーは目的が済んだら即返す予定だった。


 家に着いて時計を見ると、まだ午前の1時になったばかりでなんとか今日中に仕事を終えられそうだと思った。


 血まみれの敷布団と、茶色い染みの浮き出てるブルーシートを使って彼ら二人を簀巻きにする。足まで隠れるように気をつけてリヤカーに積み重ねた。


 前に重心を寄せるためにシャベルだけは腹に持って出発進行した。


 目的の山に着くころにはさすがに汗だくで、これは下見をしなかった私が悪かったのだけど、山の頂上に伸びる一本道は階段で、リヤカーを引っ張るのに適しているとはいえなかった。


 だからといって、人間ふたり分を抱えてこの高さを上るというのも非現実的で、結局は整地されてない獣道のような道を選んだ。


 山の中腹辺りでリヤカーを止める。死体を埋めるためだから、頂上まで行く必要はなかった。


 手のひらを見るとマメの奥に血が溜まってるのが見えたけど、気にせずシャベルで穴を掘った。掘り終える頃には太陽はすっかり顔を出し終えていて、けれどやはり地域住人の気配は一切なくて、私の作業にも滞りはなかった。


 二人を埋め終えて山を下りた。変色した布団とブルーシートには山の泥をまぶしておいて、汚らしくしたのをごみ置き場の山に放置した。使い終わったリヤカーはホームセンターに元通りの位置に返し、お尻に突き出す翼を輝かせながら帰宅した。






 私の使命とは私に異形の翼を与えたマッドサイエンティストを探し出すことだった。連想の順序に関しては至ってシンプルで、狂気性を帯びた彼を前にして「マッド」という単語が思い浮かんだのと、あとは異形を指して化け物と罵られたことも発想源になっている。


 私には複数母親がいて、中でも心から慕ってるのは施設の渡嶋さんだけで、実の母親には見捨てられてしまったし、出産母は肺呼吸を始める前に亡くなってしまって顔も名前も未だに知らなかった。ここまでで三人だが、この翼が私の大きなアイデンティティの一つであることを思うと、現在指名手配中のその科学者は母親の四人目に加えられるのではないだろうか。


 彼女の犯行によって大空を泳ぐという能力と楽しみを得られたのだが、そのことに感謝する気持ちよりも、くすぶるような憎しみのほうが強かった。言いたい文句は数えきれないほどあったし、一発くらい蹴飛ばしてもやりたかった。


 しかし何の手がかりもない今の私では彼女の居場所をつかむことすら困難だ。ところが、この家の中にはインタネットがあって、私の手には警察官の制服があって、これらを駆使すればただ飛び回ってるよりは有益な成果が期待できる。


 その日から私は夕方のパトロールを習慣にした。ずっと閉じこもってるよりは体を動かしてたほうが閃きは訪れやすいと思ったし、カーテンの隙間から誰か覗いてるかもわからない状況でパトロールをサボっていたら、警察官の身に何があったのかと勘繰られるかもしれない。


 家主の家から私が出入りしてるのを目撃されるのも心配だったが、様子を窺いながら慎重に行動を重ねてる今のところは、ご近所さんに気づかれてるということもなさそうだった。







 パトロールを始めて一カ月ほど経ち、他の警察官の姿が見当たらないことに気づいた。


 たまに空に見えるのは食糧などの生活必需品を詰めたコンテナをぶら下げてるドローン数台だけで、それを受け取るために一瞬だけ外に出る住人の姿も見えたことはあったが、なるべく外の風景を目に入れないようにしているようで、私に気づく様子もなかった。


 こんな平和で軽犯罪すら起こりそうにない光景を目にしたら、わざわざ暑苦しい制服着てまでパトロールする気力は起こらないだろう。それでもパトロールしろというのが本部の達しなのだろうが、命令が建前だけのものだというのは恐らく暗黙の了解で、それを律儀に守っていた――殺されてしまった彼はよっぽど真面目な性格をしていたのだろう。その真面目さが彼の不運を引き起こしてしまったわけだが、私は改めて心の中で敬礼を送った。


 交番もやはり無人だった。


 電気をつけると、机からフローリングまでの全面を薄い一枚の埃が覆っていて、つい咳き込みそうになった。誰が置いていったのか、傘立てには半壊した傘が一本とその他に色つき傘が三本立てられている。建物内からガラス壁の向こうを見ると、雨よけから目の粗い蜘蛛の巣が垂れ下がっていて、ガラス壁のくすみも加わってか、道路を挟んで位置する民家やコンビニが列をなす光景は、長い経過によって色彩の薄れた写真のようだった。


 町全体が歳をとって腰の曲がった老人のような空気を発散している。きっと日本のどこでも似たような風景が広がってるのだろうと思った。日本中の土地が、世界中の土地が老けてしまった。


 あの堅牢な研究所は今頃どうなっているのだろう? 渡嶋さんは無事なのだろうか? あの日から何度も繰り返し自問してる問いがまた頭の中で大きくなった。


 埃が舞わないように静かに足を運んで、受付奥の控え室に入った。


 探してるのはパソコンだった。研究所で暮らしていた私は電子工学系の知識も備えていたので、指名手配犯をデータベースにかけるにはアナログな資料よりも扱いやすいだろうと思った。本庁でもない交番のファイルにどこまでの情報がしまってあるのかはわからないが、インターネットなどで世間的に出回ってる情報量よりは格段に多いはずだ。


 家から持参してきたパソコンと繋げて、いくつか当たりをつけたファイルをコピーする。8割くらい無駄な情報も混ざってしまってるだろうが、取捨選択は帰ってから行う。両方の電源を落として、パソコンを鞄にしまった。





 

 世間で流通するのはいつも確度の高い情報だけだ。指名手配されるほどの重犯罪者になると、いらぬ承認欲求だったり、独りよがりな妄想だったりを発揮して、検討に値しなかったり、根拠の乏しすぎる情報を送ってくるような市民が大勢いる。一方で、監視カメラの映像だったり、事件関係者の声だったりから絶対的に重要視される情報もあって、ニュースなどで取り上げられるのはいつもこれらの情報ばかりだ。


 すべてを報道するわけにはいかないし、大半の情報を切り捨てるのも当然の道理なのだが、余分なものとして処理された情報の中にも稀に有益な情報というのが紛れこんでいる。今日盗んできたデータは余分だと判断されてマスコミでは報道されなかったものだった。


 目撃証言はいくつかの都道府県に散らばっていたが、私は研究所の位置を支点にして、情報群を検討することにした。


 16年前、フラスコの中の受精卵に彼女がどんな処置を施したのか、まだ明らかになっていない。新人類と銘打って鳥人間としての私の後続を誕生させようと日本中の科学者が躍起になってるそうだが、未だ成功例は現れていない。彼女はどうやって鳥類の特徴を私に植え付けたのか? 


 異形の翼を持った私は世界で唯一無二の人間で、彼女にとっては研究成果であり、いわば作品のようなものでもあるはずなのだ。そんな作品の成長経過に対して、果たして全くの無関心でいられるのだろうか、という話だ。それも、科学者という好奇心の塊のような生物が、自分で作りだした未知の存在に対して全くの無関心を貫けるのだろうかと疑問を覚えたのだ。


 ――番場かよこ。


 それが第四の母親の名前だった。しかし、そんな文字列はこれまで耳にしたことがなかったし、名も戸籍もすでに変えてるのか、データを漁っても得られるものはなく、調査においてもあまり役に立たなそうだ。


 逃亡前の顔写真も載っていたが、顔なんて化粧や整形でいくらでも変装できるだろうし、未だに逮捕されてないことからも、実際に変装していたのだろう。性別だけは確かだけど、それだって性転換してるかもしれない。


 加えていえば、ここまでの空想は番場かよこが生きてるという前提があってこそ成立するもので、仮にその前提が崩れたなら、私はいもしない亡霊を探し続けるはめになる。しかし一度決心を決めた以上は前提を信用して前に進むしかない。多すぎるデータをすべて漁るわけにもいかないから、自分勝手に証言に当たりをつける必要もあった。








 研究所のある故郷にさっそく戻ろうと思った。一度抜け出した身である以上戻るのは危険だったが、調査のためには戻らないという選択肢はなかった。その際、拠点に使い続けるにはここは距離が遠すぎたから仕方なく放棄することにした。


 あの建物に向かうための足として、電車の運行は長らく停止していたし、道路には車の一台も通ってなかったから、そんな目立つ行動をとるわけにもいかない。歩きや自転車のほうがまだ検討の余地があったけど、長時間人目につくようなリスクを負うわけにもいかなかった。


 モグラみたいに地下を潜って進行できればそれがベストだったが、私の手にはかぎ状の爪なんてない。消去法で残った手段として、私は空を飛んでくことに決めた。人は空に注意を向けづらいものだし、研究所の職員たちなら私の出戻りを期待して見上げてることもあるかもしれないけど、それを気にするのはひとまずあの近辺に入ってからだ。


 ――夜になって、闇に紛れるようにして、家を後にした。


 直線距離を選んでひたすら直進する。街灯で灯りを保ってるだけの下界の景色はまるで町全体が置き物になったようだった。一枚絵のように風景は変わらず、時間が停止しているようだった。人も車も動くものがなくて、野良犬や野良猫でさえも見当たらなかったのはウイルスで絶滅したからなのか、どこかで保護されてるのか、小さく過ぎて視界に入ってないだけなのか。


 インターネットで調べれば答えは得られるのだろうけど、興味がないから調べるつもりもなかった。さっき挙げた可能性のいずれかだろうと思う。


 それと同様に、どの家もカーテンを閉め切ってる理由にも関心はなかった。かつて研究所にいた頃に社会心理学の本を読んだことがあったが、スペイン風邪やペストなど過去のパンデミックが起こった際にも根拠のない迷信だったり、誤った予防方法だったりが世間に広まったらしい。


 APHウイルスは窓ガラスを透過するだとか、そういう噂が流れているのかもしれないし、それは迷信なんかじゃなくて真実なのかもしれない。実は、私はもう感染していて、今は潜伏中なだけなのかもしれない。


 県をいくつかまたいで、たまにコンテナを運ぶドローンとすれ違って、ようやくのこと私はたどり着いた。

 


 しかし、久しぶりに見た研究所はあっさり壊滅していた。

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