一宿一飯の恩
3
「――とりあえず風呂にでも入ったら?」
一人暮らしにはやや大きい警察官の彼の家に着き――玄関に上げてもらったところで、マスクを取った彼は言った。
彼の言うことももっともだった。
これまた一人使いには大きな靴箱の横にひょろっとした観葉植物があって、さらにその隣に姿見があったのだが、全身を映してみると、髪は伸びっぱなしのぼさぼさで、洋服には所々汗の染みがかさぶたのように固まってしまっていた。一応何日かに一回は夜中に地上に降りて、湖や海辺で水浴びをしていたのだが、文明社会で暮らしてる文化人と並べば見ずぼらしさは拭えない。
久しぶりのお風呂も乙だと思ったので、好意はありがたく受け取ることにした。
しかしいざ浴室に入ってみると、翼が面積を占領してしまって、窮屈さばかりが際立ってしまった。警察官の彼はわざわざお湯まで沸かしてくれていたようだが、足湯はまだしも肩まで浸かることは出来そうになかった。
研究所に住んでたときは共用の大浴場を使っていたし、入浴に際して窮屈な思いをする機会はなかった。この分だと、トイレを借りるときにも同じような気分を経験しそうだ。
お湯を掬って身体を流し、洋服は軽く洗って絞って、水気が残ってるままのをそのまま着た。私の上着は背中に穴が二つ開いてある特殊なものだったが、普通の洋服でも同じように穴を開ければ同じ仕様になる。けれど、現在世話になってる他人の洋服を穴あきにするのも忍びなかった。
脱衣所から出て「お先に上がりました」とお礼を伝える。
「早かったな。烏の行水という奴か?」
警察官の彼は冗談めかして言ったが、私の姿は烏というより白鳥に近い。うぬぼれではなく、翼の色のことを言ってるのだ。
交代で入った彼が上がるまでの間、手持ち無沙汰にうろうろしていた。彼は脱衣所から出ると、「今から飯作るから、そこら辺に座っといて」と言った。客人扱いは心苦しかったけれど、家事の経験がない私に手伝えることもなかったので、素直に従った。
料理が出来あがり、皿を運ぶのは手伝った。唐揚げやコロッケなどの揚げ物ばかりだったのは私という若者を精一杯歓迎してくれてるからなのか、あるいは彼の好みが偏ってるからなのか。
量も量だったので腹は膨れたが、味に関しては言わぬが花というものだった。別に不味いわけでも食えない味でもなかったのだが、強いていうなら不慣れな味だった。揚げ物のみならず、その他の料理に関しても不慣れさを感じた。まるで――普段料理をしない人が見よう見まねで料理したような……あるいは、ここ数カ月のうちに独学で料理をし始めたような……そういうぎこちなさを感じた。
しかし居候の身としては味にケチをつけるわけにもいかないし、先述のように食べられない味ではなかったのだ。二人して大皿を空っぽしたあとで、箸をおいて両手を合わせた。
「ごちそうさま」
この言葉を口にするのも久しぶりだった。
ダイニングと同じ空間に居間があって、扉を一つ隔てて和室があるのだが、そこに布団を敷いてもらった。
3年間野生の生活に適応していて、眠りはすっかり浅くなっていた。久しぶりの布団は私には贅沢に思えたが、その心地良さをもってしても快眠は難しいだろうと残念な気持ちだった。しかしそんな悩みは実際無用なもので、目を覚ました頃には身体中の泥を洗い流したように爽快な気分を感じた。
時計を見るとまだ早朝の4時だったが、昨夜布団に入ったのが8時だったので、睡眠時間は十分とれていた。顔を洗う前に用を足しとこうと思ってトイレに入ると、やはり翼が邪魔だった。寒さに凍えるような格好で無理に身を縮めて、なんとか便座に座る。研究所で用を足すときには無意識のうちにいつも和式を使っていたが、何気ない便利さというのは不便になってから気づくものだと気づいた。
と、水を流したところで異様な臭いがすることに気づいた。
排泄物の臭いとは違う、普段嗅ぎ慣れない何かが腐ったような臭い。しかも、その臭いは天井のほうから漂ってきていた。この家は三階建てで、ここは二階だから臭いの発生源は最上階にある。
3年の間に磨かれた野生の勘なのか、無関心を貫くべきだと直感が告げていた。この腐臭には尋常でない生々しさがあった。
――そういえば、と和室においてあった仏壇とその中の写真立てを思い出す。その写真には警察官の彼と同じ年齢くらいの女性が映っていて、この世の不幸など知らないかのように幸福な笑顔を浮かべていた。恐らくあれは彼の奥さんなのだろう。そして彼女はすでに亡くなっている。
確実な根拠なんてないが、「人と話すのは久しぶりなんだ」と言ったときの彼の表情と、不慣れな料理の味から、奥さんが亡くなったのは割と最近のことなのかもしれないと推測できる。具体的にはここ4カ月以内のことだったりして……。
APHウイルスが死因だったのか、他の死因が彼女を襲ったのかは知らないけど、こうまで死人が続出している世の中で果たして葬儀屋は機能しているのだろうか? 不謹慎な想像だとはわかってるけど、最初のほうはきっと客数が増えたくらいの認識だったのだろうと思う。
しかし日本の人口はすでに半分まで減っているのだ。葬儀屋の従業員だって、同じ割合だけ減ってるはずだ。そんな状況で、需要だけが爆発的に増えて、まともな営業ができるのだろうか? 世間知らずの私は知らないが、仮に家族や知り合いが亡くなって火葬できない場合、個人の手でどうにか処理する以外ないのではないだろうか?
土葬。それがいの一番に思いつくやり方だと思う。
日本の法律では認められてないけど、世界的には土葬が主流の国もあり、非人道的な処理というわけではない。人間は有機物だから土に埋めてしまえば、あとは地中の微生物たちが勝手に分解してくれる。
けれど、中には身近な人の死を受け止めきれない人だっているのではないだろうか。
そもそも人の死なんて自分一人で抱え込むようなものじゃない。だからこそ葬儀というのがあって、手続きの慌ただしさや異口同音なお悔やみの台詞にもまれながら悲しさを紛らわすことができる。
今の世の中でも、器用に自分なりに気持ちの整理をつけられる人間はいるだろう。
けれど、警察官の彼は奥さんの死を前に、そこまで器用に動けなかった。
だから、彼はまるで魂のこもらない人形でも扱うように、この家の最上階に、自分の寝室からも生活範囲からもなるべく離れたところに奥さんの遺体を放置した?
「いやこんなのは所詮私の妄想に過ぎないんだ」
――階段を上がってみればすぐにわかることだ。
長い間息を潜めていたぼくの好奇心が悪魔のようにささやいてくる。その好奇心は学術書やレポートを読み漁ってたときのような知的好奇心とは違って、野次馬的でもっと俗っぽい好奇心だった。
自分の中にこんな種類の感情があったのか、と新たな発見に驚く。あの小さな研究所にこもり続けて、俗っぽさとは無縁の生活を送ってきて、私は自分の心の純粋さをどこか過信してしまっていた。しかし今はそんなことに考えを巡らせてるような状況でもない。
三階に上がって死体があるのか、ないのか確認する――たったそれだけのことなのに恐怖心がうじ虫のように湧いてくる。危険だと、脳の赤信号が灯る。
「いやむしろ、身の安全を確認するためには調べるべきなんだ」
もし死体があったなら、上空へ避難し、これまで通りの野生の生活に戻る。一宿一飯の恩はあるし、遺体を放置するなんていう狂気性が悲しみゆえのものだったのなら、なんとか目覚めさせてあげたい思いはある。
しかし私はそこまで自分に期待していない。ただ異形の翼をもつだけの化け物が、どうやって狂った人間の悲しみを取り去ってあげられるのだ?
私にできるのは立つ鳥跡を濁さずということわざをなぞって無駄なことをせずにさっさと立ち去ることだけだ。そのためにはまず一階上の遺体の有無の確認をしなければ――。
扉を開けて廊下に出る。と、目の前に黒い人影があった。
少ない光量の中でも目の隈は際立って目立っていて、背中には背後霊でも背負ってるかのような重苦しさがある。
背後霊の重みに負けたように一歩を踏み出した。合わせるように、私も一歩下がる。活力のない足取りでもう一歩を踏み出した。背中の翼が脱衣所の扉にぶつかった。扉に張りついてるうちに彼はさらに距離を詰める。
追い詰めたというように足をぴたりと止めた。警察官の彼は影絵のような闇色のシルエットをしていた。
手を伸ばしてくる。
こうなったら彼を押しのけて玄関まで降りてそのまま空へ避難しよう、と素早く計算したとき、パッと音がして目の前の影絵が消滅した。不気味な暗さはすっかり取り払われていて、正面にいるのは隈も深くなく、背後霊も背負ってないただの中年男性で、今日会ったばかりの親切な警察官だった。
「暗くしてると危ないだろう?」
彼の口調には狂気さの欠片もなかった。私の妄想はすべて間違いだったのかもしれない、そんなふうに思わされる。
「どうして二階にいらっしゃるんです?」
「ああ、喉が渇いたからなあ」
コップを掴んで水を飲むジェスチャーをする。家主は彼なのだし、その理由自体もいたって正当なものだ。
けれど、ここで引き下がるつもりはなかった。
「あのぅ、なんだかトイレから異臭がするんですけど」
「そうかな? 私は気づかなかったけれど、もしかしたら下水管に不具合があるのかもしれない」
「いえ、天井から臭うんです」
「天井から?」
「ええ、何かが腐ったような臭いが。鼻を近づけると、はっきりわかります」
「本当に? まさか人間の死体があるわけでもあるまいし。鼠か猫かハクビシンか、換気扇か壁の中に潜んでた小動物が死んだのかもしれない」
………意地でも認めないつもりのようだが、私の鼻はあの臭いの異様さを憶えてる。小動物の死体ならもっと小規模の腐臭を発するだろうし、野生の動物というのは死んだ仲間を共食いする習性をもっている。個体で棲んでいたならまだしも、二匹以上で棲んでいたならそもそも腐臭を発すること自体少ない。
いっそ三階に強行突破するべきかと思った。警察官だから一般人以上の腕力はあるだろうけど、油断してる今なら不意を打てるのではないだろうか。
「なんだ、まだそのコスプレしていたのか?」
「えっ?」
突然話題が転換して、肩透かしを食らったような気分になる。不意をつこうと思ってたら、逆にこっちがつかれてしまった。
「電気があると目がチカチカして仕方ないなあ。もしかして寝るときもつけたままなのか?」
「あ、ええ」
うっかり答えてしまってから、思考を異臭のことに戻す。
「和室の仏壇で見ました。前まで奥さんがいらっしゃったんですよね?」
「あ、ああ」
異臭に言及したときはあれだけ平然としていたのに、奥さんのことについて触れた途端、警察官の彼は
わかりやすく狼狽した。
「失礼だとは承知していますが、答えてください。奥さんの死因はAPHウイルスですか?」
「あ、ああ……そうだ。持病の喘息があったのだが、ウイルスでこじらせてしまった」
「それで、奥さんの遺体はどうされたんです?」
「遺体? どうしてそんなこと聞くんだ?」
「もしかして、三階に放置していたりはしませんか?」
「遺体を放置なんてするわけないだろう。妻の遺体は、に、私は、庭に埋めて…………」
言葉に詰まりながら、死人に化けるように顔色が土色に変わっていく。片手で腹を押さえると、もう片方の手で口元を押さえてしゃがみ込んだ。うぷと喉に異物を通すようなうめきを漏らして、うごごごごと床に吐瀉物をぶちまける。跳ね返った吐瀉の一部が足の甲まで飛んできた。
「大丈夫ですか!?」
「すまない」しわがれたような声で言う。「まだ妻の死には心の整理がついてないんだ。けれど、い、遺体はしっかり庭に埋めたっ」
言いながら、またえずくようにして、胃袋内の残りを追加でぶちまけた。さすがにこれ以上聞くのは憚られる。
丸くなってる彼に手を貸して立ち上がらせる。洗面所でうがいを済ませてもらって、キッチンから水を一杯汲んできて、ついでにバケツに雑巾を入れて運んできた。
水を飲んでもらってる間に、床の掃除は済ませた。
「す、すまなかった」
「…………いえ」
私も頭を下げた。ままならない事情があったとはいえ、彼の吐き気を刺激してしまったのは私の責任だ。
和室に戻って布団でまた横になっていたが、眠気はやってこなかった。異臭の正体は結局不明のままだったが、一回出端をくじかれた今、もう一度確認する気力は湧かなかった。
好奇心への関心なんてもう失せていた。明日になったら別れを告げてとっとと空に飛び立とうと思っていた。
警察官の彼は深い悲しみを抱えているが、それと同時に触れてはいけない闇のようなものも抱えている。その闇はこの家の三階に通じるもので、あの異臭を嗅いだあとでは家全体に妖気のようなものを感じてしまう。
何もかもが不気味で、何よりもっとも不気味なのが不気味さの正体や根本の部分が不明だということだった。
しかしその正体を明らかにしたところで、不気味さが実際的な危険に変わるのは目に見えている。
だからもう関わり合いにならないようにしようと思ったのだ。野生の生活にさえ戻れば私の中ではすべて問題は解決する。
そのとき――タンタンタンッという階段を上がる音が聞こえて、思考が遮断された。この家には私と二人しかいないのだから、その足音が家主のものだとはわかるのだが、また胃の調子でも悪くなったのだろうか、と思った。
それとも、また喉が渇いて水を飲みにきたのだろうか?
足音が止まって、赤子を気遣うようにゆっくり静かに扉が引かれる音がする。誤解であってほしいという引き際の悪い願望を抱きながら、そろそろと目蓋を開いた。
あえなく願望は裏切られた。
視界に映ったのはさっきまでよりがっしりして見える家主の彼で、暗闇で薄目を開けた状態でも彼の敵意は色をつけたようにわかる。
翼で背中を押すようにして、体操選手のように跳ね起きる。正面から向き合う体勢になって、右手に警棒が握られてるのがわかった。
「やはり奥さんの遺体は三階に放置してあったんですね?」
怒りを堪えるように警棒の柄を握りしめる。
「何を言ってる? そもそも妻を殺したのはお前だろう?」
「奥さんを殺した? それはどういう……」
「とぼけるんじゃないっ!!」
一喝されて身が竦んだ。場の空気は彼の怒り一色に染まっていた。
「お前が。お前みたいな変な翼をもってる怪物が、どうせウイルスも厄災も運んできたんだろ。そうに決
まってる、そうでないはずがないんだ!」
「翼は……しかし、コスプレなんでしょう?」
彼自身が繰り返し言っていた。
「だからそれは悪魔であるお前が私を騙そうとして言ってるだけなんだ。お前は、妻を殺したことでは飽き足らず、家に忍び込んでさらなる災いまで運び込もうとしている」
初めにコスプレだと誤解したのは彼だったし、それまで私の知識にはコスプレという概念すらなかった。奥さんの存在は昨夜この和室に入るまで知らなかったし、家に忍び込んだなんて因縁もお門違いで、街中で出会って私を家に誘ったのが彼自身だった。
怒りに理性を支配されて目の前のことが見えてないのは明白だった。言葉の支離滅裂さを指摘したところで、私の言葉はそもそも彼の耳にすら届かないだろう。
なら、彼自身に間違いに気づいてもらうしかない。
「どうして私が厄災の元だと思うんですか?」
「見てわからないのか? お前の姿が化け物だからに決まってるだろう?」
今さらながら、化け物呼ばわりで心が傷つく。やはり私は他の人類とは相容れない異形の存在なんだ。
「ですけど、ウイルスが発生したのは中国なんですよね? 翼はひとまずさておいて、顔立ちや喋り方からして、私が日本人なのは理解していただけると思うのですが」
「発生源だと目されてる中国に運び込んだのがお前なのか、もしくは中国から日本に運び込んだのがお前なのか。お前はどこかで必ず関係している」
「必ず……やっぱりそこまで異様なんですね、私の見た目というのは。私だって、望んでこの姿で生まれてきたわけではないのですが」
彼は「ほう」と言って笑った。
「悪魔のくせに人間らしく悩みやがって。いや、それも演技か? だったら私が翼を折ってやるよ。まともな人間の姿にしてやる」
右手に握った警棒を、左の手の平にうちつけながら和室の中を進んでくる。
「警察官が市民を攻撃していいんですか?」
最後に警察官として染みついた彼の正義心を頼りにした。しかし、返ってきたのは全く予想だにしない言葉だった。
「――お前は無辜の市民じゃないし、私は警察官じゃない」
そう言って、彼は警棒を私の翼に振るった。